流浪のFTMトランスジェンダー、イザベル・エベラール


流浪のFTMトランスジェンダー
イザベル・エベラール(1877-1904)



オラン - Wikipedia



http://ar.wikipedia.org/wiki/%D9%85%D9%84%D9%81:Isabelle_Eberhardt_in_Arab_dress.jpg
イザベル・エベラール(アラビア語wikiより)

「歴史のなかのTG」シリーズ。
マグリブの歴史に疎いからちょっと難しかったぞ。
フランス語やっていたけどさ、日本語を読むのも大変。

★シーディ・マフムードという「男」
「私がそばに近づくことのできないこの偉大なイスラムの女性とはどのような人なのだろう?というのも私はシーディ・マフムードであり、そう扱われ続けているからである―。」
(「南部への帰還」『砂漠の女(Ecrits sur le sable)』P431より)


 この奇妙なフレーズにはわけがある。シーディ・マフムード、彼は「生物学上の男性」ではない。彼の本名はイザベル・エベラール、FTMトランスジェンダーである。敬虔なムスリムでもあったイザベルがカーディリー教団の教祖、ラーラ・ゼイナブに想いをはせるとともにムスリム男性としての規範を守ろうと自覚を新たにする、そんな心境をつづった一文である。


 表向きはジャーナリスト、実はフランス政府の任務をうけたスパイ、レズビアン疑惑、ランボーの私生児伝説、フランスの文学史において特異な地位をしめるこの夭折したFTMジェーナリストのことは長らく伝説上の存在とされてきた。22歳からこの世をさる27歳までのわずか5年の未完の文才を惜しんだ人々によって近年その著作が刊行されてきた。『砂漠の女(Ecrits sur le sable)』、これは唯一日本語で親しむことのできる、紀行文である。


マグリブ〜フランスの植民地支配
 流浪のFTMトランスジェンダー、イザベルの伝記は石井達朗「男装論(青弓社)」にもくわしい。スイスジュネーブでロシア人貴族として生まれ育つ。初めてのイスラーム世界の訪問はアルジェリアの現アンナバ、ボーヌであった。その後、兄の結婚を機にチュニジアアルジェリアを放浪し、最後にアルジェリア・アインセフラでワディ(枯れ谷)の氾濫により、事故死する。フランス政府の命による暗殺説もある。だが、イザベルの人生を語るにはイザベルでさえ自覚していなかったであろう、世界史上のややこしい背景を説明せねばならない。フランスの植民地政策とイスラーム世界の政治的事情、そしてナポレオンのエジプト遠征からはじまる「オリエンタリズム」をベースとした思想的背景である。


 イザベルが生をうけたのは1877年、その2年前からフランスではナポレオン3世によるドイツ・フランス戦争のごたごたで起きたパリ・コミューンを鎮圧、共和国憲法を制定し、第三共和政が行われていた。19世紀の中ごろ、アフリカの探検により「謎の地であった」アフリカの全容があきらかになるとイギリス・フランス・ドイツをはじめ、ヨーロッパ諸国がアフリカ支配に乗り出した。エジプトでは近代化をめざしたムハンマド・アリー朝の財政破綻につけこんでイギリスが植民地支配を強化した。それを是としなかったオラービ・パシャは反乱をおこしたが鎮圧、支配を強化し、隣国スーダンをも支配下に置いた。同じころ、フランスは1834年アルジェリアを併合、1881年チュニジア保護国にし、サハラ地域をおさえ、アフリカを横断してマダガスカルをめざすが、イギリスと衝突、エジプトをイギリスが、モロッコをフランスが支配することで妥協した。モロッコに対しても「平和的浸透作戦」の名のもとでイザベルの人生に深く関係するリヨテ将軍による侵略が行われていた。このような列強の侵略をオラービ・パシャの反乱にみるように他のイスラーム諸国の部族が手をこまねいてみているわけではなかった。


 イザベルの活躍の場となったアルジェリアチュニジア・モロッコは「日の沈む国、西方」、「マグレブ」とよばれる。ハム語族のベルベル人、7世紀にはいったアラブ人、スーダン系の黒人、そして少数のユダヤ人、宗教はイスラームオスマントルコ支配下にはいっていたが、事実上は独立していた。アルジェリアはフランス「アラブ局」として課税対象となりながら、公民権は剥奪されていた。チュニジアは主権を保持していたが、高官はフランスの傀儡でしかなかった。モロッコのスルタンはのちに傀儡政権となる。が、いずれもイスラームの信仰は認められていた。


イスラーム神秘主義教団(タリーカ)―カーディリー教団とティジャーニー教団
 決して一枚岩ではないイスラーム世界。イスラームといってもマグレブでは土着の宗教化したイスラームがあった。イスラーム神秘主義教団(タリーカ)によるイスラームである。イスラーム神秘主義とはあの「大きなスカートをはいた男性がくるくる回るダンス」で有名なスーフィーのことでイスラームの諸学が官僚化、国家宗教化してきたことに対するアンチテーゼとして「もっと日常生活に、庶民的に」という視点で発生した。ようするに「国家宗教」としてのイスラームではなく、自ら「体験し、感じるイスラーム」をベースに修業をつもう、ということだ。もちろん有名なトルコ発祥のメヴレヴィー教団をはじめとする多くの教団があり、のちにイザベルが帰依したカーディリー教団というのは現イラク・バクダードを発祥とするアブド=アルカーディル=アルジーラーニーが創始した最古のタリーカとさ れている。19世紀のアルジェリアでアブド=アルカーディルが独立運動を起こすなど、フランス支配に対して「NO」を突き付けていた。そしてそれと対抗するターリカ、フランス支配との妥協をもくろむアルジェリア発祥のティジャーニー教団というのがあった。フランス当局はティジャーニー教団を介してカーディリー教団を壊滅、植民地支配を強化しようという政策をもっていた。


★ロシア貴族の私生児として生まれて
 こうした19世紀末から20世紀初頭にかけてのフランス・マグリブ地方のややこしい事情にくわえてイザベル・エベラールその人の人生にもややこしい事情があった。表向きはロシア人貴族。だが、私生児であった。「法的な父」はロシアの元老院議員モエルデル伯爵、母はナターリア・ニコラエヴナモエルデル伯爵の後妻であった。そしてイザベルの「実の父」、アレクサンドル・トロフィーモスフキー、ウクライナ出身のアルメニア人の家庭教師であった。先妻の子であるニコライ、そして姉ナターリア、兄のウラジミールとオーギュスタン。イザベルは「法的な父」のモエルデル伯爵の死後、4年後に誕生。つまり「未亡人と家庭教師の不義の子」。実父 トロフィーモスフキーは立場上認知できなかった。そのため、イザベルの法的立場は「ロシア貴族の私生児」ということになってしまったのだ。先妻の子はロシアへ帰国、残されたモエルデル伯爵とナターリアの三人の子は 名誉をけがした張本人としてトロフィーモスフキーを憎む。イザベルはこうした複雑な家庭環境で育つこととなった。


 しかし、ロシアから亡命したバクーニン主義者(無政府主義者)とのうわさもあった トロフィーモスフキーは一方で教育者であった。理想の「家」である「ヴィラ・ヌーブ」でトルストイ風の農民生活の実践のかたわら、「唯一の実子」であるイザベルの教育には徹底的に力をいれた。その教育方針はいまだ謎の多い奇妙なものであった。彼はイザベルを「男の子」として育てたのだ。「私生児」というハンデを乗り越えるには男ジェンダーで育ったほうがいいと考えたのか。フランス語以外にロシア語、ドイツ語、アラビア語、乗馬。男の子として十分通用すると判断してからイザベルに町へ遊びに行く許可をだした。一方でイザベルは兄ニコライ、オーギュスタンを通してアルジェリアのイメージを育て、フランス外人部隊への憧れを育てていく。そして青年期には男友達とのつきあいでさまざまな社会思想にふれていった。男性としてのジェンダーで生きるとともに18歳のころにはアルメニア人のアルシャビールという青年と恋愛関係にあった。その年、『マグレブの光景』という作品で作家デビューを果たす。


北アフリカデビューそして「改宗」
 1897年イザベル20歳の時にはじめてイスラーム世界に足を踏み入れる。マルセイユからアルジェリア・ボーヌ(現アンナバ)へ上陸した。当初ヨーロッパ地区に住んでいたが、やがてアラブ地区に居を移す。その間に現地の二人の男友達との付き合いをとおしてアルジェリア方言のアラビア語もマスターし、クルアーンも暗唱、イスラームに改宗する。ここでイザベルとマグリブの関係は決定づけられたように思われた。

 1897年母ナターリアの死、98年兄ニコライとの不和を気に病んでか、兄ウラジミールは自殺、99年には実父トロフィーモスフキーも亡くなった。敵対視する兄ニコライ、姉ナターリアをのぞいてイザベルの血縁は6歳年上の兄オーギュスタンしかいなくなった。オスマントルコの外交官となったアルシャビールはイザベルに求婚した。このままその求婚をうけていれば平穏だが静かな人生が待っていたのだろう。だが、イザベルは断る。生まれ育ったスイス・ジュネーブの実家を処分してアフリカに立つことを決めた。イザベル21歳のときである。その年ドレフュス事件というユダヤ人への有名な冤罪事件に関してエミール・ゾラの意見に賛同する文書を送っている。

 1898年マルセイユ経由でチュニジアへ旅立ち、チュニスに滞在する。個人的な楽しみではあったのもの、一方でマフムード・シーディという名でチュニジア沿岸地方の徴税制度についてのルポを書いている。その後もイザベルはイスラーム男性として日々を過ごすことになる。しかしこのチュニジア滞在も経済的にいきづまり、いったんジュネーブに戻ることになる。


★はじめての「任務」・暗殺未遂
 フランス外人部隊の憧れをジャーナリズムで代償したイザベルの人生に転機がおとづれたのは1900年23歳のときである。モレ伯爵夫人からある「調査」を依頼されたのだ。モレ伯爵夫人の夫は4年前何者かに殺害された。夫はフランス政府のために内陸部のルートを開拓しようとしていたのだ。死の真相を究明してくれる人を探していた。モレ伯爵夫人のバックには右翼グループが存在しており、そのためにイザベルは「要注意人物」としてフランス政府ににらまれることとなった。


 イザベルはモレ伯爵夫人の任務をはたすためにエル・ウェードへ行き、地域の重要な組織であるカーディリー教団と接触し、入信する。そこでのちに夫となるフランス国籍のアラブ人スリーマン・エフニと出会う。長い孤独感にさいなまれていたイザベルはスリーマンと暮らすエル・ウェードを永遠の住処としたいと考えるようになった。だが、運命はそれを許さない。イザベルはまったく自覚していなかったが、フランスにとってイザベルは危険人物となっていた。フランスの政治的戦略、そして独立を望むカーディリー教団とフランスに協力するティジャーニー教団の抗争。1901年1月29日イザベルはティジャーニー教団のアブダッラー・ムハンマド・ビン・ラフダールという暗殺者におそわれ重傷を負う。フランス当局は暗殺未遂事件を理由にイザベルに北アフリカ立ち退きの命令を出す。再びフランス・マルセイユに戻ることになってしまう。


 兄オーギュスタンの家でしばらく世話になったあと、暗殺事件の裁判のため、再びアフリカへ向かう。裁判の前にイザベルは「アルジェ急報」にこの事件の自身の見解を発表した。いわく自分が政治的・宗教的に利害関係をもたないと。そして裁判の結果に対しても犯人への無期懲役の厳しさに抗議する。このやりとりでイザベルはジャーナリストの間でしられた存在となった。しかし、私的生活の窮乏は厳しく、この時期、マルセイユの海港で人夫の仕事をして糊口をしのいでいた。


★人生最後の「任務」、そして死
 スリーマンがマルセイユやってきた。それを機にイザベルはスリーマンと結婚、フランス国籍をえる。このことによってアフリカへの出入りが自由になった。スリーマンのアフリカ配属により再びアルジェリアの地を踏むことができるようになったイザベルは雑誌アフバールを創刊したヴィクトール・バリュカンと知り合い、仕事をすることになる。そのときに冒頭にあげた聖女ラーラ・ゼイナブに会うことがかなったのだ。ラーラ・ゼイナブ、エル・ハメル僧院にいる50代のその女性はその地域の大聖人シーディ・ムハンマド・ベルセカムの娘で男子継承者をもたなかった聖人は娘を後継者に定めた。女性ジェンダーの規範で育つことのなかった二人。「独り身を通しながら、大きな宗教的役割を果たしているこの女性は、おそらく西洋イスラム世界では唯一の存在だろう。そして、おそらく、私が僧院に滞在したほんのわずかな期間になしたより、いっそう深い研究に値するはずなのである・・・。(『南部への帰還P200』)」長い間の孤独を互いに癒したかのような二人の関係は以後イザベルが亡くなるまで続く。


 イザベルの人生最後のアフリカの任務はリヨテ将軍を紹介されたことからはじまった。バリュカンの紹介である。当時モロッコを確実にフランスの支配下に置く任務をまかされていたリヨテはフランスの事情とマグリブの事情の双方に通じて行動がとりやすい人物としてイザベルを推薦したのである。それはイザベル本人にとってもリヨテにとっても好都合であった。「南部オラン事情」題された政治的文書には部族には「要塞村落民」と「遊牧民」の対立があり、サハラの市を監視下におけば、遊牧民を経済的に孤立させられると書いた。しかし一方で現地民の生活改善も必要と説いた。リヨテ政策は順調にすすみ、次の戦略をイザベルに実行させた。ベルベル人支配下におくためにケナドサのジアニア教団を手を結ぶことであった。ラーラ・ゼイナブと親交のあるイザベルならたやすいと考えられた。マフムード・ワリド・アリーとして任務を果たすイザベル。任務が成功したかどうかの報告は見当たらない。ほかに女をつくったスリーマンとの結婚生活は破たんしていたが、宗教的精神的には満足していたようだった。


 マラリアを発症し、アインセフラへ戻るイザベル。だが、これがイザベルの運命の分かれ道となった。アインセフラの病院を退院後、スリーマンと低地のある家を借りる。そこで自宅療養しているはずだった。だが、その日、1904年10月21日、ワディ―が氾濫し、その家は一瞬にして流された。間一髪のところでスリーマンは助かった。だが、マラリアが完治していなかったイザベルはそのまま流され絶命した。リヨテは必死に捜索した。そして発見した。軍服をきたまま最後まで「アラブの男として生きた」彼女を。イスラーム葬でアインセフラに葬られた。享年27歳の短すぎる生涯であった。


★その後
 リヨテはイザベルの原稿も回収した。原稿はバリュカンに託された。ただ、洪水でどろどろになった原稿の修復は難しく、バリュカンの手による修復もはいったため、イザベルの作品は長いこと読者の目にふれることができない状況であった。そのためにイザベルに関する数々の神話が生まれ伝説化されていったとされる。


 イザベルの死後、スリーマンは3年後の1907年に死亡する。イザベルの才能を最大限に生かしたリヨテはその後、モロッコ戦略を確実にすすめ、1912年のフェス条約で国土の大部分がフランスの保護領となったあと初代総督に就任した。リヨテは、モロッコ人の町を破壊せず、その周辺にフランス様式の「都市」を建設した。これはイザベルが愛して提言したアラブ文化への寛大な措置だったのか、単純にフランス人がすめないほど町のシステムが古すぎたのかわからない。


イザベルは紀行文を多くの本や新聞に載せた。アルジェリアのショートストーリー(1905)、 イスラムの影 (1906)「日雇労働者」(1922)。そして1903年に従軍記者として書いた「南部オラン」。 邦訳されている「砂漠の女」では「放浪(vagabondages)」、「南部への帰還(Retour au Sud)」がおさめられている。


<つづく>