だれが「男の娘」を殺したか?ヘリオガバルス(204−222)


http://it.wikipedia.org/wiki/Eliogabaloより

だれが「男の娘」を殺したか?

ヘリオガバルス(204−222)
★「男の娘」のローマ皇帝
 ここに一枚の絵画がある。シメオン・ソロモンという画家によって1866年、鉛筆と水彩画で書かれた一人の「男の娘」の肖像画である。赤いドレスに薄化粧。黒髪に濃い眉。憂いを含んだその表情で考え事をするその「娘」こそ、14歳でローマ皇帝になり、その無軌道と放蕩の末に17歳で虐殺された悲劇の皇帝、ヘリオガバルスである。

 わずか3年の治世の間、ヘリオガバルスは何の業績も残していない、といわれる。しかしMTFトランスジェンダーの皇帝というローマの歴史上まれにみる異端児であったヘリオガバルスに魅惑され、多くの史書、文学、絵画、音楽、映画、など数々の芸術作品が残されている。1934年、「ヘリオガバルス、または戴冠せるアナーキスト」という歴史小説を書いたのはフランスの映画俳優・作家であるアントナン・アルトーである。若くして精神疾患にかかり精神病院を転々としてきた彼は自身の若き日の不幸をかの皇帝の人生に重ね合わせ、彼をアナーキストと呼んだ。アナーキストとは現代の日本でいわれるような、無政府主義、無秩序のことではない。アルトーのいうアナーキストとはヘリオガバルスがめざした一神教信仰の普及のことであった。ヘリオガバルスはその短い生涯に子供のような素直さと純真さをベースに己の信念にもとづいて己の信じた役割をまっとうすべく真摯に行動し、それゆえに命を落としたのである。

 彼の行動を現在の知識でみると性同一性障害をもち、それに向き合い苦しんできたようにもみえる。しかし、先天的な性同一性障害であったかは推し量ることはできない。ヘリオガバルスの悲劇の裏にはローマの文化慣習、そして生まれ育ったシリアの文化慣習の差異があるからである。

ヘリオガバルスは生粋のローマ人ではない。シリア・エメサのヘリオガバルス神殿の祭司の家系であるバッシアヌス家の出身であり、ヘリオガバルスもまた祭司長の役職を世襲で相続するはずであった。ヘリオガバルスの人生を語るには父方のセウェルス家、母方のバッシアヌス家の話からはじめなければならない。

★セウェルス家・バッシアヌス家の一族
 ヘリオガバルスは204年、父セクストゥス・ウァリウス・マルケルスがローマの執政官をつとめていたシリア・アンティオキアに生まれた。生まれた時父はすでになく、母、ユリア・ソエミアとその母、つまりヘリオガバルスには祖母のユリア・マエサと3人暮らしであった。とはいえ、裕福な家庭であるがゆえに毎日が乱痴気騒ぎ状態であったといわれる。

 祖母のユリア・マエサの姉ユリア・ドムナは時の皇帝セプティミウス・セウェルスの後妻であった。この姉妹の父ユリウス・バッシアヌスは御者の仕事から成り上がり、シリア・エメサの太陽神殿の祭司長を務めていた。セプティミウスはリビアのレプティス・マグナ出身で属州出身の皇帝としてははじめてといわれる。前妻をなくしたセプティミウスは当時赴任していたエメサで妻の候補をさがそうと占星術を使うことにした。占星術と戸籍を照らし合わせて「王の妻」になる運命とでている当時18歳のユリア・ドムナをめとったのである。セプティミウスはどんどん出世し、最終的に皇帝となった。
 
 才媛であったユリア・ドムナも夫のよき相談相手であり、二人の間には二人の息子ができた。フランスで生まれた暴君として有名なカラカラとローマで生まれたその弟ゲタである。ユリア・マエサも二人の娘を得る。ソエミアとマンマエア、それぞれにひとり息子がいて、ソエミアの子がシリア生まれのヘリオガバルス、マンマエアの子がエジプト・アレキサンドリアで生まれたライバルかつ後継者となる3つ下のアレクサンデル・セウェルスである。セプティミウスの二代目がカラカラである種の世襲となったため、以後、歴史上では初代セプティミウスからアレクサンデルまでをセウェルス朝とよぶ。姉ユリア・ドムナはセウェルス家の皇帝一家をささえ、妹ユリア・マエサは実家であるバッシアヌス家の祭祀をささえることとなった。そしてその長女ソエミアの子であるヘリオガバルスは209年5歳の時に、エメサの太陽神殿の太陽の神官としての儀式をうけ、以後エメサの祭祀王としての教育をうけるのである。
 
 ヘリオガバルスの本名はウァリウス・アウィトゥス・バッスス、のちに改名し、ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス・マルクス・アウレリウス・アントニヌスという名になる。ヘリオガバルスという呼び名は太陽神ヘリオガバルスに由来する、いわば通称のようなものである。

★クーデターそしてクーデター
 セプティミウスは皇帝になったあとも軍事的出張をくりかえし、イギリスでなくなった。伯従父(いとこおじ)であるカラカラとゲタが共同統治者として皇帝になるが、不仲になり、カラカラは母ユリア・ドムナの目の前で弟ゲタを殺した。エジプト・アレキサンドリアの市民がそのことをからかって揶揄したため、カラカラはアレキサンドリアにいくと2万人近くの市民を虐殺した。このことでカラカラにネロにつづく暴君という汚名がつく。

 暴君といわれる反面、カラカラは皇帝らしい尊大なところがなく、兵士と徒歩で行軍し、土木作業にも参加して一緒に汗をながすなどの非常に庶民的な行動が多く、一方で兵士の給与UP、ローマ最大のレジャー施設であったカラカラ浴場の建設などの業績も多く、「おれたちをわかってくれるアニキ」として軍関係者には特に人気があった。性格がやくざ気質で政治はからきしだめ、ゆえに実務は母に助けてもらったが、軍事的才能はすぐれており、またアントニヌス勅令で全自由民にローマ市民権が与えるなど、確実に皇帝としてのキャリアをつんでいった。
 
 しかし、217年ヘリオガバルス13歳のときカラカラが近衛軍団長官マクリヌスによってシリアで謀殺される。マクリヌスは皇帝の母であるユリア・ドムナを尊重したが、政治的実権をもっていた彼女は権力を失った現実に耐え切れず自殺、残ったカラカラの叔母にあたるユリア・ドムナの妹、ユリア・マエサの家族はシリアのエメサに送り返された。
 
 だが、ユリア・マエサはあきらめなかった。ローマで暮らす24年間の女性外交官としての実績がある。姉妹でためた財産もある。再び権力の座にリベンジするための知恵を練った。そして長女の息子であるヘリオガバルスに目をつけたのである。提言したのは母ソエミアの愛人でかつヘリオガバルスの家庭教師&実質的な義父であった、宦官のガンニュスであった。ユリア・マエサの根回しは精巧に綿密に実行された。そして運命の218年5月15日、それは実行に移されるのである。

ヘリオガバルス即位
 そのクーデターをマクリヌスは甘く見ていた。「しょせんは女子供のよせあつめ」とたかをくくっていた。たしかにマクリヌスがひきいるローマの親衛隊、精鋭部隊くらべて、マケドニア、スキタイ、フェニキアなどのシリア諸地方の臨時雇いの傭兵のよせあつめだった。だが、軍部に人気のあるカラカラの隠し子というシナリオつきで太陽の化身として紫の衣をひるがえす美少年をアイコンに血しぶき飛び散る中を兵士を叱咤激励しながら剣をもって戦う女性の王族たちという見世物と化した戦いが展開され、一方のマクリアヌスは普段のそのふるまいから兵士に人望がなかった。歴然とした兵士たちの士気の格差に愕然としたマクリヌスが元老院に助けを求めたときにはすでに遅かった。5月18日、まともな戦闘ひとつ起こすことができず小アジアに逃げたマクリアヌスは街道警備兵にとらえられ、一生を終わった。ヘリオガバルス側の勝利であった。
 

 ヘリオガバルスたちが次に考えたのは「いかにローマ入場を神々しく演出するか」であった。そのコンセプトは「神から絶対的な権威を与えられた王」としての入場である。莫大な資金を投じ、それまでにない豪華さで戴冠式を演出しなければいけない。そのためヘリオガバルスが実際にローマにつくまでに一年近くかかった。一行はまっすぐにローマにはいらずに興行をするかのようにローマの属州を可能な限り通過した。しかし行く先々で展開されたはでで壮大な古代宗教の儀式を目の当たりにした兵士たちのなかにはすでに「絶望するもの」もいた。両性具有的存在、耽美流麗なヘリオガバルスのキャラクターが質実剛健を旨とするローマ皇帝の役割にあっていなかったのである。
 
 ローマ皇帝なのに男なのにローマの男性の衣装である赤いトーブをぬぎすて、異国シリア・フェニキア紫の女性物のドレスをきる。宝石、真珠、羽飾りなどの過剰なアクセサリー。女性物の髪飾りに薄化粧。ヘリオガバルスにとってはその「女装」は幼少時代からたしなんできたれっきとした「正装」であったが、ローマ市民たちにとってはローマの伝統に反するまさに異形の皇帝であった。
「あんな化け物を皇帝にあおぐのか」
「いや、暴君や戦争マニアよりもましかもしれない、ローマがいい意味で平和になるかも」
その時点ではその声はおのおのの人間の好みのわかれる小さな差異でしかなかった。
 
 母ソエミアと祖母ユリア・マエサはローマ帝国の皇帝一門の女性に贈られる称号アウグスタを授けられた。ソエミアは執政職と同権の権力を得た。政治的書面にハンコをおす日々がはじまった。祖母ユリア・マエサのリベンジは成功したのである。そして母と祖母が政治に没頭する中、ヘリオガバルスは必要最低限のアイコン皇帝としての職務を忠実にこなしたあと、子供らしく遊ぶことも許されていた。彼は可能な限り市民たちに寛大であろうとし、それを実行に移した。皇位を簒奪しようとするやからには厳しい処断をした。このまだ少年の皇帝にローマ市民の人気は高かった。ときに元老院で「同性愛経験に関する質疑」などの心に秘めるべき成年未満にははばかられるとんでもない言動でおとながふりまわされることはあった。しかしまだ子供らしい愛らしさとして受け入れられていた。ところが大きな祖母たちにとって誤算がここで生じる。
 
★暴走、ローマの伝統破壊
 ヘリオガバルスに大きなハンデがのしかかった。皇帝である限り後継者をもうけなければいけない。ところが女性に対して性欲がわかないのである。エメサの神殿時代から男性に対しての性の提供はわかる。なぜなら、それも神事のひとつであったからである。ところが、女性に対しては違ったらしい。最初の結婚は近衛軍団長官の娘、ユリア・コルネリア・パウラ、だがすぐに離婚した。ヘリオガバルスの「暴走」がはじまった。
 
 ウェスタの巫女に手をつけたと知ったとき、ローマの市民はびっくりした。ウェスタの巫女とは、古代ローマで信仰されたかまどの女神ウェスタに仕えた巫女たちで皇室の炎といわれる火を守るのが仕事であった。つまりローマの平和の象徴なのだ。ローマでは男性と同等の発言権をもっていた。一方で30歳まで処女を守らねばならずもしも誓いを破った場合生き埋めにされた。つまり国政をも牛耳る神聖な存在を犯したのだ。びっくりしないはずはない。名はリア・アクィラ・セウェラ、だがぎりぎり高齢であったらしく生き埋めにされることなく2回目に結婚している。一度離婚し、アントニア・ファウスティナを彼女の夫を処刑してまで結婚したが、離婚、またリアとよりを戻している。そして最後の妻は最初の妻であるコルネリア・パウラであった。
 
 ウェスタの巫女との結婚にはシリアの太陽神の化身である自分とローマの象徴であるウェスタの巫女との間に神聖な神の子がほしい、というのが動機であったらしい。しかしヘリオガバルスには子供が生まれることがなかった。
 
 ローマ皇帝としての役割がヘリオガバルスにとって重く苦痛になってきた。考えられる限りの手をつくした。たとえば現在食卓にあがるマヨネーズ、ソース類はヘリオガバルスの「不妊治療」のために開発されたものだ。一回の食事に一日がかりだったことがあった。友人の家から友人の家を食卓を渡り歩き、性の饗宴を楽しんだ。その食卓に貧しい人や障害者を招待してもてなしたこともあった。 
 
 自分の信じる神に徹底的にすがることも考えた。毎日祭りをして毎日衣装をかえて毎日宝石もかえる。一度身に着けた宝石や衣装は二度きることはなかった。また、あるときにはローマの神殿の前で娼婦のコスプレで男性を誘い、春を売る。
 
 考えられる限りの「放蕩」をつくした。ローマ皇帝としての役割を果たそうと努力する、が、燃え尽きてかつてエメサでそうしたように女性的役割に還る。その「ゆらぎ」の繰り返しであった。
 
★「そうか、私は『女』だったのだ…」
 そして最後に小アジア出身の奴隷のヒエロクレスに出会う。彼は御者をやっていた。彼との逢瀬のなかでヘリオガバルスがさとる。「そうか、私は『女』だったのだ…」。
「彼は私の夫、私はヒエロクレスの妻とよばれたい。」

 それから女性を物色することをやめた。子供を得るために努力することもやめた。女性たちのかわりに美少年、美男子を身の回りにおき、当時のローマ女性が性を楽しんだように享楽にふけり、夫ヒエロクレスに現場をみつかりなぐられ、目にあざをつくる。それを最高の幸せとしていた。

 しかしこれは大きな波紋をよんだ。「男性の体をもつ」女性はたしかにネロの妻であったスポルス・サビナの前例はある。しかし、それはあくまで解放奴隷出身であった下位のスポルス・サビナが女性であったがために、「まあまあ」という妥協で許された範疇であったが、皇帝自身が「女性」となると別である。しかも下位であるはずの「解放奴隷」が夫であるということはそのままローマ皇帝の威信を傷つけると同時にローマ文化も否定するものであった。

 ヒエロクレスの結婚を裁判所にみとめさせようとしたが阻止された。「心身ともに女になろう」と性転換治療を考えたこともあったが、それも阻止された。しかし、皇帝の暴走は続いた。ついに決定的な行動を起こしてしまう。

一神教革命、虐殺
 222年、故郷のシリア・エメサから太陽神殿のご神体である「霊石」をローマにもってきたのである。現在のコロッセオの隣にヘリオガバルス神殿を立て、そのなかに霊石を祭った。そしてローマにあった八百万の神々を否定し、ヘリオガバルスが祭祀をつとめる太陽神一神のみを信仰するように強要したのである。もともと多神教であるローマは外来の宗教には寛容である。しかし、先祖代々の神々を否定し、異郷の宗教を強制される、となると話は別である。いよいよ、ローマ市民の怒りは頂点に達した。

 祖母ユリア・マエサは馬鹿ではない。政治家である。孫の「狂信的暴走」に危機感を感じた。万が一失脚したときのことを考え、次女マンマエアの息子アレクサンデル・セウェルスを副皇帝として擁立する。狂信的・行動的なヘリオガバルスに比べてアレクサンデルは覇気にはかけるがいわゆる優等生タイプであった。

 突然のライバルの出現にヘリオガバルスは憤慨した。副皇帝がいるということ、それは「神がくれた絶対的権威」一神教的な原理を否定するものであった。アレクサンデルをテストし、人気が高いことを確認すると親衛隊にアレクサンデルの殺害を命じた。ところが親衛隊は逆にヘリオガバルスを殺害しようとした。アレクサンデルの母、つまり叔母である「おとなしいが冷酷な策略家」のマンマエアがそこまでよんで親衛隊に「鼻薬」をきかせていたである。あやうく殺害されるところを祖母のユリア・マエサの仲裁で命を救われた。
 
 そのときにおのれのふさわしい場所シリア・エメサにかえって祭司長としての役割を全うする、または徹底して傀儡に徹する。そのどちらかの方法が取れればヘリオガバルスの運命も違ったであろう。だが、己の信念と価値観に絶対的忠誠を近い、それを行動で実現化することに価値をおいていたヘリオガバルスにとってはもはや不可能なことであった。
 
 彼は暗殺部隊をつくって、アレクサンデルおよびその母マンマエアの宮殿を急襲する。たが、その作戦も失敗、逆にヘリオガバルスが襲われることになった。
 
「逃げて!」とさけぶ、母ソエミアの声。
ソエミアの腕のなかで剣にさしつらぬかれるヘリオガバルス
兵士たちによる陵辱、虐殺、絶命。生前の面影もないほど損傷した彼と母のなきがらは下水渠からテヴェレ川に投げ捨てられた。

享年17歳。
あまりにも激しい痛々しくあっけない人生であった。

★その後のセウェルス朝
 ヘリオガバルス死後、従弟のアレクサンデルが単独で皇帝になった。エメサの霊石はエメサに返された。夫ヒエロクレスは即座に処刑された。14歳であるので後見に母マンマエアがついた。祖母ユリア・マエサは2年後に59歳で天寿を全うした。アレクサンデルは勤勉誠実まじめのその性質をいかし、法学者など協力してくれる大人たちをうまくつかってローマ皇帝の役割をこなした。しかしヘリオガバルスの死後10年、232年に「軍事的才能がない」という理由で軍部に母マンマエアとともに殺害されてしまう。24歳。女性が支配したセウェルス朝の滅亡であった。その後、軍事力をメインにおいた軍人皇帝時代がはじまり、前半の33年間の間に14人が擁立され、殺されまくった。短命政権でおわる運命はヘリオガバルスだけではなかったのだ。ただ、それだけ戦争だらけのなかでヘリオガバルスの政権で唯一評価できるのは、クーデター以後、一度も戦争のおきない平和な時代があったということである。

<つづく>