だれが「男の娘」を殺したか?ヘリオガバルス(204−222)<後編>

ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト (アントナン・アルトー著作集)

ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト (アントナン・アルトー著作集)



エメサのヘリオガバルス神殿にあった「霊石」(右)
ファイル:Bronze-Uranius Antoninus-Elagabal stone-SGI 4414.jpg - Wikipedia

だれが「男の娘」を殺したか?<後編>

ヘリオガバルス(204−222)


一神教革命、その理由
 ヘリオガバルスの死後、100年後の313年、コンスタンティヌス1世のミラノ勅令によりキリスト教が公認された。380年にはテオドシウス1世がキリスト教を国教と定め392年には他宗教を禁止した。これはキリスト教の歴史としては大転換であった。以後、1700年、ローマからはじまったキリスト教の文化は世界を席巻し現在にいたっている。
 
 キリスト教の国教化には大きなローマ皇帝サイドの切実な理由があった。皇帝の権力すなわち王権の安定化である。ヘリオガバルスはシリアの性的享楽を儀式としてもつ退廃的な皇帝であったがゆえに皇帝の座からひきずりおろされたのだ。要するにローマ皇帝の品格を傷つけたのだから、悲惨な最期を迎えるのは当然である、という論理がある。ところが、母マンマエアがキリスト教徒であった従弟のアレクサンデル・セウェルスはどうだろう。母の教育を受け、品行方正であったアレクサンデルさえも悲惨な最期をとげる、というのははっきりいうと非常におかしい。彼らはただ民衆の期待にこたえきらなかったから殺されたのだ。この際品格や品性は関係ない。つまりヘリオガバルスが異端であるからという理由はヘリオガバルスの悲劇のいいわけにはならない。ローマ皇帝に多い悲劇的な最後、これはローマ皇帝という「システム」に原因があるとみなければならない。
 
 ローマ皇帝という「システム」の大きなバグ、それは皇帝の権力が民衆の人気に依存していたことであった。ネロにせよ、ヘリオガバルスにせよ、民衆が支持している間は皇帝の地位を維持できた。しかし人気に依存した権力はもろいものである。アイドルやタレントの人気をみればわかるだろう。わずか数年しかもたない。ローマ皇帝の場合人気の下落は即座に自分の生命の危険を意味していた。引退したとしてもカムバックを恐れて殺してしまう。失脚なんてものではない。殺されるわけだから人生のやり直しがきかない。そのためにネロにしてもカラカラにしてもヘリオガバルスにしても民衆の人気を維持することに最大のエネルギーをそそいだ。その心身の疲労は並みのものではない。そのために狂気の世界におちていく皇帝は数多くあった。
 
 ヘリオガバルスも最初はローマ皇帝という役割を忠実に演じることにエネルギーを注いだ。しかしMTFであることを含む彼の素質によりそれが不可能だとわかったとき、かつて先輩皇帝の多くが体験したように彼の心身は極限まで追い詰められた。そのときに過去の経験で気がついたのだろう。考えてみよ、ヘリオガバルス。自分がエメサの祭司長を勤めていた時はそんなことはなかっただろう。なぜローマ皇帝では大変なのだ?エメサの祭司長が「神からさずけられた役割」だったからではないか?エメサでは力をもっていた太陽神がローマではそれほど力をもっていない。ではローマに太陽神をもってきてローマ市民の信仰の中心になればローマ皇帝の自分はありのままにうけいれてもらえるのでは?

 ヘリオガバルスがやろうとした一神教への宗教改革、それはローマ皇帝という「システム」への改修作業であった。


★故郷シリア・エメサの太陽神の正体
 ヘリオガバルスが信仰した太陽神ヘリオガバルス神とはどのような神であったのか。一神教による支配が世界の中心となった現在古代宗教の現実は謎につつまれている。キリスト教国教化のあと、古代宗教は悪魔の教えとされ、禁止されてきたからである。したがって性的な退廃、人間を堕落、偶像崇拝として古代宗教を描く歴史家の記述をそのままうのみにするわけにはいかない。そして多神教がもっていたかつての多様性は現代では日本社会においてその痕跡を想像するのみである。
 
 ヘリオガバルスが生まれ育ったシリアはキリスト教でいうところのカナンの地であり、古代より多くの都市国家が栄え、多神教国家である。その神々はシリアにあった古代都市ウガリットの遺跡から発掘された粘土板の物語によると雨の神である英雄神バアルを中心にかかれている。長い歴史の間にこのバアルに由来した土着信仰にギリシャの太陽神ヘリオスの性格がとりこまれて、山の神、エルガバル(アラム語)つまりヘリオガバルスラテン語)となったのがエメサにおける太陽神信仰の正体である。ご神体の黒い霊石はアンチ.レバノン山脈にあった火山の火山岩か、隕石であったと思われる。エメサの祭司長が祭祀と行政を世襲でになうようになるのはローマの執政官ポンペイウスセレウコス朝を滅亡させてローマの属州にしてからのことである。
 
 ヘリオガバルス神殿の宗教的儀式にはインドから入ってきたミトラ教の影響があった。ミトラ教はインドを起源とした契約の神、太陽神を信仰する。インドのタントラなどからくる性儀を未熟な状態でとりいれたとされるがゆえにエメサの太陽神殿における儀式は性的に奔放なものになった。ローマにはペルシャからミトラ教が入り、ローマの兵士たちの多くに信仰されており、エメサに滞在していたローマ人にはヘリオガバルス信仰はミトラ信仰とイメージが重なっていた。
 
 ミトラ信仰そのものは女人禁制であったが、ヘリオガバルス神の場合は両性具有の神性をもっていた。そのため、皇帝ヘリオガバルスが女性的な心性をもっていたとしても、エメサの祭司長として成長していれば女性としての性自認であったとしてもそれは大きな障害にならず、むしろ祭司長としての霊性を高める役割を果たしたであろう。確証はないが、その両性具有的な感覚にはトルコ・アナトリアのフリギュアからきたキュベレー信仰の影響が考えられるだろう。キュベレー女神は大地母神で、その愛人である死と再生の神アッティスが女神のために去勢した、という神話をベースにしており、祭祀担当者は去勢した宦官で彼らは女性の衣装をまとい、社会的に女性とみなされたという。どちらかというとインドのヒジュラに近い存在だっただろう。ヘリオガバルス的にはホモソーシャルなにおいのする女人禁制よりも宦官たちの祭祀のほうが親近感を覚えたかもしれない。

 このミトラ教に性格が似ているヘリオガバルス神を一神教に据えようとしたヘリオガバルスの見識はある意味正しかったともいえる。ヘリオガバルスののちにシリア・パルミラの女王ゼノビアと戦った皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス(270-275)は「皇帝権力の安定化」のための一神教化の考えを取り入れ、ミトラ教を採用した。そののちのディオクレティアヌス帝はキリスト教徒たちの狂信化に対抗して「大迫害」を行っている。そして大統領制のような君主ではなくヘリオガバルスが求めた専制君主としての皇帝の確立を目指した。「皇帝権力の安定化」のための「神からの権威」、「王権の神授」は必須である。しかし一神教にどちらを採用するか。性的に奔放なミトラ教か、それとも厳格なキリスト教か。ヘリオガバルスはいわばその原点となる問いかけを短い治世の中で最初になげた皇帝でもあった。そしてその戦いはキリスト教が国教化し、全世界の秩序として採用されるまで続いた。
 
 エメサにもどされた霊石の行方はわかっていない。エメサのヘリオガバルス神殿の跡地はさだかではない。後世のローマ帝国の分裂により、ミトラ教は衰退し、シリアがイスラーム化し、古い神殿をうめてしまい、その上にモスクが建てられたからである。その下を掘り返そうとおもわないし、掘り返すことも難しい。


性同一性障害だったのか?
 しかしいくらヘリオガバルスが早熟な少年であったとしても、いきなり「皇帝権力の安定化」のための「神からの権威」を利用しようと考えるとは考えにくい。むしろヘリオガバルス個人の事情による切実な問題から行動をおこしたとも考えられる。

 ひとつは皇帝原理の基本である「男性的役割」をヘリオガバルスが実現できなかったことだ。ヘリオガバルスは現代でいうところのMTFトランスジェンダーであり、ニューハーフといったところだろう。実際殺されるところまでは極端としても、ヘリオガバルスライフヒストリーはニューハーフ雑誌や性同一性障害体験談でよく読むところのエピソードに酷似しているからである。

 幼少のときから女の子のように育った。が、中学に進学したときに男性として生きることを強要され、女性的要素を全否定される。適応できればいいが、適応すらできず、結婚その他の問題が近づくにつれさらに混乱は激しくなり、アイデンティティクライシスに陥る。そんなときにやさしい男性のトラニーチェイサーがあらわれ女性として愛されることで安定する。それまではなんとか男になろうといろいろなテストを重ねる。
 
 ヘリオガバルスの性別違和感ぶりはあまりにあからさまであるが、いわゆる原理主義的な性同一性障害、「私は生まれたときから女のはず」という強烈な性別違和があったとは考えにくい。ひとつは先天的に性同一性障害要素があったが、生育環境的に「障害」にならなかったものが環境の変化で激変した、という可能性、もうひとつは環境的要因で性同一性障害状態におちいって混乱状態になったという可能性である。ヘリオガバルスの場合、その双方ともあてはまる。
 
 年齢にふさわしくない性的早熟の原因はエメサの祭祀長としての教育の中に性体験がふくまれていたと推察されることだ。しかもその性体験がその信仰の性格上、性別越境的なものであった。シリアの神々に使える神官たちの儀式にはたとえばカルタゴの遺跡が資料が伝えるように、人間そのものをいけにえにささげるような残酷なものから、不特定多数に性愛を提供するものまである。おそらくヘリオガバルスも神殿の男娼としての役割、−日本で言うところの陰間、寺院の稚児に似たものであるが−そのような体験もあるのだろう。そのために元老院での「同性愛質疑」などのとんでも質問を顔色もかえずに冷静にできる、そのような皮膚感覚を身につけているのだろう。それを恥と感じないヘリオガバルスに対してローマの大人は恥と感じた。その文化的差異がまず大きい。
 
 また先天的にヘリオガバルスが女性的なふるまいを身につけていたと仮定して、それはシリアでは問題にならなかった。もちろん祭祀長であるという役割ゆえである。性別越境というよりは両性具有的なもの、双性原理がそこにはあったのであろうが、とにかくクーデター時の熱狂から考えても問題にならなかった。だが、ローマ皇帝になったときにその「自分らしさ」が否定されることが多かった。「私を否定される」という感覚が性同一性障害として、自身の存在価値についての危機感につながることになった。
 
 さらにヘリオガバルスの人生には男性として同一視するべき「男性」がいない、つまり「父親不在」が大きい。男性のモデルが身近にいないのだ。男性原理のローマにくらべてシリアは女性原理、ジェンダー規範そのものがぜんぜん違う。ヘリオガバルスの身の回りで唯一「男性」であったのは宦官の「義父」、ガンニュスであった。彼が宦官である理由は宗教的熱狂ゆえで、性格はきわめて男性的であった。しかしヘリオガバルスが皇帝になるためにローマに向かう途中か、ローマ皇帝になったあとで混乱期か不明であるが、ヘリオガバルスが「反抗心」のあまり彼を殺してしまった、といわれる。こうして男性の保護者がいなくなった中で、自分にはない男性原理でローマ市民の長でなくてはならない心身の重圧、必然的に「男性の保護者」を求めていたかもしれない。


★性別越境・同性愛のタブー
 ユダヤ教キリスト教イスラームの三大一神教はすべて同じルーツのバージョン違いである。共通している内容がある。「異性装、同性愛のタブー」である。理由はこれらの宗教が背徳のイメージとしてもっている価値観に異性装と同性愛が含まれるからである。その背徳のメタモデルはどこからくるのか?キリスト教が背徳的状況と語るその世界はまさにヘリオガバルスの時代のイメージではないか?

 かつてノストラダムスの予言がブームになったときに世界の滅亡の象徴としてかかれた世界観がある。男女の性別役割の越境、貞操を守らない性体験、同性愛行為の多発、FTM/MTFの大量発生…。かつてヘリオガバルスの母や祖母が剣をとって戦場で戦ったことも、背徳行為とされる。日本古来からの独特の性別概念のある日本人である当事者でさえも、「生まれながらに神に許されない背徳者なのか?」となげかせる力のある忌まわしいイメージ、当の一神教の信者であればさらにその心理的プレッシャーはすごいことになる。実際そのために欧米ではヘイトクライムがおき、多くの当事者は殺害される憂き目に会った。
 
 なぜ男女の性別役割の越境、貞操を守らない性体験、同性愛、FTM/MTFが神を冒涜する行為となるのか?それはこれらの存在はキリスト教を含む一神教戦争に敗北した宗教の儀礼に含まれていたからである。ライバルとなる宗教の儀礼や価値観のアンチテーゼとして性別越境・同性愛のタブーが生まれた。それによって、宗教的アイデンティティの差別化を図っていたのである。このことは逆にいうとそれらのことが神聖なものであると考えていた宗教がかつてあったということである。
 
 キリスト教が絶対的価値観として成立して以後、古代宗教の神々の多くは悪魔に貶められることとなった。悪魔たちにされた神々の中には有名なアスタロトがいる。この悪魔の貴公子はもともとは戦争と性愛の女神アスタルテであった。つまりはFTMである。
 
 一神教による支配となってから、欧米社会ではキリスト教を否定するまでに多大なエネルギーを必要とした。ニーチェが「神は死んだ」と宣言する19世紀まで、神の絶対性を隷従する人間の時代が続いた。背徳の象徴とされたヘリオガバルスは晩年には誰か自分以外の人間が決めた価値観ではなく、自分の信じた信念に忠実に生き、忠実に実行に移した。エメサの祭祀長としてのレール、ローマ皇帝としてのレール、男性原理の象徴としてのレール。そのすべてを試して行動したあとに神に与えられた自分という女性原理で与えられた役割をまっとうしようと行動した。その行動は悲劇しかうまなかったが、17歳にして後世まで語り継ぐ歴史的存在となった。
 
 現代では美少年として語られるヘリオガバルスであるが、肖像を見る限り、決して美少年という容姿ではない。しかし、美形ではなくても少女のようなかわいらしく愛らしい少年であったことはたしかだろう。

 「男の娘」と言う言葉は比較的2010年新しい言葉である。男性化する前にその生命を自分の信念にしたがって行動したヘリオガバルスにはこの言葉がふさわしい。
 
 だれが「男の娘」を殺したのか?ヘリオガバルスのキャラクターを見抜くことなく、自らの欲望で利用した大人たちとローマ帝国という時代のシステムである。その悲劇性があればこそ、ヘリオガバルスの純粋さもまたひきたつのである。


<終わり>