FTMの非嫡出子問題その後 最高裁で嫡出子とみとめる判決

会社を起こして以来はてなに書く機会が減ってきた。
はてなが気軽に書きにくい=PCを立ち上げて…なんで…という問題がおおきくて
「ブログを移転した方がいいかな」など思っていたりするわけだけど、
久しぶりの更新になる。

友人からメールがきて、「FTMの非嫡出子問題」で最高裁で嫡出子とみとめる判決がでたことを知った。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013121202000158.html

研究テーマがうつって、性同一性障害の問題からは離れているのだけど、久しぶりにかいてみようと思う。

本日の予定が半キャンセルになったから時間がとれたのだけど…。


正直な気持ち、私はこの判決を聞いて「ほっとした」というのが本音である。


しかし、「おめでとう」と祝福できるか、というと手放しで喜べない複雑な気持ちももっている。
ただ、自分の障害が原因で「人生を振り回され」、「時間を奪われる」というこの状況が性同一性障害問題で発生しづけるという状況について「辟易している」というのが今の私の気持ちで、とにかく「当たり前のように人間を細分化したがる」現在の日本人の思考には本当に「困ったものだ」と感じていた。


まして働き盛りの男性がこの問題に長期の時間をさかれることの不利益をどう考えているのだろう。長期間かけても「戦えばいい」。日本人男性に「そんなひまがあるかい!」という「現実」がそこにはあると思う。
現実にもしも私にこの問題を起きたとしたら「会社経営なんかできない」ぞ。サラリーマンなんかましてできないぞ。


この問題に関する意見は多くあれど、私の意見が友人知人の間でも少数派であるということ、しかし重要であると知ってほしい意見でもあると考えているためである。

基本的な私の意見は過去の記事のとおりで、
「結局この問題も同様で「同質の問題」に対して「AID」「FTM」「男性」「非嫡出子」のキーワードで処遇が絶対的に違うことが問題であると考えている。」
とのとおりで、基本的には嫡出子として扱うが今できる時点での正しい対処だと信じている。
http://d.hatena.ne.jp/stshi3edmsr/searchdiary?word=FTM%A4%CE%C8%F3%C3%E4%BD%D0%BB%D2%CC%E4%C2%EA&.submit=%B8%A1%BA%F7&type=detail:title

一方、私の知人友人は反対意見のほうが多くて、大別すると以下のとおりである。

1.生物学的に「父」でないことが分かる以上、「父」とみとめるのはナンセンス
2.性同一性障害には「子なし要件」という子供が成人するまで性別変更できない制約があるが、その当事者との不平等が生じる
3.「生んでいない女性」の場合、母になれないという制約がある。その当事者との不平等が生じる。
4.完全に隠してしまうことは真実の告知の問題が生じる。

確かにご指摘の通りではある。
ただ、私は次のように考えている。

この場合FTM=男性であるから、FTMでない男性の同等の事件における処遇を考えた場合に「嫡出子」として認められているという「現実」がある。また過去のFTMの事例についても認められてきた、という「現実」もある。


その「現実」を放置せざるを得ない現状を変えることなく、FTMのみにフォーカスして問題を考えることは「社会的に男であるもの/ないもの」を作り出すことになる。

つまりこの問題を考えるのであれば、まず通常の男性で「生物学的父でない存在」を洗い出して、そこになんらかの法的処遇を加えること。そしてFTMの「父」の処遇。それが問題解決の順番として正しい手順だろう。「現実」の状況をかんがみるにそれが「できない」状況であれば、FTMのみに特別な欠格事由を与えることこそ不平等ということにならないだろうか。


「生物学的父でない存在」をどうするか、という問題を先に解決しないでこのFTMの問題だけにフォーカスするというアプローチそのものに問題があると考える。

しかし司法の問題はその人の人生そのものをあずかるものでもある。
そういうものに10年、20年かけたらその人の人生そのものを破壊することになり、本末転倒である。判決には「拙速」であっても時間をかけすぎてはいけない。
特に人間の多様性を認めない、他人目線が大事で異端である自分への「強さ」をもてない日本人がやり直し人生が困難でほぼ不可能な日本で暮らすのであればこそなおさらである。

判決を急いだのは子供の身分にタイムリミットがあったからだろう。

以上の理由で今の「現実」を考えた場合には「嫡出子」して認める、が正統な判決だと思っている。

しかし、では「生物学的父でない存在」を認めることが正しいか、には「NO」である。

そもそもほかの方が指摘している「FTMだけが特権階級になる」という意見があるが、問題はそこではなく、「生物学的父でない存在」が認められる「男性」という存在が「特権的」なのである。


それが大きなで問題ある。


だが、そこにだれも言及しない、だから私はこのことを強く指摘する、それは人生を左右しかねないほどの「男性が子をもつ」ことへの強烈なプレッシャーが社会にあることを誰もが暗黙知に知っているからである。


それは社会が要求することでもあるし、本能が要求することでもあるだろう。
一番強いのは男性ジェンダーにある限りは「子のある/なし」の社会生活上の影響が大きいということだ。


特に「実子をもつ生物学的男性」の立場では「身に覚えがある」ゆえに彼/彼女の言葉ではそのことには言及できないだろう。特に一人っ子/長男で愛されて育ったならば、なおさら、だ。

まさに「それをいっちゃあおしめーよ(寅さん)」であるから。

私の考えは「生物学的な父」でない人の子供に実子認定するのは間違いであるというものである。
基本的にはDNA鑑定の技術が確立している現代においては、出生届けにDNA鑑定を必須にするぐらいのことが必要だと思っている。むしろ、すべての子供はかならず「生物学的な父」の属する。
DNAを登録していて、「自動的」に確立するぐらいのシステムがあってもいいと思っている。
そして家族は夫婦間のみならず、親子間も「契約関係にする」。


これが理想的だと思っている。


現実問題としては60億人分のDNAによる親子関係のシステムを扱えるだけの技術が世界的に普及しているわけではないこと、またいろいろな人間的な心情から今の社会の価値観が「当たり前」と思っている人がすべて死に絶える100年はたたないと実現は無理だと思っている。


まず多くの人類学的な観点を考えると、多くの男性は古今東西、「実子がほしい」と思っている。しかし、女性が産んだ子供がかならず男性の実子であるという保障がどこにもない。そのためにFGMをはじめとする「いかに女性を管理するか」という文化的慣習が生まれて、それが女性に対する強い抑圧になっている。女性の性的な抑圧を解放することが女性の解放にもつながると思うが、それを保障するためにはまず男性の「実子保障」というのが必要になってくる。


男性のみならず、女性もやはり「自分の遺伝子」を残したいという本能的な気持ちがあるだろう。
そういう思いが生殖医療の発展に貢献してきたわけであるが、産む性である女性が原則「母である」ことは変化はないが、男性が「父」である根拠を得ることはここ数十年はDNA鑑定により可能になってきている。


また、子供の観点でいうといわゆる孤児たちなど「親がわからない」当事者に聞いてみるとわかる話だが、子供は「自分の生物学的なルーツを知りたがっている」。実際ルーツがわからない子供は社会においても自分の居場所をつかめず根拠のわからない不安と戦いながら人生を過ごしているのが現状である。いわゆる「真実の告知」の重要性が語られるのはそのためである。今回のFTMの裁判の問題点にもそれがあげられた。


一方女性の観点であるが、女性は確かに「生む性」であるため、代理母出産に踏み切った人以外はまず「母」であることは疑いないとされる。が、複数の男性を子の父にもつ女性の社会的基盤、生活基盤があまりにも脆弱すぎることに問題がある。子を「母」に属すると子供が増えるにつれて母の負担が大きくなって、貧困の連鎖につながる。

また、そのことで女性が父親役をもとめてほかの男性を、ということもよくあるが、それがさらに負のスパイラルにつながることがある。「継子殺しのある」ライオンなどほかの生物と違い、人間のオスは比較的他人の子供を育てることに長けていると思われる。歴史上、実力のある男性が養子をたくさん抱えていることや、妖怪などでも「二口女」など「継子殺し」の女性の妖怪はいるが、男性の妖怪がいないなど、その根拠である。


しかし、昨今の養父による継子虐待にみるように必ずしも「継子殺し」をしないというわけではない。「継子殺し」をやった加害者男性の研究をやっていたのをみたことがあるが、多くの加害者は「継子であってもよき父になろうと努力をしている」。ところが、加害者の多くが自尊心が低いこと、「父親」になるスキルが不足していることと、彼らが社会的に虐待されている弱者であること、継子が反抗し、父として認めないなどの「支配権」を確立できない、などの理由で爆発してしまうようだ。そしてそのような場合、「新しい男」を失いたくない場合にその虐待を「母」が黙認してしまう。「母が子を守る」というのは神話で、特に新しい人間のオスが登場した場合に人間のメスは「わが子」であっても守らないのだろう。母による虐待の多くはそのパターンになっている。それをふせぐためにまた女性を抑圧するシステムが生まれる。


「未亡人が女になってはいけない、母であれ。」という抑圧の理由はそれである。
よほど理性が強く、経済力や知力に長けている女性でないと、母と妻と女の使い分けは難しいのだろうと思う。


わが子を守れるのは「実の父」だけだろう。逆にいうとそうしたケースでなければ「子供を育てる」ことは好きなはずなので、女性が子供をつれて新しい彼氏(夫)をさがすよりは、子の父に子をあずけて新しい生活にはいったほうがいいのかもしれない。男性は基本的に「実子」を大事にするし、また社会的教育は社会的デビューも男性のほうがやりやすい現実がある。


もっとえげつない現実もある。そもそもなぜ「非嫡出子」が問題になったのであろう。
「非嫡出子」にまつわるスティグマについて考えないといけないであろう。


「非嫡出子」という言葉でまず一般社会で思い浮かぶのはなんであろうか。


「めかけの子」「人の夫を略奪した女の子」さらには「自分たちがつくりあげてきた財産を泥棒しようする簒奪者、略奪者」


総合するに「まともに社会の正義を行えない信用に値しない人間」というイメージではないか。
そのような人間に重要な社会的地位のある仕事をまかせたいと思うだろうか。

つまり、「非嫡出子」というだけでうける社会的な不利益はあまりに大きい。


逆になぜ「非嫡出子」と「嫡出子」という子供に選択不可能な不平等な地位ができたのか。
ひとえに第一夫人(正妻)の地位保存と財産保持の問題による「懲罰」としか思えないのだ。
たしかに突然見知らぬ子供がでてきて、「財産よこせ」といい、それが原因で家を失い、会社も解体、というのが現実にでているわけで、管理できない存在というのはやっかいだ。
それがゆえの懲罰的な意味しか持っていないという気がする。
ただその懲罰をうけるのは当事者ではなく、そんな人生の選択権すらない「子供」に来るというのが不条理なものである。

逆にいうと財産、相続も問題がなければ「非嫡出子」と「嫡出子」という地位はいらないはずである。

最近このような問題についてもやっと言及されるようになったが、今の思考では容易には解決できないだろう。


で、総合的に思うのは

・まず、父母を「生物学的根拠」をもって確立する
・家族は夫婦のみならず、親子関係にも適用する「契約」にする。
 →これは虐待された子が親から完全絶縁することもできる。
  →毒親問題でそれが必要な状況はあるが、今は100%逃れることができない
・相続関係も血縁で自動的に行われるのではなく「契約」にする。
・もちろん「非嫡出子」と「嫡出子」の廃止。
・「非嫡出子」にあたる存在を認める場合は婚姻関係にある両性の合意によるものとする。
 →生物学的には親子でも社会生活上は別にする。(相続問題も別にする)
  →生物学的なものと社会的なものが今ごちゃになっているから問題がおきている。
・生物学的父に扶養の義務はある、が相続からははずす
 →妻という第三者との共有財産であることが多いから
・賢い女は生前贈与で大事なものをもらっておくよな…。
・共有財産を会社組織のようになんとか認定する
・というか、いっそ「家族」を「会社法」適用にしたらどうだ?


あと2つ問題がある。


まず一つ目。
そこまで「生物学的根拠」にこだわる必要があるか?
私の意見では「ある」


浅はかな人間理解で極端にいくと「優性法のトラウマ」再燃!となってしまうが、「医学的」「教育学」的な意味で「生物学的根拠」、つまり遺伝学的な形質を無視しての「良い医療」「良い教育」「良い職業」の提供はありえない。


「良い医療」のためにはその人の「仕様」を知らないといけない。
つまりそれは「家族の病歴を聞く」みたいな部分で、
生物学的な要素は絶対にかかせない。


「良い教育」、発達障害などの場合は極端な事例にはなるが、臨床現場で「遺伝的要素」が強いという話はでている。劣っているとか優れているということではなくてこれも「仕様」。
特に知覚神経系のもの=「視角優位」「聴覚優位」「感覚優位」や、脳のワーキングメモリ、ストレス耐性=同じ痛覚でも倍に感じる人がいるなど。
生物学的な要素は絶対にかかせない。


それをふまえてこその職業、良い職業とは「社会的に」ではなく、「その人にとって」。
脳のワーキングメモリが強いとシステムの設計やプログラムを写真のように把握しているので、リファクタリングなどが得意だったりするが、実はそれは人に状況を伝える、みたいなコミュニケーション能力とのトレードオフになる。


はやくいうと「みりゃわかるじゃん」というのが本人の実感なので、説明ができないのだな。
というような「生物学的違い」が家族をみて把握できるといいが、「生物学的他人」がはいるとやはり「何かが違う」というものが多くある。


医者の家系があととりにするつもりで、「生物学的他人」を実施にした場合、医者に不適格な性質をその人がもっていた場合にお互いが不幸になる。

その意味では「生物学的根拠」がわかっているというのはお互いのためにOKである。


もうひとつ。
昔からの私のテーマではあるが、「不妊男性の社会的地位」。


実は先にあげた、
・子を父に属するとか
・女性は別れたら「次の人」とか
・結婚は契約とか
・養子を実子にしてはだめよとか

これはイスラームにはすでに実装されている内容で、新しい話ではない。
実際生殖医療に関する数々の判例もそこから生まれているが…。

イスラームにしてもちょっとな…と思うのが、「不妊男性」の地位について。

子供がほしかったら、男なら第二夫人をえる。
女も第二夫人に生んでもらう。
夫が不妊なら夫を取り替えればよい。


しかし「不妊男性」は?


実際エジプトで「妻に幸せになってほしいから」と離婚した人もいる。
日本でもそういう人はいるかもしれないけど、少数派で、
むしろ多くの日本人男性は妻に罪をきせて自分は向き合おうとしない。


不妊男性」であることが男としてのアイデンティティを破壊して
すべてを失わせるものだと考えているし、実際すべてを失った人もいる。


これが一番の問題ではないかと思うのだ。
建前でも真実はどうでも是が非でも「社会上の実子を」という強迫観念。
FTMの非嫡出子問題もこの延長線上にある。


もしかしたら江戸時代につちかわれた武家の「あととりなくば、お家お取りつぶし」
「実子がなければ会社がつぶれる」
という皮膚感覚を今でも持ち続けているような感じがある。


それがイスラーム世界もそうか?というともう少し視野が広くて柔軟な気がするのだけど、どうなのだろう。
自分の子でなく、弟やいとこにつがせるとか。
そのほうが自然な気がする。
そもそも相続が父―子より兄−弟のほうが多いか。


今後の調査テーマにしたいとも思う。

<おわり>