イスラームと日本人―イスラム国に想う
なかなかイスラームの研究に時間を割くことが難しくなっているが、今年2015年はいきなり「イスラーム」をテーマにはじまった。
「誰が良いムスリムか悪いムスリムかわからないから、いっそムスリム全員をほろぼしたほうがいいんじゃないの?」
ある身内からいわれたその言葉に愕然とした。
日本の偏った報道をみたら、そう感じる人がでてくるというリスクがあることはわかっていたが、さすがにびっくりした。
そこまで単純にそまってしまう人がいるのかと。
「そんなことが正当化されるのだったら、とっくに日本人は滅亡してますよ。そもそも『自爆テロ』をはじめとする戦い方を開発したのは日本人だからね。」
そんな言葉ではじまった、ミニイスラム講座。
「イスラムとは」というにわか講義がんがんやっていたのだけど…。
なんとかわかってもらえたけれど、「これは大変な戦いだな」と感じた。
イスラム国のメンバーは10万人という。
実は日本の全ムスリムの2分の1、山口市の20万人どころか、岡山の津山市の人口だ。
たったそれだけのマイノリティのために、世界の3分の1、16億人のムスリムをとんでもない話に展開する。
メディア戦略のおそろしさだ。
何とかして一刻もはやく伊東聰(活動名)なりの「イスラム講座」をつくりたい気持ち。
かつて「黒い悪魔」のイメージは日本人だった。
1960年〜1970年代のことである。
俗に言うUFOの案件にはかならず日本人に良く似た宇宙人のエピソードがあり、宇宙人ではなく、本当に日本人ではないか?という説もあるくらいだ。
世界のイスラーム過激派対策をなやませている「自爆テロ」。
自爆テロの元ネタは第二次世界大戦の特攻だろう。
いや、その前に早稲田大学創始者の大隈重信暗殺未遂事件もある種の自爆テロだろう。
ハイジャック。これも最初にはじめたのは日本人だ。
科学テロ。これも日本人だ。
そして日本人の開発したその手法を今イスラームを標榜する過激派が使っているというわけだ。
気がついてみると、ユダヤ教、仏教、キリスト教徒の「自爆テロ」がいないに等しい。
ほかのもろもろの多神教でもきいたことがない。
テロリストはあまたあれど、「自分を犠牲にして仲間を生かす」という思想と行動はないに等しい。
相手を犠牲にして自分が生きることはあっても。
その意味で日本人とイスラームが「わかりあえる前提」の皮膚感覚をもっているとしか思えない。
日本人のそれを「日本教」として、考えた場合、「日本教とイスラーム」を比較してみると。
「自分を捨てて、仲間を救う」という感覚。
これはキリスト教文化圏では理解しがたい感覚だ。
だから、たとえばアメリカ人などでは大戦中の「特攻」はものすごく恐ろしいことだった。
遺体はなくなるし、天国にははいれなくなるし。
「あの世」というのは「この世」の行動を決定する重要なファクターだ。
日本の宗教観とイスラームを比較する研究はそのことをよく教えてくれる。
基本的にキリスト教文化圏の場合、「個人が救われるか、非か」というところに天国の救済をもとめるので、まず自分を殺してまで共同体を救うという発想がない。
自分を殺してしまったら「それまで」になるからだ。
また、すべての責任は相手の人生のあると考えるからだ。
欧米的な自己責任論の根源だろう。
日本人の場合、分御霊(わけみたま)という考え方があり、いいかえれば「自分は誰かの分身」でしかない。
人間として生まれてくるときに、ひとつの魂のかたまりからちぎりとってつくる。
死ねば、そのかたまりに戻るだけ。
だから靖国神社問題でいう「合祀したものを分霊できない」というのはそういう性質にある。
またそういう性質だから、まず排他されるべきものがない。
悪い人間になるか、良い人間になるか。悪いムスリムになるか、良いムスリムになるか。
破門がない。
戦った敵もそのまま祭る方式は日本的なのだろう。
(その意味でいうと逆に靖国神社は新撰組などのいわゆる「反政府側」を祭っていないので矛盾があるかもしれない。)
イスラームの場合は同じルーツをもつ一神教であるため、キリスト教に似たところはある。
だが、決定的に違うのはイスラームのために死んだなら、天国にいけると考えるところ。
イスラームのためというのは仲間のため、だ。
それに宗派によって違うのかはわからないが、「光になる」という考え方も、「輪廻転生」的な考えをもつケースもあるようだ。
その感覚はイスラームのもつ「タウヒード・ウンマ・シャーリア」の感覚に似ている。
実は「不思議な日本人」の性質のひとつに「なぜよい日本人の感覚はムスリムのそれに似ているのか」というのがある。
例えば、豊かなサウジアラビアのムスリムが、アフガニスタンやパレスティナで困っているムスリムをみたら助けに行く、みたいな感覚。
「他国の人間なのになぜ」「当たり前だ、『人間=ムスリム』が苦しんでいるのだから」
隣町の友達が困っていたら、助けに行くよね。
その「隣町」概念が日本人のヤンキー魂では理解しにくいほどかなり広いだけの話で、本質は同じ。
いや、その手のヤンキー魂が中東・アフリカに広がっているとおもったほうがいいかもしれない。
しかも、ヤンキー魂の悪いところ=「自分がヒーローになりたい」が悪い方向にはじけていて、
その欲求をイスラム国をはじめとする過激派集団が
「満足させる」可能性をみせているところが事態の混迷を引き起こしている。
その姿も赤軍派が活躍したころの日本に良く似ている。
テルアビブ空港乱射事件なんか、イスラエルにしてみれば「なぜ???関係ないのに?」としか思えなかったはずだ。
イスラエルが日本に危害を加えたわけではない。
テルアビブ空港乱射事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%96%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E4%B9%B1%E5%B0%84%E4%BA%8B%E4%BB%B6
引用:
赤軍への国際的非難と日本での影響
当時は、テロリストが無差別に一般市民を襲撃することは前代未聞であり、事件は衝撃的なニュースとして全世界に伝えられた。赤軍による民間人への無差別虐殺には国際的な非難が起こった。一方でイスラエルと敵対するパレスチナの一部の民衆の間で実行犯たちは英雄視され、PFLPは日本赤軍の重信房子幹部と共同声明を出し、事件発生の日を「『日本赤軍』結成の日」と位置づけるなど、これに対抗する態度を取り続けた。
また、アラブ-イスラエル間の抗争にも拘らず、実行犯が両陣営とは何の関係もない日本人であったことも、世界に衝撃を与えた。日本政府は、実行犯が自国民であったことを受けて、襲撃事件に関して謝罪の意をイスラエル政府に公的に表明するとともに、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払った[8]。
日本国内でも、その年の3月に発覚した連合赤軍による山岳ベース事件に続く極左団体の凶行として、日本国民に強く印象に残り、凶行を繰り広げる極左過激派と日本国民との隔絶がさらに広がる事件となった。また、この事件において、武器を手荷物で簡単に持ち込むことができたことから、この事件以降、搭乗時の手荷物検査が世界的に強化されたほか、空港ターミナル内における警備も世界各国で強化されることとなった。
事件は、パレスチナ・ゲリラを始めとするアラブの武装組織の戦術にも大きな影響を与えたと言われる。岡本らが初めから死を覚悟した自殺的攻撃を仕掛けた事はイスラム教の教義で自殺を禁じられていたアラブ人にとっては衝撃的であり、以降のイスラム過激派が自爆テロなどをジハードであると解釈するのに影響を与えたとされている[9]。
この「何の関係もないのに参加するという感覚」は国家という概念が、イスラームではサブシステムになっていることから説明しないと理解が難しい。
それが今の中東世界の問題をつくりだしているともいえるが、そもそも民族や国家を超えたウンマ=共同体という感覚でものを広く考える感覚は、日本人がもっていた感覚とよくにている。
「道義的に天下を一つの家のようにする」=八紘一宇という言葉がある。それは、日本人独特の政治思想だ。
それ自体も「タウヒード・ウンマ・シャーリア」の感覚に似ているのかもしれない。
類似点は多くあるが、とにかくひところでいると「日本人は非常にイスラーム的」ということである。
それが悪い方向に働いたらどんなことになるか。
それは明治から平成の現在にかけての日本の「負の歴史」に見ることができる。
外来に対しての日本の団結力は、元寇の時代、秀吉の朝鮮出兵(スペインとの戦いという説あり)、明治維新、第二次世界大戦にいたるまで多くのシーンでみることができる。
しかも内紛を繰り返しながら、そのときだけ「団結」するのだ。「不思議な民族」である。
「イスラーム的」でなければ、発想できない。
(そうでない場合はほかの国の歴史をみるように「国」を売ろうとするやつがでてくる)
天皇制をもちだしてそれを他国に強制、最大の失敗だろう。
今でも残っている日本人の悪い感覚ではあるが、悪気のない「優秀な俺たちのいうことにしたがえ」みたいな言動が多い。
正直、あるIT系の某国際的プロジェクトでそれを感じた。「いまなおそうなのか」と。
ルールなき「無法」を放置して、「俺たちにしたがえ」なので、能力を超えた適応をもとめられ、それゆえに失敗したときにそれがサービス残業などにつながる。ブラック企業化の大きな原因になっている。
ルールなき「無法」があるから、いわゆる空気のよめない外国人や障害者が脱落する羽目になる。
「英語能力より、日本語能力が高くないと、日本で仕事できない」とされる理由は実はその性質にある。
海外の日本人はどんな人間とも対等に公正につきあおうとするが、国内のいわゆる「仕事を降る側にいる」階層に属する日本人はどうも他民族や少数者に対して「自分たちは選ばれた人間」みたいな言動をとりがちになる。
日本人の最大の弱点がそうした「他人をみくだす尊大さ」だとおもう。
「日本人には慈愛はないのか」
「ああ、ないんだよ。障害者で生きることすら『自己責任』なんだよ、日本では。」
そうおもわないと「問題が解決しない」、それが日本なんだと。
日本人はあるカテゴリーがすべて統一された見解をもつと考えがちである。
そのため、一部のイスラムの暴走をイスラムの見解ととらえてしまう。
日本人自体も同じ意見でまとまっていると感じ、そうでないものは日本人でないとみなす傾向すらある。
実は日本の内部そのものが必ずしも一枚岩ではない。
実のところ、国、官僚のいうことをそのままうのみにして、まじめにしたがう民間の日本人というのがめずらしいのではないか?
自衛官などの特殊な職業でない限り、そういう人はいないのではないか?
まじめにしたがっているとトラブルになるので、それぞれの思惑で動いている。
それが「障害者で生きることすら『自己責任』」という感覚の大本をなしている。
また、ルールなき「無法」のなか、秩序をもって動くスキルをもっている。
それが生得的環境に属する職人的学習にもとづくものなので、外部の人が体得するのが難しく、必然的に排他的な文化になってしまっているのだ。
そうした日本人の弱点である「尊大さ」をイスラームを標榜する組織がもってしまったら、それはもはや「イスラーム」ではない。
「知らない」ことに対する「慈愛」と「寛容」こそがイスラームを象徴するものである。
それは自らが「何も知らない、わからない」ことにたいする謙虚な姿勢でもある。
今のイスラム国がやっていることはかつて神道を国家神道として唯一の国家宗教に位置づけ、一神教のごとく国民および周辺国を巻き込み、
満州国を建設、その結果全体主義思想になって、自国民総玉砕、自国民滅亡寸前までおいやってしまったかつての日本の失敗と同じことだ。
その戦争の傷はいまだいえていないとおもう。
イスラム国がそのまま突き進んだ場合、おそらくかつての日本がそうしたように男性の戦闘員はおろか、女性、子供、障害者も戦闘員として最後の一人が滅亡するまで戦うだろう。
(そもそもイスラームでは法的に障害者の戦闘員条件付でOK、日本も人材不足で終戦直前はそうなった。)
実際このような有事のときは若い男性よりも女性や子供、障害者のほうが身動きがとれるため、戦闘員に変わる可能性は否定できない。
第二次世界大戦中の日本の動きをそのままイスラム国におきかえれば、展開はまさに同じことが起こるとおもわれるし、現にそうなっているのだろうとおもう。
もちろん内部的にそのようなやり方に「NO」を唱えたものへの粛清はあるだろうし、全体主義的な同調圧力も強いだろう。
ムスリムであっても反論した場合、反イスラムと解釈され、処刑されることもあるだろう。
イスラム国の構成員すべてがそういうわけではないが、急に大きくなりすぎて統制がとれていないというのはありえるとおもう。
ヒステリックなぴりぴりしたエネルギーを感じる。
ただ、かつての日本と違うのは「イスラーム」という「第三の機関」が存在するということだ。
「イスラーム」という「第三の機関」からみれば、イスラム国はマイノリティに過ぎない。
「第三の機関」いうストッパーがあるのはかつての日本と違うことだ。
「正しいイスラームなのか?」と問いただしたときに間違いだらけなのは明白である。
まじめすぎるがゆえにかえって「間違ったイスラーム」にしてしまっていることが問題である。
ヤンキーの学園漫画でいうところの風紀委員ががちがちの校則をもとに厳しい管理を行い、
リンチをおこなったりして結果、「悪役ポジション」にいる、そんな状況にあるのがイスラム国だろう。
風紀委員にしめつけられることはそもそも人間は望まないし、そういう自体がおきはじめたのも近代以後のことである。
では「第三の機関」であるイスラームの指導者が動かない?(それもある人にきかれた。)
イスラームの指導者がだす法的解釈を「ファトワ」というが、この「ファトワ」、法的拘束力がない。
誰がだして、誰のを信じるかによって影響力がちがってくる。
また、日本では昨今のイメージによる誤解が大きいが、基本的に「個人主義」なので、内面の思想が個人によって異なる。
「指導する共同体の仲間が…」という連帯責任的な日本人の甘い考えはここでは通用しないのだ。
(日本でもややそのようになりつつある。従業員の責任=会社の責任、が従業員に会社への忠誠心がなくなっているために指導が「不可能」になってきている。)
イスラム国の関係者の場合、その指導者/先生がなくなっていることもあって、指導できる人間が不在である。
また、生命の危険を感じる昨今の状況では、あるイスラム研究者がいうように「御用聞き学者」がでる傾向も人間のもろさをさしているだろう。
生命の不安を感じない状態でないと、理性的な判断を必要とするイスラーム的解釈は難しい。
それは2003年の修士論文研究で「下手なことをすると抹殺されるかも」という恐怖を抱えながら慎重に研究を続けていたときに経験からもよくわかる*1。
イスラームというものについて本当の意味でじっくり向き合えるフィールドはやはり日本なのかもしれない。
何がハラル(許されたもの)でなにがハラム(許されない)ものか。
上から管理されて考えることを放棄させられてしまったイスラームのあり方より、本来の「きちんと考え、行動する」イスラームを取り戻すには「違う意見を表明してもとりあえず命の危険がない」日本はイスラームについてじっくり考えることのできる場所なのかもしれない。
そんなことを考えている日々である。