男性自身は武器(weapon)である

ちょうど私の中で思考のコペルニクス的変換が起ころうとしているまさにそのとき、日本の世間では「こいつはゆゆしき事態!」おもう事件がおきた。

http://www.sanspo.com/shakai/news/090315/sha0903150506007-n1.htm
http://www.sanspo.com/shakai/news/090315/sha0903150506007-n1.htm


友人のブログにはコメントをいれたが、私自身のブログでも意見表明をしておこう。

http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200903150000
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200903150000


しかし、そのまま書いたのではこのブログからはじめて見る人は「???」になるのでこの問題に関連する軽い自己紹介を書いておこう。


■まずプロローグ…。
そもそも筆者である伊東聰とは何者か?


ここんとの記事で「聴覚障害」に優先順位をおいているように思われるが、聴覚障害は最終的に解決に向かわせたい属性で私自身の一部ではあるが、可能な限り消し去りたい属性だ。


今現在は解析&リエンジニアリング?途上なのでほかの人の参考になるように書いているが…。
(よくいうように社会に対する「義務」と考えているので…)


本当に私が大事にしたい私自身の属性。


「女性的なものを愛する長髪男性」といったところか。
…ただし今は「修行中&改造中」の身で長髪男性ではないですが。
そういうわけ「男性と女性の境界」は非常に重要なテーマになる。


では「女性的」なものとは何か。
たおやかさであったり、優雅さであったり、妖艶さといったもの。
文化的なイメージでいうと今は時代が追いついてきて、ビジュアル系というものがでているので「それ?」なのか?
その究極的なものは「両性的」なものだったりするのだが…。
ただし、両性的でありたいとはいってもメンタル面は非常に男性的なものを求める。
「女性の形であっても隠せない男性性」といおうか。


極端にいうと外見の形はすべて「女性ジェンダーベース」でいいと思っている人である。


キャッチフレーズはこれ。

「戦いのなかに剣をとりつつも身を宝石でかざりたるものとしてかたちづくる」。
(by トトメス讃歌)

「剣」は男性性、宝石で身をかざるのは女性属性のジェンダー


とはいっても「形が見えていない」のでそれを探し出して実現するには多大な情報収集&研究、実践が必要となってしまうわけで。


古代エジプト好き日本びいきもそこからきている。


さて話をどんどん飛ばしていくとそんな私が生まれたのは1974年。
小学校6年の1986年に「脱男性の時代」(渡辺恒夫・勁草書房)が出版される。
これが「なぜ『男』が『きれい』をめざしてはいけないのだろう」という当時の疑問に答える画期的な本であった。
その後、1994年に「男でもなく女でもなく」(蔦森樹・勁草書房)が出版される。


4、5歳のころ、「ヴィジュアル系の元祖」ののちに評された沢田研二がいた。長髪・アイシャドウの沢田研二は私にとって「古代エジプトの美的感覚を現代に復活させた人」というイメージで「あ、これこれ」という共感を感じる人だった。沢田研二はのちにBUCK-TICKにも影響をあたえているから結果論からいうと求めていたものは「それ」だったのだろうところが母が沢田研二をみて「気持ち悪い」といった。つまり、母が恋しい年代に母に「全否定」された。

沢田研二 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E7%94%B0%E7%A0%94%E4%BA%8C


※。「ヴィジュアル系の元祖」というとのちに「トランスジェンダー」とよばれる美輪明宏もいるが、私のジェンダーモデルにするには「ちょっと『いきすぎる』んだよな…」。


美輪明宏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E8%BC%AA%E6%98%8E%E5%AE%8F


その後かなりジェンダーの境界に対しておそらく人以上にセンシティブになってしまい、それがある意味幼少期の不適合の原因の一部になったと思う。原理主義的思考の原点である。


一方で「女性的な男性」を追及すれば当然、女装者やニューハーフたちにつきあたる。その過程で行き着いた思いは女装者やニューハーフたちに対して否定的な女性に対しての怒りであった。「美しさは女性の特権」とばかりに彼らを拒絶する女性に強い怒りを覚えていた。もちろん男にも拒絶的な人はいたが、それは当時は「嫉妬心」と「防衛心」がそうさせると納得させていた。女性の態度に納得がいかなかったのは「すでにもっているもの」を渡さないよ、とみえたその態度であった。


女装者やニューハーフたちを追求すれば「性同一性障害」にも突き当たる。
水商売などの夜の世界に足をふみいれることを固く禁じられていた私としては性同一性障害の研究フィールドがほぼ唯一「彼ら」と出会える場所であった。


1996年のことである。


■「男性自身は武器(weapon)である」
私自身にはもうひとつの大問題があった。「医療との付き合い方」である。
私の聴覚障害は誕生時の医療事故によるものである。
「脳障害が残る」といわれた事態で聴覚障害ですんだのはある意味奇跡だったといえるかもしれない。


ところがさらに「医学」に人生を翻弄される。
母である。
歯の治療から感染症を起こし、命の危機にさらされた母はその苦痛を訴えても病院に無視され、人間性を否定され、精神病扱いにされた。そのため「病院にかかるぐらいなら死んでやる」ぐらいのひどい医療不信に陥った。当然子供たちに対しても今であれば「虐待」として通報されてもおかしくないような暴力的な言動で「病院にかかること」=悪、という考えを叩き込んだ。実はその医療的知見はその15年後に「メカニズム」の研究発表が行われ、母の苦痛は「真実」であったことが判明したのだが。


結果的に考えれば、メスでしかすくわれない障害をもっていた私は恐怖とともにたたき込まれた「病院にかかること」=「殺されてもしかたがないほどの悪」というスティグマをはがすために私は「イスラームと医療と法」という医療倫理研究を必要としたのだが…。

1996年当時、性同一性障害を知った当時の私はそのような「自分の背景」にはまったく気がついていなかった。
だから現在では「医療は必要『悪』ではないのではないか?」というところにいきついている考えも当時はまったくなかった。
転換期は2002年時の留学時、「アラーはすべての病に癒しをくだされた。」という一節にであったことである。


そのため当時は「メスをいれなければ女性としての生活が得られない」とする考え方に強く疑問をもった。
「メスをいれられない人はどうなってしまうのか。」
服をきていれば「メスをいれる/いれない」は関係ない。
要はその人を他人が女性と感じるか/感じないかが一番重要であって、股間にあるもののことなど「関係ない」ではないか?
基本はそれぞれの思想や考えで決めればいい、しかし「手術の女性に同化して生きられる/生きられない」の境界にするのはどうか?と感じた。


だが、女装者、性同一性障害当事者とわず多くの「姐さん」は首を横にふってこう答えた。


「さとしくん、女性にとって『男性自身は武器(weapon)』なのよ。」


■女性が同性として「安全と感じるか」が「かぎ」
小学生のころから多くのニューハーフたちの妖艶な姿に胸をときめかせてきた私の世代を代表するニューハーフは「はるな愛」である。フライデーだったか、それまでの夜の世界の女というイメージをくつがえず「近所のおねえさん」的ニューハーフの登場は夜の世界と昼の世界のボーダーレス化のはしりだったのか…。そのはるな愛のインタービューで今でも印象に残っている言葉がある。


フレーズまで覚えていないので、内容だけだけど、こうだ。
「風呂は女子風呂に入っている。顔を知られているのでじろじろ見られるのだけどそんなときは股を開いてみせるとみなさん納得してくれます。」


また「性同一性障害」を表明している椿姫彩菜は、「女湯に行ったり、エステに行ったり、女の子としてできることが増えて楽しいです」と表明している。
椿彩奈 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%BF%E5%A7%AB%E5%BD%A9%E8%8F%9C


女性として第二の人生を歩み始めた椿姫彩奈、妖精スタイルで男性のハートをわしづかみ! - シネマトゥデイ
http://cinematoday.jp/page/N0015029


一方で私の女性の友人・知人で「戸籍&身体性別女性であり、女性ジェンダーを生きているにもかかわらず、そのような女性専用の場所への入場を拒否された人もいる。


「他人からみて『男性』にしかみえない」のが問題なのだそうだ。


さらにその逆でトランスジェンダーであることを明らかにしている状態で女友達と一緒に女子風呂に入った人もいる。
その逆でどうみても女性にしかみえないのだが、男友達につれられて男風呂にはいるニューハーフ、またはオペはしていないが男にしか見えないFTMもいる。この場合はその人の身分保障&安全証明を友人たちが行っていることになる。(ニューハーフの例を除いて基本その性別で通用しないと判断したら友人はそのような場所にはつれていかないだろう。)


そのことからみると「公的な書類が何か」「股間に何があるか」はあまり意味をもたないことがわかる。
女性が「同性としてうけいれるか」どうか、が重要なのである。
さらに他人が違和感を感じないで文字通り「パスする」ことが重要である。
つまりうまい言葉が見つからないが、「その人のもつオーラ」というか。


その人のオーラが男性に属するのか、女性に属するのか。


女性が無防備に肌をさらして安心できる場所は数少ない。女性風呂はそのひとつだろう。
それほどまでに女性という性は「男性」という性を警戒している。
そのような場所に「男性」をもちこむことは文字通り、「武器/凶器のもちこみ」に等しいだろう。
もしももちこんだなら女性の本能的な「凶器探知機」に反応してしまう。
そうした女性の本能に共感できるかどうか。共感できるレベルに女性であるかどうか。
それが優先順位の先にあって、かつ「単独行動」であれば「最低下半身の手術」が必要ということだろう。


意外に「男性」という性に属しているとそのような女性のもつ「凶器探知機」には気づかない。
だから先の私の自伝のような「女性の男性差別だ!」というあやまった認識をしてしまう。
そのために「じゃあ戸籍変えても、手術をしても残った骨格などの男性的特徴でタイホされてしまうのか?」
「じゃあ女友達に『○○ちゃんなら大丈夫』といれてもらった行為は…」
「じゃあFTMは男湯に入るのはOKというのは逆差別だ」という論理的視点のずれた議論になってしまう。


男性が彼女、もしくは妻や娘、といった大事な「女性」をもって「ほかの男性に傷つけられたくない」と感じたときにはじめて「女性のスペースに『男性』をいれないことによって大事な人の安全を確保しよう。」と思うか、もしくは姐さんたちが首を横にふって教えてくれたように「人間関係」によって事情を学んでいくだろう。


属する性別のオーラは自分では作り出せない。必ず同性の第三者の関係性が必要になる。
この体験の積み重ねをもってはじめて属する性別が自他とともに一致するのだ。
それを原理主義者も女装者も「他者の受け入れ」=「パス」と言う言葉でいってきたとおもうのだが…。


基本的に未婚の男性はあまりそういうことがわかっていない気がする。
また既婚男性でも支配的・自己中心的で「自分が思ったとおり&行動したとおりに周りが動く」と信じている人もそのことがわかっていないと思う。
そういう人が自分のファンタジーだけで行動を起こすとこういう展開になってしまうのだ。


もっともこの人の場合「フルタイム」はしていたようだし、「昭和のときは水商売をしていた」から「女性」であるとは思っていたのだろうけれど、だとするとなぜその「女性オーラ」が育っていないのだろう、という疑問がある。その意味で「人間関係の欠落」を感じたわけだ。


「望みの性」で生きるためには「人間関係は必須だ。」
人は人のなかで男/女になるのだ。


この事件の被害をうけるのは当事者と居合わせた女性たちだけではない。
「安全」の問題で施設の営業にもかかわるだろう。
またそういうことがありえるということで女性たちの「凶器探査機」のセキュリティ感度が上がってしまう。
さらにこうした身体ハンデをもっている人たちをみわける目が育ってしまって、本当の意味にハンデを考えながら生活している人たちのQOLがさがる。


本当はこの「凶器探知機」の存在を女性本人から表明してほしいと思うのだけど…。