第19回市民医療倫理フォーラム その4

■第19回市民医療倫理フォーラム

http://square.umin.ac.jp/menet/page042.html
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今回のたびの目的はこの方のおっかけ(笑)。
三橋先生。かれこれ13年近いつきあいになる。


先生の今回の衣装は伊勢崎銘仙
写真は先生のブログ参照。


http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200906070000/
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市民医療倫理フォーラム。
群馬大学大学院社会環境医療学主催で今回のテーマは性同一性障害と生体肝移植。


まったく違う分野のように感じるが、共通する問題があり、「最先端医療技術と医療倫理」ということで私の研究テーマの範疇だ。生体肝移植自体は最先端医療技術という範疇を超えている気がするが、実はまだまだ課題がある。


ということで今回三橋先生の特別講演と生体肝移植。


その前にこの市民医療倫理フォーラムとは何か、というと「答えのない課題をケーススタディを通して考える」イベントになる。ちょうど僕が受けていたIT研修の内容とにている。それを「専門家」とされる方々が討論方式でやるわけだ。かなり評判のいいイベントであるらしく、「ほかの地域での開催はないか」との要望もあるらしい。


ほかにも定期的に医療倫理ケース・カンファレンス(MECC)というものもやっているそうだ。

http://square.umin.ac.jp/menet/
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■三橋先生の講演
三橋先生のスタンスは一貫している。
「日本古来の伝統をひきつぐ女装家である」ということだ。


テーマは「性別を越えて生きることは『病』なのか?−性同一性障害を見直す」、つまり「性別越境者の病理化がもたらす問題」だ。


三橋先生の性別越境の歴史は1990年代、つまり性同一性障害(以下GID)の医療システム整備の歴史と重なる。その結果、1996年には「ニューハーフ50人」をネタにしてコミュニケーションがとれたものが2002年には「かわいそう」な人として同情されていきどおる。


これはメディアにより性別越境者=性同一性障害者というイメージ(メタ・モデル)が一般の人に形成されてしまったことによるという。「かわいそうな人」とされてしまうと対等な人間関係を形成することが不可能になる。


性別越境者=性同一性障害者を「性別越境者の病理化」という。


「性別越境者の病理化」のもたらす問題はまだある。
まず本来自由であるはずの性別越境が医師の権限によっておこなわれること、そして身体の治療にフォーカスされすぎて社会的スキル、リアルライフエクスペリエンスによる実際の適応訓練が軽視されていることだ。そのことによってさらに生活のQOLを低下させてしまう当事者が生まれている。さらに「医療化された性別越境」には「正常な男女」になることが求められていて、「あいまいな性」「第三」の性という存在がみとめられにくい。


「問題になぜ医師が気付けないのか」と三橋先生は問う。
(しかしその答えになりそうなものは生体肝移植のテーマでふれられる)


そして最後にアメリカの性別越境者の提言、「DSM(精神疾患リスト)から性同一性障害をはずし、ICD(疾患の多様性リスト)に残す」を紹介し、「自分の生き方、自分のあり方は自分で決める」という言葉で締めくくる。

○さとしの関心
・日本では「性同一性障害」をアイデンティティにもつ人が多い(三橋先生)。
→大半は「性別越境者=性同一性障害者」による誤解であるが、もうひとつは「聴覚障害者です」となのるのと同じかも。つまり「性同一性障害」「聴覚障害者」という現実と戦っているものという意味だ。この差異は問題が解決したら「名乗らなくなる」こと。「性同一性障害」というのは最終的に「男/女」の多様性にとけて、「障害でなくなる」という方向性をもつから…。


・「脱病理化」の提言をこわがる性同一性障害者(三橋先生)
長い間医療の手を借りられなかった歴史的トラウマがあるだろう。身体改造にはどうしても「医療」がかかわるし…。ただ、「では性別越境者が医療的ケアがうけにくい」という現実をどう考えるべきか(だいぶ改善されてきたようであるが…)。基本的に異端な身体をもつ人は既存の医療的ケアをうけにくい現状がある。「身体の中がどうなっているか、解析できない」から「医師がこわがる」のだ。そこにフォーカスしてなんとかならんかな…。


■生体肝移植
どこかで聞いたような「うむむ」なケーススタディ…。


テーマは「医療の自己決定をどう保障するか」


わがままかつ無謀な生活をして夫を裏切り、最終的に肝臓を痛め、生体肝移植しかないと宣言された妻が別居中のだんなに「肝臓くれ」と脅迫的にせまる話。「肝臓」くれなければ娘からもらうとも。優柔不断な夫は肝臓の適性検査までいわれるがままにうけてしまい、「NO」とはいえない状態に!


家族…ときくと通常は「仲のよい家族」をメタ・モデルとしてもっている。そのためにいろいろな日本国の制度はまず「家族」を一番信頼できる人間関係において設計しがちである。


しかしこのケースは「破綻家族」だ。「破綻家族」が家族をまきこんで医療を受けることができるのか?


ここでもでたのが「家族の問題になぜ医師が気付けないのか」これは「医療化された性同一性問題」にも通じる。
気付けないのが問題ではないようだ。


まず「しくみ」の問題がある。
ずるずるとレールにのるように肝臓の適性検査までうけた夫。これでは妻が「期待してしまう」のも無理はない。夫が提供するか/しないかの意思を確立させてから検査をするしくみが必要だった。


あとは家族関係の確認。医師に妻が「本当のことをはなしていない」可能性が高いのだ。インタヴューでさぐっていく必要性がある。


そうやって夫の自己決定を保障する必要があるとのことだった。


だが、ほかの意見もあり。
「家族の問題は家族の問題であって、医師はそこまで介入できない」というものだ。
家族の問題は家族で解決してもらうしかない、ということだ。


なるほどね…。これは三橋先生の「なぜ…」に通じるだろう。


要するに「私生活」「家族問題」には医師は介入できない。


でも性同一性障害にせよ、生体肝移植にせよ、本人以外の人生も変えてしまう決定だよな、これ。

資料に生体肝移植の概要がある。

一般社団法人 日本肝移植研究会
http://jlts.umin.ac.jp/


http://jlts.umin.ac.jp/donor.html
http://jlts.umin.ac.jp/donor.html

2003年。抜粋、抄訳。
III. 生体肝提供(ドナー)手術の危険性
 現時点では海外の手術の危険性に関する情報不足。
 肝提供(ドナー)手術の短期的な危険性は良性肝腫瘍に対する肝葉手術とほぼ同等。
 インフォームドコンセントが必要。

 生体肝ドナーの死亡
 →欧州における2000年末までの全生体肝移植登録例430人中、ドナー4人 (0.9%) の死亡。
 →米国では生体肝ドナーの死亡は約1,000人中3人 (0.3%)
 →生体右葉肝ドナー2人が残肝の容量不足で肝移植を必要。

IV. 生体肝ドナーの前提条件
1. 健常人であり移植チームから医学的に耐術すると判断。
2. インフォームドコンセントを理解できる。
3. リスクを理解して承知していること。
4. 倫理委員会が認定したドナー条件を満たすこと。
5. 臓器提供に関して強要、自発的意思に基づかない提供、あるいは金品授受等の利益供与の疑いがない。
6. 手術後の長期の経過観察に応じることが可能。

V. 生体肝ドナーに説明すべき事項
 リスクをを正確に予測することは困難。
 インフォームドコンセントの取得に際しては、以下のリスク説明が必要。

1. 全身麻酔下の外科手術に共通する手術中あるいは手術後の危険性、即ち出血、感染、麻酔合併症、死亡1)など
2. 一般的な腹部手術後に起こりうる合併症、即ち消化管機能障害、腸閉塞、消化性潰瘍、腹壁瘢痕ヘルニアなど
3. 肝切除量が多い場合、残肝容量不足から術後肝不全になる可能性
4. 早期あるいは晩期の胆道系・血管系の合併症
5. 成分輸血や血液製剤の投与に付随する危険性
6. 一時的あるいは永続的な身体的または心理的な損失や有害事象
7. 晩期の未知の合併症


途中までしかいなかったので結論部は不明。
三橋先生に挨拶して去る。


伊勢崎へ向かう。
伊勢崎まで友人が迎えに来てくれるとの事。
群馬県は基本的に公共機関の便がよくないそうだ。


<つづく>