研究テーマの方向性「振り返り」

ちょっと障害、ジェンダー系をベースにイスラームとかやっている私だけど…。
本来やりたかった研究というのは
帝王学」、すなわちリーダーシップ、
「軍事・戦略」、「意思決定」。


ところが、「障害もち」っていうのはこのテーマでは「入り口」でこけるんだよな。
「なぜ『障害もち』がリーダーシップ、軍事・戦略、意思決定を駆使する立場になれたか」
ここから課題がスタートするんだよ。
逆にいうとここなくしては「リーダーシップ、軍事・戦略、意思決定」に主体的に関与、なんてありえない、っていうのが「障害もち」。


まず立場、そして「主体的に関与できたか」。
そして「なぜうまく駆使できた/できなかったか」と論理が展開していく。


「『障害もち』がリーダーシップ、軍事・戦略、意思決定を駆使する立場になるためには」だけで結構大変だよな。


そこをうまく解説しているのはやはりイスラーム
先のアバサ章の盲人、実はのちにサウジアラビア・メッカの市長になっている。
そのほか、イスラームの世界では障害を克服した指導者がほかの文化に比べて多くでている。


「『障害もち』がリーダーシップ、軍事・戦略、意思決定を駆使する立場になれるか」に10年。
答えはやはり「なれる」になっている。
ここからリスクマネジメントにはいる。
共通しているのは「保守的・短命・成功が個人の周囲に限定されるである」ということ。


例外はエジプト・ハトシェプストの22年間の治世と奥州の覇者となった伊達政宗だ。
ジェンダーの例にしぼると多くの女性君主で長期政権の人いますがね。)


ただしハトシェプストの権力は非常に個人が制御できる範囲のものであったし、やはり「視野狭窄」がある。
たとえばプントの貿易。ハトシェプストからみた視点では「成功」だったらしいのだが、貿易の利潤が王室の独占状態になって、市場経済としてはよくなかったらしい。


伊達政宗も実は大局からみると非常に個人的・局地的な成功ともいえる。
あー僕のまわりは伊達政宗すきな人多いけれど「障害もち」が見習うにはすごくいい戦国武将だよな。
ただ大事なことはむしろ伊達政宗本人というよりは両親かな…。
障害もちの子どもをもつ親が伊達政宗の両親から学べ、という感じ。


まあ、今のところの結論としては3つ。
「自己肯定感を低下させるな」
「過保護にして甘やかすな」
「かんじがらめに管理するな」


それを実現するのにどうするか、「研究」=「実戦」でがちゃがちゃやっているのだが。


■「自己肯定感を低下させるな」
比較的コストをかけずに貧乏人でもできるプロジェクト。
解説済み。
必要なのは話を聞く精神力。


■「過保護にして甘やかすな」
一部「気の持ちようもある」がちょっと難しい。
過保護がダメだから「甘やかさない」ために、と教育支援なしで障害者を野にほうりだすのは
「基礎訓練をしないため、銃の使い方もわからん兵士を実戦にそのままだすようなもん」で
「そりゃおかしいだろう」


原因は「障害者がわかりません&健常者がわかりません」にあるから、
まずがそこの理解は重要。


でもね、このパターン結構多いんだよ。
この問題さらに健常者の子どもの教育に派生している。


右も左もわからないのに過酷な現場にだされて、
助けを求めたら「甘えるな」といわれたから逆切れ。
人によってはそれが原因で人様に迷惑をかける重大な犯罪をやって、精神鑑定へ。
精神鑑定の結果、「まさか」と思う基礎的な部分がまったくできていなかった、みたいな。
正しい解決方法って「まず話をきいてどこにボトルネックがあるかさぐること」なんだよ。
早い話が「思考のゆがみ」だからな。


「常識、良識、美徳」が現実的解決としては「思考のゆがみ」の場合もあるのだ。たとえば「夫をたてて、従順であること」という美徳も
夫が支配欲の強いDV加害者だった場合には「思考のゆがみ」だ。
この場合現実的解決としてその「美徳が正しいか」という判断をしないと
妻はDVからぬけだせない。
「離婚=悪」だったらさらに最悪だよな。


■「かんじがらめに管理するな」
の日本では最悪に難しい。でもここをなんとかしないと未来はない。
直近の話でいうと「官僚制度」破壊かな。


障害者・福祉と簡単にはいうが、そこには「利権」がぶら下がっているんだよ。
僕の人生のきっかけとなった12歳のときの「難聴者差別の名簿」。
ある意味僕と社会制度の関係はそこからはじまっているのだが、
「子どもごころ」には「障害者への偏見&先生の決断力」の問題と思っていたが、
長じる過程でいろいろと調べていくと実は「金や利権や利害」の問題だった。


つまり僕を「健常者とするか、難聴者とするか」で
学校にわりあてられる「予算」がかわってしまうんだよ。
で、わかりやすくするために「難聴者差別の名簿」が生まれたのだ。
まさかと思うだろうが、関係者に直に聞いたから本当だ。
当時はRDBってもんがないから、
障害者に目印をつけて、という管理ができなかったのだ。


ひどい話だろう?


「難聴者差別の名簿」を根拠に「難聴者は半人前」といわれつづけて
ほとんどすべての「やりたい」に対して「妨害」やら「懐柔やら」あのテこのテ。
「難聴者の分をわきまえろ」ってわけだ。


じゃあ実力で、ということで成功して今の僕があるわけだ。


だけど…子ども時代の「社会に対する孤独な戦い」って基本はよくない。
なぜかというとほとんど大多数の人間のコミュニケーションって
「子ども時代、つまり幼稚園から高校までの人間関係のあり方」が共通の常識になっているんだ。
そこの体験がごっそり「ない」ということは、コミュニケーション障害につながる。


コミュニケーション障害だけは…ねえ。
それは「克服しない」とめしが食えない。


僕は障害者福祉って「保護」じゃなくて「訓練」じゃないかなと思っている。
要するに「守・破・離」ではないが、常識の土台があって、
「目的のために手段を選ばないことができて」、
人と仲良くする、最低でも仲が悪くならない問題解決思考を鍛えられていれば、
障害者問題は「なきに等しい」ものと思う。


実際戦前まではそうしてきたんだし。
あえて戦前と違って何かするんであれば「バックアップ」だよね。


日本の福祉は「個人の有志」に依存しすぎていて、
社会全体に影響を広げるような大規模な活動ができないわけだ。


だから「福祉法人」って多いだろう?
要するにそれは「個人の有志」の歴史なんだよ。


どうしましょ。


とりあえずできることとして「自分が事業できるぐらい大きくなること」しかないよな。
今のとこ。
あとは確定申告とかで「寄付金」とこあるだろう。
該当するところとしないところと。
収入の一部を意識的に寄付する。
そんなレベルだよなあ。
「福祉法人」やりたい!といった友人が何人かいて、
おもしろそうだからちょっと参加して知恵出したりしてたけど、いろんな事情で全部こけた(苦笑)。
一部は時代をみていて「こけてよかった」の世界だけどね。
関係者が生きているから「野心」捨てなければまた「やる」と思うけどね。
まあ「難しい」です。


まあそんな人生のスタートきって30年。動き出して20年。いろいろがあって10年。


以上。