【書評】田原 牧 著 「中東民衆革命の真実−エジプト現地レポート」

中東民衆革命の真実 ──エジプト現地レポート (集英社新書)

中東民衆革命の真実 ──エジプト現地レポート (集英社新書)



■総合的書評
 もっともらしく語るジャーナリストというのは多くいる。もっともらしく解説する中東地域研究者というのは多くいる。表面だけかかわってみてきたようなことを語る目撃者も多くいる。己のイデオロギーにしたがって公開する前に情報を取捨選択してしまう人も多くいる。しかし、当事者性をもって事件を感じ、それを淡々と記述する。そしてあとで一ジャーナリストとしての観点をすっと述べる。わからないことはわからないと表明する。そして己の見解を謙虚に述べる。そういうジャーナリストはなかなかいない。


 筆者のそのようなスタンスは過去の著作にもでており、それゆえによめば読むほど多くの観点でそのシーンをながめ、味わうことになる。なにか答えを得た気になることはない。「何が正しくて」「何が間違っているのか」がわからないようになっている。読めば読むほど逆に「もやっ」としてくるかもしれない。それでも「中東革命」を知りたければ読む価値は高い。著書を読んで私が何を感じたか。その中に「答えがある【かもしれない】」。そのような構成になっている。


 いや、わからないようになっていることのほうが正しいのだろう。なぜならばわれわれは現在進行形の歴史的事件のなかに存在しており、現在進行形の歴史を可能な限り記録する仕事がジャーナリズムなのだ。ここで記載された事実の意味が事件が過去のものになるにつれて変わってくるというのは歴史学をかじったものであれば「当たり前の常識」である。聴覚障害をもつ私が現在進行形の会話を理解できずにとまどいうろたえるのと同じように歴史の中の当事者にも何がおきているのかなんてわからないのだから。


 しかし人間は「納得したがる」生物である。理解不能な事象をそのままにとどめずに仮でもいいから何か答えがないか、と求め続けるものである。ゆえにジャーナリストという役割があり、中東研究者という役割があり、イスラーム法学者という役割がある。人はその己に課せられた役割のなかで仮の答えを語ろうとする。「アッラーのみがご存知」ということを大前提にしても。


 昔筆者にお会いしたときに、「イスラーム研究者でないから観点が違うかも」という旨をおっしゃっていた。そのように謙遜しながらも筆者がイスラーム的考え方にもエジプト人の国民性、気質にも深い理解を示していることはよくわかる。その「中東地域の事情通であるジャーナリストのひとり」としての社会的信用をもっていた筆者を襲った「想定外」の歴史的展開。それが2011年1月25日おきた「エジプト革命」であった。「中東」でなにが起きているのか。それを知るためには現地に飛ぶしかない。現地滞在は2月10日から1週間。この著書はそのわずか1週間、革命の終盤に現地にいた筆者の事実の記録である。


「思考の土台は事実にある。不可視の時代を切り開こうという勇気ある人たちの精神的営為に、この拙い記録がわずかながらにでも参考になれば」。
ではじまるこの記録。私は筆者がいうように、答えがあるのか否か分からないという問いについて、考え続けるという蛮勇に心引かれてみたいと感じた当事者の一人である。


■この本の読み方

 舞台は昔「日本人街」とされたザマーレク地区を筆者が歩くシーンから始まる。いつもと変わらないシーン。「ムバラク大統領がやめた」というニュースで歓声があがるシーン。そして翌朝の新聞。「エジプト人に何がおきたのか」。読者は筆者に視点をあづけながらタハリール広場に向かう。
 
 
 道行く人々の生の声。いつもの筆者の手法だ。生き生きとしたエジプト人たちの声を感じることができる。そのインタヴューにリアルに参加しているような錯覚に陥る。風景、非言語的コミュニケーション。読者の意識は筆者とともに革命の現場にいる。


 本の構成は次のようになっている。冒頭のシーンではじまるプロローグこと、第一章。そこにいたるまでのエジプト事情をかたる筆者が起こした「読み間違い」について。そして旧世代と若者とのギャップ、それゆえにおこっているムバラク政権への評価。そして革命の舞台となったタハリール広場の様子が第四章に書かれる。革命をささえた既成勢力、つまりは有名なムスリム同胞団共産党をふくむ野党勢力、これらの組織について未知識のものでもわかる解説とともにその動きをつたえる第五章。そして革命の最大の要因となるアウラマ、英語でいうグローバリゼーション。イデオロギー主義の崩壊という新しい形の革命。そして米国とイスラエルとの関係。最後に「どうなってしまうの〜」と読者を困惑させたままでこの本は終章に向かう。もちろん本当の展開は筆者にもわからないからだ。

 しかしそういう「展開のわからない」状況に関してキャリアある専門家として筆者はあらゆる展開を想定しながら解説を試みる。インタビューをしてきたあらゆる人々の声を紹介しながら。視覚的情報、聴覚的情報、感覚的情報。五感のすべてを表現することで革命のリアリティを伝える。
 
 
 筆者なりの答えはこうだ。「国家という論理を超えた革命」。人間の尊厳のための革命、ゆえに革命そのもののグローバリゼーションがおきていると指摘する。ゆえに見えない、わからない。その革命はもはや中東だけのものではない。日本にすら起こりえる、と。

 その指摘に共感できるかどうか、は読者一人ひとりにゆだねられている。


■個人的感想

 この本を日本で買って、エジプトにもっていって読んだ。ホテルの宵の時間を使って味わっていた。かつて報告会があったときにはいわれた「結論」は「わからない」だった。ゆえに「わからない」もやもやを抱えたまま、革命後のエジプトへ入国した。
 
 革命後もエジプト人はかわらなかった。だからかなりほっとした。しかし、ある種の警戒心は怠らなかった。
 
 「わからない」の正体、エジプトにいってこの本を読み、エジプトの空気を感じて思ったことがある。「まさかまさかの事態がまさに【これから】おきようとしている」ということだ。
 
 イスラームをベースに中東地域を研究をしていると日本人に説明するのにひどく悩むことが2点ある。ひとつはイスラームとはなにか。日本人が考えるところの「宗教」ではないのだ。自然法を明文化したものなのだ。この皮膚感覚が日本人にはわかりにくい。自然法であるとはどういうことか。人間がつくった法やシステムをすべて超越して優先されるべき法則であるということだ。つまり「人を殺してはいけない」という法は人間がつくる法よりもはるかにはやく「人間の普遍的倫理」として法として成立している。それがイスラームである。「イスラームとはマナーである」という表現も聞いたことがある。「人間が本能的に持っている内面的良心がイスラーム法だ」、というとらえ方もある。
 
 もうひとつはイスラームは「領域国家」を超えた思考でものを考えているということだ。当たり前のものを考えられている領域国家は実は欧米のシステムでつくられた国家であって、イスラームがめざすそれとは違う。「日本はイスラームでないから」「エジプトはイスラームだから」という識別思考はそれ自体がナンセンスなのだ。イスラームの理念は人間のつくった国家の理念を超えた普遍的なものをめざす。ゆえにトラブルの元凶となりやすい異文化交流のリスクを背負ってまで貿易(隊商)の仕事にたずさわることができたのである。どこにいってもどんな民族であってもイスラームを媒介とすれば心が通じ合う、信頼しあえる。人類として普遍というそういう装置を提供することがイスラームのもつ本質的力だった。
 
 しかし現実にはそのふたつの大原則を実現することは難しかった。その理念に一番近づいたのは12世紀のアッバース朝の時代といわれている。それ以後は欧米的な思考に基づいて国際社会が運営されえている関係上、イスラームの理念は「理想論」にすぎなくなっていた。
 
 だが今回の革命を起こしたものはまさにイスラームの理念がめざしていた「革命」ではなかったのか?間違いないようにいっておくと中東でおきた一連の革命はイランが考えたように「宗教的な」イスラーム革命では決してない。中東で革命が起きたとき、われわれはたとえば「エジプト革命」と理解した。そしてその原因をエジプト的な、地域的なものに求めて未来を予測しようとした。だから、「想定外」の展開になってあわてることになったのだ。 
 
 「領域国家が当たり前」と感じるように、瑣末なサブカテゴリで革命を理解しようとした。たとえば、失業問題、格差社会、などである。実はそれは原因の一部でしかなく、もっと本質的なものが起こした革命であること思い当たらなかった。
 
 パキスタンで2011年5月2日、ウサーマ・ビン・ラーディンが米国に暗殺された直後に彼の部屋から大量のエロビデオが発見された。そのときの「ビン・ラーディンだって『男』だよ」という同情。革命の原動力はそういった「人としての共感」。決してイスラーム主義、アラブ民族主義などの地域政治的なイデオロギーではなく、「敵味方」さえも超えた日本人でもできる「同じ人間だよね」という「共感」だった。
 
 あらゆるイデオロギー、カテゴリーを越えて「神のもとでは等価で平等な人間であること」。イスラームは数百年かけてそれを目指していた。革命はそこに基づいて発生した。まさにイスラームが推奨する「人間観」が原動力だった。そしてそれはイスラームという言葉さえ無視して全世界に共感を広げ、行動力に変えたのだった。

「携帯電話がほしい」「車がほしい」「男だってきれいになりたい」「就職して幸せな家庭を築きたい」「もっと自由な発想でビジネスをしたい」「もっと新しいことに挑戦したい」…。
エジプト人の若者だって、日本人の若者と変わらないという事実。

「なぐられたら痛い」「友が死んだら悲しい」「隣人を助けたい」…。そういう「想い」が大事。イスラームとかアラブ世界、中東世界…。反米、親パレスティナ、そんな「瑣末なもの」をこの革命はふっとばしてしまった。

 筆者はそのことをアウラマ、グローバリゼーションという言葉で説明した。私はそこに少し補足したいと思う。そのグローバリゼーションは革命を起こした当事者でも気がついていないかもしれない、欧米諸国の作り出した「それ」とは違う。アッバース朝の再来とまでいうと言い過ぎかもしれないが。だとすれば欧米中心の思考に偏向すること、イスラーム主義に偏向すること、いずれも現在進行形の事件を読み解く「障害」となろう。
 
 最初はささいな思い付きだった。やってみたら、革命が成功してしまった。「人間として」という共感が革命の原動力だった。しかし、人間は弱いものである。ふたたびイデオロギーという偶像にしがみつきたくなる。イスラーム主義も「偶像」のひとつになる。そうなった場合に果たして彼らが期待した政府はつくれるのか。また、実は「革命」ではない、という解釈もある。なぜならば、エジプトの場合、軍のコネクションが強い。革命に便乗して軍部が軍部に都合の悪いムバラク世襲を阻止しただけかもしれない。だとすれば本質的構造はなにも変わっていないということになる。日本がかつて「財閥解体」「農地解放」で富裕層が痛みを追ったように軍部にも傷みをおわせて民主化することはできるのか?またそこまでのぞんでいるのか?
 
 わからない。だが、ひとつの歴史的転換を迎えた事件現場にわれわれがいたことは確かなようである。


以上。