☥ 硝子の楽園 伊東聰 004


「潜入成功と連絡がはいった」「そうか」「これからが大変だ。真島のことだからなんかポカしそうで」「シルヴァー、お前がいうな」「俺は違う。俺はわかってやっている。」「その『天然』が恐ろしいんだって」ここは新宿・某所。医院の一室。

スタッフもいなくなったその医院の片隅で語る二人の影。一人は真島の相棒、シルヴァー、もう一人はこの医院の院長、通称「ドクターリロ」こと、利郎(としろう)であった。表向きはかたぎの医師。だが「裏の顔」をもつ闇医師でもあった。

うすら寒くなった季節にあわないノースリーブの肩をさすりながらシルヴァーはいう。「浦神医師、穏やかな人徳者に『みえる』らしい。お前の知っている浦神医師と違うことは確認できた」「人間は本性はそう簡単に変わらないはずだがな…。

「やはりあの事件が人格を変えたのか。もっとも俺にはそれこそが一番信用ならんがね。」リロはいう。「面識はあるのか」「ああ。事件前ならな。学会で会うこともあった。もっとも付き合いたいとは思わない人間の一人だった。」

「知ってのとおりだが、あの男の実家は古くからの地元の名士だ。地主で広大な土地をもっていたと聞く。戦後の農地改革でそのほどんどを失ったとはいえ、彼の祖父にあたる男が先見の明のある男でな、次男坊だったとかで軍医だったらしいが」

「戦後の高度成長期、いわゆる『列島改造論』が盛んになった時期かな、道路の建設には多くの砂利が必要だった。で、岡山ってのはその良質の砂利のとれるところでな。残った山を切り崩して砂利を売り莫大な富を作った。」

「その資金をもとに息子を医者にして医者の嫁をとらせて医業一族になった。病院も作った。本家をさしおいてどんどん大きくなって最後にのっとった。当然孫である跡取りの浦神医師もその流れで医師になったが、こいつが『くそ』でな。」

「たぶんもともと本人が成り行きに流されたというのも大きいんだろうが、勉強はできたから医師にはなったが、なにせ医師になりたい『動機』が『金をかせげるから』だ。親の七光りで周りがちやほやするからお約束のように傲慢な男になった。」

「その『くそ』がまた『女に間違うような美形』でさ。おりからのビジュアル系ブームもあり、あっという間に人気者だ。美形すぎる医師とかいってセレブたちに人気で、そこに目をつけて美容外科をつくった。」

「それが『ウラカミ美容クリニック』か。」「そうだ。そんな『くそ』でも腕はたしかで技術的には妥協しないやつだったからそこそこセレブ女たちの口コミで人気になった。やつの傲慢さへの悪評は絶えずさ。ところが、だ。あの事件だ。」

「その事件自体が『なぞ』が多いらしいな。」「そうだ。今回の案件で俺がはなからあいつに懸念をもつのはそこからだ。15年前のその日、彼が帰省しているときに実家が火事になった。両親は死亡、やつは重症を負いながら一命をとりとめた。」

「その『後遺症』が問題だった。美容外科はイメージ戦略も重要だろう。特に彼の場合自分の美貌のこともあり、よりそこを意識しただろう。そいつが修復不可能なダメージをおった。当時のマスコミにもめちゃくちゃかかれたよ。」

「で、世間から姿を消したはずだった。それがまさかのどんでん返しを仕掛けてきたわけだ。」「そう、それから5年後、やつが『復活』した。」お茶で興奮をしずめてからリロは続ける。「さすがに世間に姿をみせたわけではないんだがな…。」

「闇医師やっていれば聞こえてくるセレブの口コミでなんだがな、最初に俺聞いたときはふいたよ。なんだと思う?『魂を救う美容外科』だってさ。」 「はあ?」「どぎもぬいたもいいところだ。金と名声のことしか考えなかったあいつがだよ。」

「まあ熱傷を負うと回復するのに数年はかかる。それでももとには戻らない。廃人になるか思いきや自分の不幸逆手にとんでもない『切り札』だしてきたわけさ。もともと美貌どうのにこだわりがなかった頭いいやつだったのかもしれないが…。」

「ちょっとまて。話が見えないがどういうことだ?」シルヴァーがききかえす。「なあ、『形成外科』とはどんな仕事かわかるか?」「醜い傷跡や奇形の体を『きれいにすること』ではないのか?」「『きれいに』か…ふん…」

「確かに『きれいにする』ことだ。実際問題、形成外科という分野が医学で生まれたのは近代戦争、特に。第一次世界大戦の武器が原因の顔面創傷の問題がきっかけだ。ただ傷を治すのではなく、可能な限り『元に戻す』ことだ。」

「俺たちは『再建』という言葉をよく使うが、社会復帰を視野にいれて見た目機能も含めて解剖学的に正常な状態に『戻す』のが形成外科の役割とされる。一方で美容外科なんだが、前提は「美意識」だ。形成外科とは方向性が異なる。ところがだ。」

「患者の側からみたらどうなる?」「患者の側…」「『命が助かったのだからいいんじゃないか』といわれたらどうなる?命は助かったが『元の生活』に戻れなかったとしたら納得いくだろうか」「…」「やつが目をつけたのはそこなんだな。」

「多くの医業をめざすものは『昔』の浦神医師もそうだが、提供する側の感覚のみでされる側、つまり患者の想いにまで目が行かない。そこに医師と患者の大きな『ギャップ』が生まれる。『命が助かったのだから』と患者の声は『黙殺』される。」