☥ 硝子の楽園 伊東聰 008

標高49Mの小高い丘のある首島の散策はそれほど大変なことではなかった。もともと一時期流刑地として使っていた以外は無人島だったらしい。

浦神氏の自宅の裏山が一番標高が高くちょっとした見晴らし台になっていた。島自体は2km四方でそれほそ大きくない。町のあるほうは断崖絶壁で人が上陸できる場所はない。桟橋はみたところ1か所で島の裏側にまわりこまないと上陸できない。

島の南西部分に桟橋があり、近くに砂浜があるようだが少しだけだった。そこから診療所の向うが丘陵になっているところにむりやりつくったらしくわかりやすい道はない。なのではじめてきたとき浦神氏の自宅の裏側にでたわけだ。

島の北東部分、丘陵の裏側、一応島真ん中に道路はとおっており、テラスハウスが「隠れ里」のように存在している。テラスハウスの前には畑が広がり自給自足ができそうだった。丘にもみかん畑がある。テラスハウスは一棟4室の3件あった。

浦神診療所の病床数は少ない。入院できても15名ぐらいだ。病院と診療所の違いはその病床数にある。20床以上あれば「病院」、19床もしくは「なし」であれば「診療所」となる診療所の開設のほうが簡単なため、そうした、と浦神氏はいう。

。医療法第8条というやつで決まっていて、入院設備があるために設備その他についてについて岡山県知事の許可はある。これは同27条。診療所だと開設する場所にも制限がないために、私有地であるこの島につくることができたのだという。

しかしこの診療所が実質「形成外科」病棟であるために、当然患者が長期に滞在する。東京の美容外科の場合は近隣のホテルを利用していたらしい。当初は浦神氏の自宅の部屋にいたが、手狭になったためにこのテラスハウスを建てたのだという。

もともとここは浦神一族の代々の「ホーム」のようで明治/大正になって自宅である洋館を建てた。接待のための秘密クラブだったらしい。島の南東には今はつかわれていない古い墓地がある。灯台が墓地近くの高台にみえたが「現役」かあやしい。


※イメージです。元ネタ 和歌山・串本 紀伊大島・樫野崎灯台
樫野崎灯台 とっておきスポット『海岸・岬』


古い墓地の中に興味深いものをみつけた。祠である。が、興味深いことに祠に十字架の紋章がある。「『キリスト教徒』なんですよ。」浦神氏がいった。「江戸末期まではむしろキリスト教徒を弾圧する立場でした。『改宗』したんです。」

「日本が欧化政策をはじめた明治中期に『改宗』したんです。もっとも信仰心なんかなく『世俗的な』動機ですけどね。上流階級に『コネ』をつくろうという…ね。『迫害者』から『改宗者』に、というわけです。」

研修医のサファイアンとその「仲間たち」と看護師の昭子はテラスハウスに、太一とあの少女陽菜は浦神医師の自宅にすんでいるようだった。長期療養の患者が「殺到」するときもあるようだが、今のところ数組しかないようだった。。

テラスハウスはいわゆるグループホームを兼ねているようだった。診療所の入院施設には集中医療の必要な「重い患者」が多いが、テラスハウスには日常生活に支障の「少ない」患者たちが生活していた。こうしてみると普通の島民と変わらない。

この「島民」をみていると浦神氏が「外部の立ち入りをあまり好まない。」のかの説明は不要だった。浦神氏をみつけると明るく声をかけてくる島民。それにほほえみでかえす浦神氏。だが「俺」をみた島民にある種の「緊張」がはしるのがわかる。

それは「俺」という「よそもの」への警戒心ではなく、「異形の自分」を他人にさらすことへの緊張感だった。そう、ここは「形成外科病棟」の中。見た目の治療はすすんでいても患者たちの「心の傷」は「癒えていなかった」。

と、なると「浦神氏」への疑惑は杞憂ということなのか?自分の身に起こった「不幸」をきっかけにこの風変わりな「形成外科」の診療所をつくった、というだけかもしれないとも思ってみた。このような例は枚挙にいとまがない。

※イメージです。元ネタ 沖縄・久高島 桟橋

自室に戻った「俺」はこの島の地理を反芻していた。島への入り口はひとつ。そのほかは【今のところ】外部へぬける出口はない。行方不明の人の遺体…。あの古い墓地。いや…さすがに警察はそれをきちんと調べているだろう。

「俺」は過去の「人体実験施設」の規模を考えてみた。歴史上第二次世界大戦中のナチス・ドイツのそれが有名であるが、この国の場合はもっとややこしい問題がある。旧日本軍の731部隊である。「軍医学校防疫研究室」の下位組織でであった。

ナチスの人体実験は裁判沙汰になった。しかし731部隊の場合はGHQに資料を提供し、裁判には行われなかった。そのため、多くの事実が「謎」になりその「関係者」は大学教授、開業医、民間製薬会社など医療業界に「埋没」した。

「埋没した」「彼ら」はその後も連絡を取り合い互いに「監視」を続けた。「監視」という不自由さと引き換えに大学、官公庁、民間企業の相互関係で繁栄をつづけた。731部隊、日本の医学史上の暗黒面のひとつである。

浦神一族もそのような歴史的流れの中にいた一族ではなかったか。一族の経歴をみると日本医学の暗黒面とは関係ないとはいいきれないだろう。浦神氏はその一族のミッションにある意味忠実なのかもしれない。セレブとのコネクションがそれだ。

医学は「仁術」といわれる。だが、日本の医学史は少々そのあたり黒歴史の積み重ねであるともいえる。日本の医学史は3つの系統がある。いわゆる東洋医学系、キリスト教からの西洋医学、そして近代の軍事開発における医学史である。

日本の病人/障害者観の一つはキリスト教的な「慈悲」によるものだ。「不幸な人に救いを与える」。日本の医療福祉史はキリスト教ベースの有志の個人的な活動が多い。非常に小規模かつ局所的な活動にとどまり、規模が拡大することは難しい。

もうひとつは「富国強兵」を背景にしたものだ。優生思想とむすびついて非常に「管理的」「非人道的な」システムが出来上がった。戦前は「兵士」、戦後は「工場労働者」として「人間の規格」がつくられたため、隔離/排斥の行動は続いた。

ま、「難しい」話はともかくだ。医術を与える「権威者」とその恵みをうける患者という「関係性の非対称性」、つまり医者という「強者」と患者という「弱者」という関係はおそらく日本では大きな問題だろう。

731部隊による「人体実験」も「優生学」による医療も一方的な「当事者なき」障害者福祉みなこの「非対称性」にある。明確な宗教的規範がない日本人は患者を「モルモット」として見てしまう傾向に比較的陥りやすいといえる。

仮に「人体実験」が行われているとするとこの島は「それにふさわしいのか」。まあ島自体の広さからいうとできないことはない。手術室などのある程度の設備もある。「とりあえず…現状をうのみにしないほうがいいな。また『散歩』しよう」。

「ランチの時間です。」ノックもなくいきなりあいたドアに「俺」はまた悲鳴をあげそうになった。例によってあの「太一」だった。「俺」の返事も聞かずそそくさのランチの準備をはじめた。「今日午後どうしますか。」

「ああ、ちょっとまた島を散歩してみたいと思っているんだ。」困ったことになった。「僕もついていくよ。」太一がいいだした。「あ、でも一人で動きたいから。」「大丈夫、離れて歩くから。」本当に困った。これでは調査ができない。

「俺」の直感が戦略を変えろ!と知らせた。潜入者が「調査」に失敗したのはこれではないか?太一はいわゆる健常者と違うだろう。あきらかになんらかの「障害」を抱えている。健常者によくつかえる「交渉」が太一には使えないのだ。

これ以上「俺」がごねたら太一はそれをそのまま浦神氏につたえるだろう。不自然な行動をとれば素直にそれを伝えるだろう。もしも浦神氏が闇の世界の人間ならば「俺」も先の潜入者のあとを追うことになる。「わかったよ。じゃあ一緒にいこう」