☥ 硝子の楽園 伊東聰 012

「人間の苦しみで一番理解されないのは『病の苦しみ』といわれます。多くの人は病気の苦しみを知りません。臓器移植の問題も多くの人にとっては他人事にすぎません。メディアなどで紹介されると問題は解決したと思われがちです。」

「日本の移植臓器の8割は心臓死による死体移植です。生体移植は2割にすぎません。死体移植の問題は臓器の新鮮さが失われることです。そのため手術に成功しても感染症など定着しないで再摘出、ということもよくおこります。」

「そのために『生きた臓器の移植』というのが一番いいのですが、脳死による臓器提供を待っていたのではとても需要に追い付きません。たとえば腎臓移植や肝臓移植、これは結構多いのですけど、生体移植の場合多くは近親者からの提供です。」

「腎臓移植の需要は透析患者の増加によって増えています。糖尿病の悪化によって腎不全になる人が増えているのです。血液透析療法は週2、3回一回4、5時間やります。とてもでないけど日常生活への影響ははかりしれません。」

「臓器移植をすれば透析治療がなくなり、普通の人と同じ生活がおくれます。近親者から腎臓をもらえたらいいけど天涯孤独で透析治療しているような人は八方塞です。不況のこのご時世、透析治療を許される勤務先などまずないですよね。」

「臓器移植をしてさくっと治せればいいけど、提供してくれる親族がいない。提供者がでるのを待つしかない。でも何十年。その間どうします?金があるならそれで臓器を買ってでも移植したいというのが本音ではないでしょうか。」

「一方で金がほしい人がいる。それを橋渡しするコーディネータがいれば需要と供給のバランスがとれるということですね。」「よくできた小説みたいな話ですが、問題があるんですよ。日本でダメなら海外で、とよくいうでしょう?」

「合法的に移植が海外でできたとしても大きな問題があるんですよ。貧しい人から買えば、とよくいうでしょう?実は意外と難しいんです。たとえばスラム街などで暮らしていたような貧困層だとすでに『臓器』の質が悪いんです。」

「健康状態が悪かったり、感染症があったりします。現地の人では平気でも日本人の免疫力では耐えられない。ですから『貧しい』とはいってもドナーとレシピエント、患者さんですね、社会的環境がほぼ同等であることが求められます。」

「結局臓器のでる条件は日本国内と変わらない。腎臓の場合人工透析をうけながらドナーの出現を待ち続けないといけない。時間を金で買うやり方で移植するわけだけど当然滞在国の患者さんの移植のチャンスがへる。そらたたかれますわな。」

「それとどの海外医療にもいえるのですが、移植医療などのおおがかりなものは術後のケアというものが大事です。移植の場合一度移植して終わり、というわけにいかないのです。移植した臓器は20年ぐらいしかもたないといわれています。」

「腎臓であれば透析治療に戻るだけですが、肝臓や心臓はアウトですね。そのときにケアしてもらえる病院が近くにないのは致命的です。それゆえに日本国内での移植医療の充実が求められるわけです。」「国内だと問題はないの?」

「世界的な問題ではありますが、やはりドナーの少なさでしょうね。いわゆる臓器の売買が認められていないので余計に、というのがあると思います。臓器の売買と簡単にいいますが、臓器移植法第十一条というやつですね。」

「移植用の臓器提供で報酬をもらったり約束したりしてはいけない、ってやつですね。」「最近では『宇和島臓器売買事件』が有名ですね。ドナーに報酬が払われなかったんでドナーがうったえてバレて結局ドナーも罰せられたんですね。」

「ここだけの話、暴力団がコーディネートしてドナーとレシピエントを養子縁組させる。で、移植手術をうけさせ、報酬をドナーに払う、なんてこともあったりするんだよね?」「?まさか。」シルヴァーの無邪気なつっこみに秦野は少し顔をひきつらせて笑った。

「私が聞いたその話は移植手術やる前にばれちゃったみたい。」「そうなんですか。」ほっとしたような表情を秦野はみせる。「やっぱり完全な秘密保持がむずかしいんだよね。」「そうですね。でも引き受けてくれる医師がいなかったのでは。」

「引き受けてくれる医師、ですか。」「ええ、なぜ海外の病院で移植手術が多いかわかりますか?」「あれ?考えたことないや。」「そうでしょう。腕のある医師の数や病院数は日本のほうが多いはずです。」

「日本の病院は厚生労働省が本部になるフランチャイズ形式だ。病院とは医師もふくめたセットとして提供される。医療法で営利目的の経営が禁じられているから医師ではない外部のオーナーが病院の経営にかかわることは『原則』できない。」

「一方で移植手術で有名なフィリピンを含め多くのアジア諸国では病院は『テナント形式』をとっている。病院は診療室、診療設備、看護師、入院設備などを医師にレンタルする。医師はレンタル料を払う。医師は自分の技術一本で病院を選ぶ。」



※イメージです。元ネタはピヤウェート病院 バンコクはフワイクワーン区、タイ。国際医療ビジネスで有名な病院のひとつで海外進出にも力をいれている。 http://www.piyavate.com/web/ 


「日本の医師が移植医療を行おうとすると、まず所属している病院に可能な力があるかどうかというのが重要になる。病院の経営陣の意思や必要なチームスタッフや設備が病院にあることが前提になる。なかったら技術があっても『できない。』」

「一方でフィリピンなどの病院は医師が病院やスタッフを選ぶ。医療の値段も医師が決める。病院経営も医師以外の人間がオーナーであることがある。ある病院のオーナーは日本の暴力団だった、ということもある。」

「日本の病院で新しいことをやろうとすると、交渉(ネゴシエーション)が必要だということか。個人の診療所ならともかく大病院クラスの設備が必要だとできないことも増えるね。」「だから日本の診療所で移植手術は不可能ということです。」

「いくら医師に腕があったとしても所属する大病院の意思にしばられる。独立したとしても診療所では設備やスタッフが足りない。第一入院設備はどうするかね。そういうわけで移植医療に関しては日本では現実的ではないのです。」

携帯電話のベルがなった。「ちょっと失礼します。」秦野はパーティションの後ろに隠れた。「またですか、勘弁してくださいよ。え?ええ、ええ。」事務所にきなくさい空気がただよう。「早急に対応いたします。高いですよ。ええ。」

「申し訳ございません。急用が入りまして、お話はここまでしかできないのですが、よろしいですか。」秦野がでてきた。「いえ、十分聞かせていただきましたので。ありがとうございます。こちら謝礼で。」「ありがとうございます。」

事務所をでるとすでに日は落ちていた。リロとシルヴァーは駐車場に向かう。「つまり…だ。入院設備と医療スタッフ、ドナーの確保。それがそろえば日本での闇医療は可能だ、でことだよね。」シルヴァーがいう。「?シルヴァー?」

「あの秦野さんさあ、なにかかかわっているね。『絶対』にないなんていってしまって。たしかに根拠はしっかりしているようだけどさ。『俺はすごい仕事してる』と思っているんだろうね。けっこう重要な話べらべらとしゃべってしまったよ。」

「今真島がもぐりこんでる首島さあ、秦野のいっていた条件十分満たしているんだよね。入院設備もあるし、医師もいるし、形成外科やるぐらいだから設備もあるし。あとはドナーだけね…。ドナーどうやって確保しているのかな?。」

「生きた臓器かあ?。生体移植だよね。生きたまま手術をやる病院まできてくれればいいんだよね。同等の社会生活…。金に困っている経営者なんかうってつけだね。闇金なんかに手をつけたような。この街にはごろごろいるんでしょ。」

「ねえ、リロ、手間かけさせて悪いけどさあ、秦野が浦神医師と接点があるかどうか、あるとしたらどういう接点か洗い出してほしいな。たぶん例のセレブのあつまりってやつだんだろうけど。可能な範囲でいいからさ。」