元作曲家・佐村河内守問題に思う その1

長くROMしてくださっている方々には周知のことであると思うが、私は難聴者、すなわち聴覚障害者である。

昔は障害者手帳を持っていながったが、2009年に取得して現在はもっている。
等級は6級である。感音性難聴である。

原因は誕生時の医療事故なのか、そのあとの新生児黄疸が原因なのか、いまとなってはわからない。

感音性難聴の場合、音が聞こえる/聞こえないではなくて「音がゆがむ」ことのほうが問題で
実は補聴器などの機器では補正は不可能である。

どんな感じ?というのは私が新しく説明資料をつくるより、
まず佐々木あやみ氏のブログにある以下がわかりやすいだろう。

聴覚障害者の聞こえの可視化
http://ameblo.jp/ayamisasaki/entry-10955199862.html


さて、私も聴覚障害をなんとかしたくてさまざまな機械をためしたが、
最終的に「あきらめた」。

補聴器を最大音量にしてもうまく聞こえないことがあるのだ。
その原因が音量ではなく、「音のゆがみ」が自分の想定外に重いのだ、と
気がついたときに「やめた!開発中止!」と思った。

何かに集中しているときはほとんど音が聞こえないということにも気がついた。

それを健常者なみに確保しようとすると脳の糖質を莫大に消化して
いつも頭がのぼせてオーバーヒート、飢餓状態におそわれる、
でもエネルギーバランスが悪いので美容にもよくない。

周りのフォードバックを増えて、
意識のアンテナをはっているときは普通の人としてコミュニケーションがとれるが、
ひとたび意識のフォーカスがなくなると聞こえなくなる、とのこと。

というわけで目標としては「耳の障害が『障害』にならない環境づくり」に観点をおいて仕事環境を整えている。


とはいえ、客先で仕事をする限りにおいてはどうしても「音声言語」優先に、
特に近年は設計書をしっかりつくり、品質管理を徹底するウォーターフォール開発ではなく、
スピード優先のうごくものつくれのアジャイル開発が増えていることもあり、
口頭のみのヒアリングですぐ動くものをつくるという聴覚障害者には「やさしくない」状況ができている。

そんな悩みをかかえ、そりゃいかんとたまたま元ITエンジニアの聴覚障害のセラピストが京都におられることを知り、
コンタクトをとったのが昨年の夏。

話がながくなった。

佐村河内さんについてはその方の話で知った。
聴覚障害者の希望とも聞いていた。

セラピストの彼との会話でもよくでるのだけど、今聴覚障害者に重要なことは「自尊心の回復」だという。
やはり健聴者のシステムに適応することを求められ、
さらに耳が聞こえないこと、会話がうまくできないことで
ディスカウントされてしまう状況をフィードバックした結果、
ネガティブな感情がたまってしまうという。
そのネガティブな感情を克服しようと「がんばった」結果、
悪い人間に利用され、借金地獄に陥り、
結果自分を守るために「僕は悪くない、社会が悪い」というかたくなな態度になり、
さらにスパイラルから抜け出すことが難しくなってしまう。

がんばるとは「我をはる」、つまり自己否定の最たるものである。

現在言語化しないセラピーがない。
そのことが聴覚障害者のストレスを増やしているともいえる。
「伝わらない」「わかってもらえない」という。
これでは本末転倒。
というわけで彼は「言語化」しないで体に働きかけるセラピーを開発中…。

さて、佐村河内さんであるが、「いつか聞いてみたい」と思っていた。
「思っていた」というのは優先順位の高いものが多くて
自分の楽しみになかなか時間がさけない事情がそうさせているが…。

そんな矢先に佐村河内さんの聴覚障害の詐欺疑惑が持ち上がってしまった、というわけだ。

仕事の関係&ライフワークでメディア研究もかじっているさとしとしては
「これはゆゆしきことになったぞ」というのは正直な感想。

最初に聞いたときは、「なぜ楽譜がかけないといけないの?」という感じだった。
そして「なぜ聞こえていたらいけないの?」という感じだった。
で、「なぜプロデューサーではだめなの?」であった。

とりあえず今の私の状態では限られた時間で情報収集するしかないので、
状況把握のもれはあると思うが、まず上記の観点でコメントしたいと筆を起こした次第。


■「なぜ楽譜がかけないといけないの?」
その背景:
最近聞こえないくせにメディア系の関係から音楽業界にかかわるようになりまして、
その感じでいうと「楽譜がかけない」音楽家なんでいっぱいいるんですよ。
その場合は音楽系の仕事の中で「譜面を書く」というのもあるわけです。
私も音楽家=楽譜かけると当たり前だったので、「え!」と思ったのだけど、
音で表現してかけない人はいっぱいいるらしい。
つまり、音楽の文盲なわけですよね。
冷静に考えりゃ、「じゃあ、文字がかけなければ詩人にはなれないのか?」という疑問があるのだけどw。


だが、問題点:
マチュアレベルであればそれでも音楽やれればいい。
しかし問題はマチュアからプロに切り替わる「運命の転換点」というものがある。
そのときに「楽譜がかけない」という問題で足元をすくわれる。
やはり「努力すれば報われる」というそんな単純な世界ではなく、
いわゆる「華」というのは持って生まれたもので努力では勝ち取れないわけだ。
そんなときに基礎力がないやつがバンバンブレイクしていく、
当然嫉妬の怨念のうずにまきこまれる。
そのときにきちんと相手を納得させられる実力があるというのは「強い」わけだ。
特に「楽譜」は音楽の世界の言語なので、かけないと「話が通じない」のと同じ。
なのでブレイクしだしたときにあとづけでも追いかけて力をつける必要はあったと思う。
特に日本人の素人は「楽譜読める」=文盲ではない、というイメージが強いので
なおさら納得しないだろう。
18年という年月があった。
「新垣さん、教育業界にいるならなんとかしろよ」というのが第一の感想。
事なかれ主義で一人の人生を狂わせた。
そういう意味では新垣さんの罪は「共犯者」ではすまないほど重いと思う。
しかし、後述するが「なんとかできなかった」事情があると思う。

■「なぜ聞こえていたらいけないの?」
その背景:
彼は聴覚障害2級を名乗っているわけだけど、じゃあ私の6級と2級の格差はどこにあるか。
実は「個人差が大きくて比較にならんのだ」。
実際に聴覚障害で戦ってきたものの現実だ。
先の私のメンターは2級であるが、実は音楽聞こえている。
セラピーやるときにBGMをかけているのだけど、私には聞こえない。
そういうことが現実にある。
また同じく2級の小学校の同級生でもBGMをかけていた。
でも私は聞こえなかった。
それが聴覚障害のなかでおきてる現実のひとつである。
理由は「障害」の構造がそれぞれ違うからである。


だが、問題:
全聾をうたっていたとしたら、大きな問題である。彼はあきらかに全聾ではない。でも彼のコメントでは全聾など名乗っていない。とすると、それもいったい誰が言い出したのだろう。
マスコミの一人歩きではないか?と疑惑がある。
また、彼自身が中途失調者ということもあり、聴覚障害のなんたるやを知らないというのはあきらかである。
小学校時代になぜ「特別支援教育をうけていないのか?」と調べたら、
聴覚障害は高校生からの模様。であれば受けているはずがない。
また、いくつかのコメンティターが「聴覚障害は直らない」といっているが、
彼のコメントからみる聴覚障害の構造を考えると、「耳鳴り系」なのである程度回復する可能性がある。
誰も彼の聴覚障害がなんなのか、彼がどんな問題をかかえているのかわかっていないのだなと。
一緒にくんだ新垣さんもふくめて。
そもそも彼は聴覚障害の専門家ではない。
中途失調をつかまえて「聞こえていると思う」はナンセンスな話で、
「聞こえているような」判断基準にされては
私も含めて「健聴者の要求に答えられるように」
金も自分の幸せも健康も時間もすべてを費やしてコミュニケーション能力を鍛えてきた
すべての聴覚障害者を冒涜するものでしかない。
人生泥棒である。
聴覚障害者が怨念にゆがむのもよくわかる。
そのぐらいの血のにじむ努力をかさねて
健聴者のコミュニケーションプロコトルをあわせてきたものを。
改造をかさねればかさねるほど人としての自尊心も比例して落ちていくので、
そこが私のテーマでもある「ゆゆしき事態」というわけだ。
楽家としての彼を見た限りでは「努力不足の甘ちゃん」という感じはある。
しかし彼のとりまく状況を考えたときに「一人でがんばってきた面は大きいだろうな」と思う。
聴覚障害を知らないし、聴覚障害の仲間もいない。
今の結果を考えると、聴覚障害を考慮して助けてくれる人もいない。
ましてやそれでメディアに勝負かけようというのだから
相当な戦いだったと思う。
しかし結果、恐れていたことがおき、空回りした。

長くなりそうなのでつづく。