元作曲家・佐村河内守問題に思う その2


■元作曲家・佐村河内守問題に思う その1はこちら
http://d.hatena.ne.jp/stshi3edmsr/20140216


■「なぜプロデューサーではだめなの?」
その背景:
「もしもこのプロデュース能力が本物なら、彼をつぶすのはもったいない。」
こう考えているのは私だけではなかった模様。

ちょっと聞いてみた。
やはり音楽はいい。
音楽で評価した人はそう思っているだろう。


さて一連のワイドショーで一番感動したのは「音楽の設計図」。
彼がうらやましいと思った瞬間だった!

「作曲ってそういうやり方もあったんだ!」
そして、そのやり方を通してきた、という行動力について。

漫画を描いていたときに、意識したのがやはりメディアミックスということ。

漫画か、アニメか、ゲームか。
アプローチがいろいろあると思うのだけど、
自分の作品にはイメージソングつけたいじゃないか!
また漫画描いているときのBGMはだいたいイメージソング的位置になっているじゃないですか。

それ自分だけかと思っていたら、あるとき自分の好きな同人作家さんが
同じようなことをやっていて、
135はそこで知ったバンドですね。。。

で、自分でつくるとなると「こわい」のですよ。
何がこわい、というと
「正しい作詞の仕方」とか「正しい作曲の仕方」とか
「盗作にならない方法」とか「それでも人が共感できる音がつくれるか」とか。
正しいものがわからないから、自信がないわけ。

しかも私は好き嫌いがかなり激しいので、だいたい興味の幅がせまくなる。
そうすると盗作みたいな展開を起こしやすいリスクがあるのですね。
漫画書くときにほかのメディアをみないようにしていたのはそれでした。
(それは実は共通の文法・共感ポイントを理解するうえではよくない。)

正しい作曲の作法では「音を一節一節引いて楽譜に落とす」イメージだったので
学生のとき音楽2だった私としては聴覚障害というのがあって、
だめだ、と思ってやっていないわけだ。

佐村河内さんにはそういう「壁」がないんだね。
できなかったら「別」の方法で設計する。
できるやつに頼む。
これは実はひとつの王道でもある。
多くの場合は自信がないから、人に頼めないけど、彼ははったりかますことになれているから
引き受けさせるだけの強さがあったんだよね。

これは実は才能のひとつ。
うらやましいかぎり、という。
ある種の努力家ではあると思うし、彼が言っていることの一部は共感できる。
正しい作曲の作法「音を一節一節引いて楽譜に落とす」を追求したのでは
彼の才能は発揮できない。
そういう意味で既存の音楽教育では彼の到達点にたどりつけなかったのだと思う。
通常はそこで「才能がない」と思ってしまうのだが、
彼は別のアプローチを考え出したわけだ。

仕事をとってきて形にする。で、結果をだす。
そういう意味ではプロデューサー&プロジェクトマネージャとしての腕は確かなものだと思う。


だが、問題:
自分はその逆をしてきて、常々いうことがあるんだけど、
「教科書どおりにしろ」
守・破・離ということがあるともいう。
はったりをかますことも重要。だけど、そのはったりを本物にする努力は怠るな。
戦略的アプローチ、フィードバック、PDCA、大事。
自分のキャラクターデザイン大事。
そしてその設計図をほかの人に理解してもらって、戦略的に形にしろ。
誰かに知ってもらって、万が一のときに見方になってもらうことが大事。

なぜか。


答え:自分ひとりで仕事して生きているわけじゃねーから。


まず彼の設計図をよんで理解できる人材が少ないと思う。
私は一連の事件で、
佐村河内さんは聴覚障害もあると思うが、
なぜ聴覚障害である必要があるかというとコミュ障の問題が大きいと思う。

コミュニケーション障害があるがゆえに聴覚障害としてのケアをしないと
なにもできない状態になるんじゃないかと思うのだ。

その結果があの設計図であるが、あれは音声言語依存のいわゆる健聴者だと「意図をよみとれない」。
新垣さんが引き受けるまでに相当断られていると思うんだ。
その意味では佐村河内さんと新垣さんのコラボができたから形になったと思う。

もしも新垣さんだけであれば、作品はできないだろう。
IT業界で設計者とプログラマーは分業制になっている。
設計者は「役立たずなのか」という話だ。
プログラマーだけがえらいのか?プログラマーだけでシステムつくれるのか?
冗談じゃない。
いくらプログラム得意でもそれ以外はあほでプログラムしかできないプログラマーなら
システムはどうがんばっても「駄作」になる。

ただ、障害を克服するためのスキルが逆に障害を深刻化させてしまう事例はたくさんある。
特に日本社会が「形を重んじる」社会であるがゆえにその問題はかなり深刻なものとなる。


「形を整えろ」といわれたときにいつでも形を戻せるスキルがないと足元をすくわれてしまう。
その意味で当然、「楽譜がかけること」は重要なことであった。

その意味でいうと佐村河内さんの戦略はどうだったのだろう。
佐村河内さんというキャラクターはどうあるべきだったのだろう。
そして佐村河内さんというキャラクターに音楽家という肩書きをつけたことを問題提起して
本人と戦略の練り直しをしなかった(PDCA)のはなぜだろうか。

彼の生い立ちをたどるワイドショーもあったが、
それを見る限りあきらかに「なんらかの発達障害をもっている。
ということはおそらく新垣さんも同じことを考えた=音楽レベルもあげること、を考えたが、
学習能力的に無理があったのではないか?という気がするのだ。
学習障害かもしれない。ディスレクシアだったりすると譜面がかけないどころか文字もかけない。
発達障害の多くは「自分のやりたいこと」「好きなことのみに集中」し、
チームワークで動く、チームの仲間の気配りができない。
だから回りで意見をいう人が少なくなってくる。
仕事である以上結果を出すのが大事。
だから新垣さんとしては「ゴーストライターになっても結果を出すのが大事」と考えたのだろう。
(そこまで深くかかわる必要もない、みたいなのもあると思う)

その発達障害がもとで自分を守るための論理武装が強くなってしまって、
いわゆる「虚言」になってしまっているのだと思われる。
たいていの場合本人に虚言という自覚はない。
彼にかかわった人のインタヴューを聞いていても、
「彼は自分に自信がないものをはったりをかましながら生きてきたのだ」という
ライフヒストリーがすごく伝わってくる。

これを彼一人の努力でなんとかするというのは難しい。
「音楽家騒動」「でみても言語的なフレーミングがうまくいっていない。(虚言壁の一部はその設定ミスもありそう)
社会的位置についての立ち居地もわかっていない。
人の心を動かすすべもよく知らない。
自分がなにの障害をもっているのか、それはどういうものかがそもそもわかっていない。

ただ音楽家ひとつとってもこれは医者と違って、法的に名乗ってはいけない称号ではないので
そういうところが彼のような人には難しいところだ。

例で自分出すが、私だって、IT傭兵(伊東聰造語)なのってはいる。
理由はシステムエンジニアとは名乗りにくい、というのが正直な気持ち。
じゃあプログラマーなのか設計者なのか?実は正直自己批判するとどちらも中途半端。
クラスとしてはいわゆる中級になるが、それが上級とかとわかれる理由は「好きか嫌いか」。

システムエンジニアだとすると何が強いか。
「火消し」それだけ。

ただ、瑣末な(とはいいすぎだが)IT技術の末節より、
歴史的文脈での基礎的な設計思想・哲学はほかの中級エンジニアに負けないと感じている。
IT上の問題解決には手段を選ばない。
でもどこ見るかというと人のスペックと職場の環境をまずチェックする。
ほかのエンジニアと違うところ。

得意なのはプログラム解析してシステム全体の要約的な流れを記憶して問題点を洗うこと。
過去になにがおきて今があるのかを察する力もある模様(と、最近感じる)
これができるということはシステムのリファクタリング、改修がすばやくできるということ。
でも得意だといわなかった理由は「プログラマーなら当たり前にできるとおもっていたから」。

一方で既存のプログラムを「解析できない」エンジニアがいると聞いて、
きもをつぶしたというか、非常識と感じたというか。
ところが、会社起こしたりしてみるうちに、実は解析能力のあるエンジニアは少数で人材が少ないとわかる。
人材不足。
「俺の分身がほしい〜」みたいなことをいつも感じる。

そういう展開になる大きな理由はやはりコミュニケーション不足が原因。
これがいわゆるコミュ障の特徴。
自分が知っていて相手が知らないとはげしく怒り出すし、
また自分が知らないのに相手が知っていてそれを共有にしていない場合も怒り出す。
またイレギュラーなことされても怒り出す。(コミュ障ゆえ自分がついていけないため)
結果「気難しい」という評価になる。
こういう場合は外側の人間が探し出してフィードバックしてあげないと本人わからない。

問題はこれ、障害者の素人じゃできない。
たいていは疲弊してさっていく。
で、悪い人間がくっついて…というネガティブスパイラル。
「俺と同じことできるやついないのか」みたいなことをいつも感じる。(最近仲間が増えてきた)

佐村河内さんというキャラのデザインができていない状態でメディアの嵐に巻き込まれている。
そもそも「障害を売り物にしたくなかった彼を誰が聴覚障害を公にしたのだろう」。
もし彼自身だとしたら、そのリスク戦略をどうとっていたのだろう。
メディア対策はとっていたのだろうか。
そのあたりが「野放し」であまり考えていない気がする。

またこれも多くの発達障害者が社会適応でつまづくところであるが、
彼らはPDCAサイクルがうまく動かせない気がする。
禁じ手なのにうまくいった場合、このままのうのうといける、という感覚を持ちがちな気がする。
間違っている状況でも「安定したがる」ので、周囲の人が疲弊する。
新垣さんがこのコラボを解消したがったのも、
社会的道義を気にかける新垣さんの不安を佐村河内さんが解消しなかったからだろう。

この手の問題で私がとっている戦略。
「コミュ障用の『通訳』を置く」これは結構でかい。
チームでサポートする。これもでかい。
一人では疲弊する。

おきた事件は自業自得ではある。が、彼にはそういうことは理解できない。
それゆえにショックは大きいだろう。
何が起きているのか、何がいけないのか、理解できない状況だろう。

実はこの手のトラブルが障害者のメディア戦略には多すぎる。

その最たる悲劇は超能力者で有名な御船千鶴子だろう。
彼女には超能力者である自分を演じているつもりはなかった。
ただ正直に素直に聴覚障害にかわる能力で評価された自分が好きだった。
当然地元の方にそれで「癒し」を与えたこともあっただろう。
マスコミが「偽者」とたたいたときに彼女は生きるすべを失い、命をたった。

ヘレンケラーも「霜の王様」事件で危なかった。

彼がその二の舞にならないことを願いたい。