危機感の格差
久しぶりに某リーダー研修に参加した。ここで次のようなテーマで議論が行われていた。
最近の不況で企業はあらゆる手でしのぎを削っている。テーマとしてだされたその会社もしかりでリーダーは会社の生き残りをかけた戦略の一環として「新しいビジネスモデルを考える部会」をつくり、参加を呼びかけた。
1000名ぐらいの会社らしい。うち、40人ぐらい参加すると思っていた。しかし、実際に参加したのはたった4名であった。
その現実がショックだった、とその人はいった。
いったい何がいけなかったのだろう?
最初私は旗印の問題だと考えた。つまり、織田信長が天下統一に持ち出した「天下布武」である。「天下布武」の旗印のもとに信長の元に集まった人たちは戦った。
だが。
「伊東さん、信長の時代は『みんながめしが食えない!』【現実】に対して『なんとかしないと!』という気持ちで団結していたと思うのですよ。今のこのテーマって、『同じ現実』を見ているだろうか。たぶんほかの人たちはリーダーさんが感じている『危機感』を感じていないと思うのですよ。旗印の前に『みんなにとって【現実】がどうなっているか』たぶん問題はそこじゃないかな、」
盲点だった。「危機感の格差」という視点、それはこの研修で得たものであった。
たしかに政治的な行動をとっていた2003年ごろ、あのころは統一された危機意識が原動力にあったと思う。しかし、「医療」をキーワードに切り替えたときの2005年以後は「理解されない」と感じることのほうが増えていた。
その原因は「医療システム崩壊」に対する「危機意識の差異が大きすぎた」ことにあったのかもしれない。
私を含むいわゆる改造人間−何らかの医療的工学的措置を身体に施しているもの−の場合、「身体改造」が終了したら「普通の人間として生きられる」という幻想を抱かれがちである。現実に多くの倫理的問題を起こしやすい医療は「QOLのUP」をテーマに整備されてきた。
たが当事者にとっての現実は違う。最後まで「医療」とは縁が切れない。決して「普通の人間」と同じには生きられない。つまり障害とは「一生涯」向き合うことになる。なぜか?「メンテナンス」が必要になるからだ。改造した身体には耐用年数というものがあるのだ。その事実が恐ろしいことにあまり知られていない。
「メンテナンス」が必要なときにその医療技術が提供されなかったらどうなるか。場合によっては命にかかわる。だからこそ「医療システム崩壊」に関しては改造人間たちは神経質にならざるを得ない。
「医療システム崩壊」それに対して「危機感の格差」がある。「普通の人間として生きられる」という幻想をもつ人たちによって、「医療技術の独占」「特権意識」と解釈されやすいのだ。「技術があるのになぜ提供しない」というわけだ。
「デリケートな医療システムだからこそ、本当に必要な人にしか提供できない」ということが「技術の出し惜しみ」と移ってしまう。
また逆もある。人生の危機感を感じて、医療技術を求めている場合。
その人生の危機感をくみとってもらえないということが起こる。
またその人の意図を読み間違えることもある。
これも「危機感の格差」が原因だ。
そして先日述べたように危機感のプレッシャーが強ければ強いほどストレス強度が強くなる。危機感の軽い人はそれほどあわてない。当たり前のことなんだが、「ともに問題を解決していく」というときにはこれは大きなトラブルの原因となる。
■余談…仮面ライダーと人権
久しぶりにyouTubeで仮面ライダーを見てはwikiで検索し、なんてことをやっていた。
現実逃避&ひまつぶしです。
こういうくだらないことでも元気になるんです。弟がテレビを通訳してくれるようになる8歳ごろまで言葉がわからないために仮面ライダーの世界観がわからなかった。言葉がわかるようになって改めてみてみると非常に面白い。(全部通しでみているわけではないが。)まてよ?字幕がOPにつきだしたからわかるようになったというのもあるのかな?
ところで「平成の仮面ライダー」と「昭和の仮面ライダー」には大きな相違があるといわれる。
「改造人間」というコンセプトを使わなくなったことだ。
そのために「昭和の仮面ライダー」にあった世界観、哲学が「平成の仮面ライダー」には反映されず不満を感じる人もいるらしい。
なぜ改造人間というコンセプトが使われなくなったのだ?
人権問題だからだそうだ…。「仮面ライダーと人権」?どういうこと?…あ…。
俺も…改造人間…だ。ははあ。たしかに「昭和の仮面ライダー」には改造人間=不幸な人という世界観が強い。「改造された」という不幸を背負って、自分の夢を捨てて人類のために戦うというストーリーだ。
それは改造人間がまだまだ「フィクション」だったから成り立ったのだろう。そしてそこに流れる潜在的心情はそのまま日本の厳しい医療倫理とサイボーグ技術への強い禁忌観につながっていると思われる。たとえば日本では電子機器の開発は世界最高であるにかかわらず有名なサイボーグ技術である補聴器の開発はなかなかうまくいかない。それは潜在的な市場があるにもかかわらず補聴器ユーザーが圧倒的に少ないからだ。その上、開発上のフィードバックもほとんどない。「機械になったようでいや」という意見も聞かれることがある。
それだけ日本人の「生まれたままの身体で生きることが幸せ」という価値観が強いのだ。
だが、「平成の仮面ライダー」の時代。身近に改造人間がいる時代になっているのだ。
補聴器や人工内耳のユーザーはもちろん人工内臓を使っている人たちもいる。しかもノーマライゼイションの運動により、彼らがカムアウト/埋没を問わず、日常生活をともにしているのだ。おそらくその境界線は90年代前半だ…。
改造人間と共存している今となっては改造人間=不幸な人と「特別視」することはよくない。そういうことなのだろうな。