日本経済に思う


「伊東くんどう思うとるかしらんが、日本大変やで。派遣村ゆーてできたの知っとるか?!」
ではじまった、友人との連絡。


国際電話にて話し合い…おいおい。


2008年におきた秋葉原連続殺傷事件。そのときまで実は製造業の派遣の実態というものを知らなかった。
最悪まとまったお金を短期にかせぐにはいい仕事としか思っていなかった。
実際自分にかかる高額医療費をこうした派遣の期間工かせいだ知人たちがいる。
しかしそれでしか生きられぬ人々もいる。


もともと自動車・電化製品をはじめとする製造業の期間工は「正業としてその職に従事すること」ことが前提の職業ではない。


この仕事も私がいうところの傭兵稼業だ。正業を別にもちながら、大きな現金を稼ぎたい人とニーズと必要なときに必要な人材がほしいという企業側のニーズが一致したための雇用体制であった。


大多数は農閑期の時間を有効利用して少しでも現金を手に入れたい男たちの職業であった。
そして短期間で冒険するための資金を稼ごうとする若者。
失敗した事業を建て直しのために軍資金を稼ごうとする元社長。
そして高額医療費などまとまった大金がほしい障害者。
流れの旅人もその中に含むだろう。


少なくともある一定の目的のために一度に集い、文字通り「自分を身を売って」金をかせぐ。
そして目的を果たせば足を洗う。


それがいつしか「期間工=正業」になってしまった。
それが大不況に巻き込まれた人の不幸だった。


仕事を失えばそして実りの季節がなければ、家族のもとへ帰ればいい。
そしてできることをやればいい。できることがなければ春が来るまで越冬すればいい。
女房子供になきついたっていいじゃないか。


家族がなければ友達がいるではないか。
一人で暮らすと生きることにいろいろなコストがかかるけれどよりそえば冬をこせるだけの場所はあるだろう。


家族も友も、人の縁すべてがなければ…?


日本社会を考える上で二つの枠組みがある。


しくみを作るほう、「政治」の世界。官僚社会。
そしてしくみを動かすエネルギーを生み出すほう、「財政」の世界。民間企業。
民間企業が大量の労働力を得るために、従来「一国一城」の経営者として動いていた家族をばらばらにした。
家族をばらばらにすることで労働力を大企業の労働力へまわすことはできたのである。
そしてそれをやりやすくするためにしくみを動かすことを考える。


「女性の労働力」、そして「障害者の労働力」。


この二者の労働力の解放の裏にあるものは何か。


「安い労働力」である。


なにも五体満足の男性と同じ賃金をこの二者に与えるつもりはない。
ただ、この二者が五体満足の男性と同じ働きをし、かつハンデが「女性であること」「障害者であること」の唯一2つであれば、それを労働力として解禁し、保護することで五体満足の男性を雇うよりも3分の2から下手をすると5分の1まで人件費を下げることができる。


このことは逆にいうと五体満足の男性の職がなくなるということだ。


同等の力であれば「女性、障害者」を雇うからだ。


五体満足の男性にとっての職は長期に続けてほしい限定された専門職か「女性、障害者」ではできない肉体労働の2つしかなくなる。

その人にしかできない専門職など大企業にさえそうそうあるものではない。
そのような職で力を発揮できるのは一部の優秀な五体満足の男性のみであって、大多数の五体満足の男性は自分の持てる限りのリソースを使って、企業に労働力を売ってきたのである。つまり一部の恵まれた人を正社員とし、あとはいつでも契約終了できる状況にしていた。人件費を抑えたいものについては「女性・障害者」で穴を埋めてきた。


このような労働システムは「女性・障害者」にとってもあまり気持ちのいいものではない。


やはり同等の力があるというのであれば、「女性・障害者」というハンデで「私」をディスカウントされたくないだろう。


だが、ここ数年「財政」の世界ではこのようなディスカウントを続けてきた。


結果「職につけない五体満足の男性」が増えてきた。
さらにそのような男性は家族からも縁を切られてしまう。
もともともてる才能MAXまでエネルギーを搾り取られているため、人間関係をつくることもできなかった。
帰る場所がない。
さらにまずいことがある。派遣が中心の労働環境を作ったことで「帰る場所をもたない」労働者が増えていたのだ。
つまり多くは「根無し草」の状況で不安定な派遣を「正業」として続けてきたのだ。


そのような状況で突然の契約終了、派遣きり。
そんなことをしたらどうなる?
仕事がなくなる、も悲惨だ。
だが、もっと大変なのは住むべき「家がなくなる」ことだ。
こういう形の期間工というのは大半が寮生活だ。
仕事の契約が終われば寮もでないといけない。


これは「住所」がなくなるということ。
つまりはホームレス。
住所というのは日本社会においては非常に重要な信頼性を確保するファクターだ。


傭兵稼業な仕事仲間でひとつだけ共通認識がある。
「田舎のボロ家購入でもいいから定住所は確保しておけ」。
帰るべきホームベースを絶対に確保しろということだ。
でないと、社会的に再起不能になってしまうのだ。
そしてそのことに気づいていない人が多かった。


さらに。
無職の状態で家を貸してくれる不動産屋は存在しない。
今回はないが過去に「住む家がなくなった」で個人的にヘルプした人も何人かいる。
職があればなんとかなるのだが、無職の場合は「まず職をさがすこと」を優先する。
その逆は不可能だ。
可能であるとすれば余裕で数年無職で暮らせるだけの貯蓄がある人。
だが期間工のほとんどはこれに該当しない。


旧HPからずっといってきたことであるが、人生計画を立てる際、「半年に1テーマにしろ」といっている。
新しく行動を起こしその結果を人が心身ともに受容するのに最低半年はかかるからだ。
それ以上のテーマを盛り込むと心身ともに相当な負荷がかかる。
多くを失うものがでてくるだろう。


今回の不況による騒動はまさにその負荷のかかる状況に多くを追い込んでいる。
いきなり契約終了です、といわれてすぐに次の体制にはいれるような基礎体力のあったものはどれくらいいたのだろう。
このような騒動の負のスパイラルを食らうのは何も期間工だけではない。


仕事の契約終了で寮をでるようにいわれた。
そのような寮はたいてい会社単位で大量の部屋を借りているはずである。
と、いうことはその部屋を貸している大家さんの収支にも打撃がいくはずである。
たいてい地方都市のメイン企業がそこしかないような状況である。
大量に空いた部屋は容易には埋まらない。


さらに。きられた派遣社員もともかく、派遣する側の社員。
仕事が取れない、ということになれば彼らも失業のリスクはある。


さらに。友人の電化製品の営業が悲鳴を上げている。
製造した商品が売れない。


さらに。車などのぜいたく品。売れない。
何が起こるかわからないので大衆はみな財布の紐を締めている。


さらに。マンションや家。
これも売れない。


電化製品や自動車は日本の産業の主幹を占めるものである。
電化製品や自動車で利益をあげてこそ、日本の産業は回っていたのだ。


日本人マインドのやっかいなところで何かがまわらなくなったときに別のまわし方を考えるのではなくて、自分の首を締め上げるようにすべてを締め上げてしまうくせがある。「ださないこと」をまず考えてしまうのだ。この日本人マインドの影響をうけるのが電化製品、自動車、そして家。


そして外食産業、飲食産業。ホテルなどの旅行業界。必要とする人が減るから影響をまぬがれることはない。


そして教育業界、介護業界、障害者支援業界。
もともとビジネスマインドで動いているところが少ないため、基礎的な経済力がなくなってくる。
施設利用料が払えず破綻してくる。


住居。一番に破綻する。
衣料。クリーニングなどのサービス業。これも減ってくる。
食。一番影響をうけないといわれるが、人口の大移動があるのでダメージを受ける店舗が出てくる。


そして国家財政。とれるところがなくなるので国家財政、地方財政悪化。
たいていのパターンで閉めやすい福祉系の財政からしめあげる。
特に一都市一大企業で運営が成り立っていた自治体が大変だろう。


もっとやっかいなことがある。


景気が回復し、再び人が必要になったとき。


「技術力のリセット」が起こっている。
一度生産力の歯車をとめてしまったところから、再び同じ生産性を確保するにはかなりの時間と能力を要するのだ。
もともと景気の波に乗りながら期間工をやっていた人間であれば、「○○さん、またお願い」といえばきてくれると思う。
しかしほとんどの場合、「ゼロからやり直し」だ。
この教育というのが教官が「高卒」で大学出のようにロジカルに話す人がほとんどいないため、あまり頭ばかり回す人に知られていない「現実」だが、彼ら教官いわく、「結構難しい」のだ。


一人ひとりの学習能力、理解力も違うし、何よりも大変なのが、就労のモチベーションの管理だ。
現場一箇所をまかせるレベルに育てるにはものすごく時間がかかり、それまでは継続して現場を仕切ってきていた正社員でまわさないといけない。現実問題回りきるものではない。


一見「派遣きり」することで一企業の生き残りとして「守りきった」ようには見えるが、実は過去の数年の積み重ねをすべてリセット、今後の事業再開のエネルギー相当数をすべて捨てた、それと同じダメージがあるのだ。


一番失ってしまったのは労働者個人個人の「信頼」だ。
縁があった労働者だけでなく、派遣きりを見ていた他の労働者も同様だ。


「人間は機械ではない。」人間はプログラムされた部品のようには動かないのだ。


次に企業が何かを動かすときというのは人的資源を喪失したマイナスからの出発になるだろう。


なぜ冬をみんなで越すことを考えられなかったのだろう。
せめて寮で待機要員としてすごすことさえできたら、それでもよかった人もいるのではないか?
ワークシェアリングでもよかったのでは?
それだと生活が持たない事情のある人だけが転職活動すればいい。
わりきっているやつだけ他に去ればいいだろう。
ホームベースに帰るもいいだろう。
厳しい冬は人生を考え直すには適した季節だ。


そうすれば春がきたときに再び産業は息を吹き返すだろう。
個人個人ではそのように考えた人もいるだろう。
しかし、がちがちに作られた日本のしくみがそれをさまたげたとしか思えない。


どう考えても視野狭窄に陥ったとしか考えられん。
数字が落ちたことにパニくって、責任をとらされることを恐れて、目先の対応だけをした、というか。
パニックがパニックをよんでさらに「本当」にやばいことになっていった感じ。


今後はどうなるのだろう。
大衆消費社会、万民平等化社会は二度と戻ってこないだろう。
偽りの平等・安心社会、計画通り社会。
痛めつけられた手前勝手な身には「ざまーみろ」と思うこともある。
本当は平等ではないのに平等と思い込まされて、相当数の負担を強いられた身には「復讐心かなったり」だ。
しかし、そういう思いでいられるのは私は「強い」と思い込んでいられるからだ。
大多数の私と同じ境遇の人はそうではない。
こういう時代に痛めつけられるのは「強者だった人」ではなくて、「本当の意味での弱者」なのだ。
つまり変わることのない「当たり前」のことを「こつこつ」と長く継続することしかできなかった人たち。


だいたいこういうときでも「発想の転換」で生き残っていくやつらがいる。
こういう人たちには問題はないだろう。
時勢を読むのがうまい人がいる。
こういう人たちには問題はないだろう。


しかし「本当の意味での弱者」はそういうことができない。
ただ日々を生きるための行動しかできない。
私はそういう人々の幾人かにあってそのことを感じた。


大事なのはそういうひとたちの生きるしくみは絶対に残すことだ。
そうすれば生きるために刑務所にいく人は減る。


そして大多数の大丈夫なあなた。
こういうときはどうすればいいか。
結局同じことをいっているのだが、個人個人の「原点回帰」がキーワードになってくる気がする。


まずホームベースにもどれ。
そして人の縁を見直せ。
そして自分が何をOUTできるかを考える。


帰る場所が本当にないのだろうか。
人の縁が本当にないのだろうか。
そして本当に自分は「何もできない」のだろうか。


最後に本当に自分が大事に思っていることに集中する。


以上。