「できない」ことはわがままか?その意図

学校がはじまるのは30日。
エジプト入りして一ヶ月の時間をとっていたのは、本来の研究のための時間がほしかったからだ。
しかし思わぬほどの環境に適応するのに時間がかかった。

風邪が治った。ところがへこむことがあって2日間沈んでいた。

聴覚障害者がテレホンアポインターできないのは甘えだ。
視覚障害者がタクシードライバーできないのも甘えだ。

そんなことをいわれたらどう思う?
私自身がいわれたわけではないが、私の友人に対してそのようなものいいがついたのだ。

「そんな人間は社会でいらない。」

いいたいことはわかる。その人ができるかどうかは本人ではなくて
相手が決めることで本人が自分で枠をつくってはいけない。
そんなことをしたらできることもできなくなってしまう。

でもあきらかにできないことで相手が理解できないこともある。

そのときは「できること・できないこと」を明確に提示する必要があるが、「それがわがままで社会人としての資格がない」といわれた。そういうことだ。

たしかに私はその人の教育的影響をたくさんうけている。だから「障害をもつということそのものがわがままで自分勝手なことだ」とこのHPでも常にいっていた。でもそれは弱い自分自身への自戒としてもつべき思想であって、本当に障害と闘いながら生きている人間に向けていう言葉ではない。

しかも大体上から下に見下してものをいうときの言い方であるし、さらにそういう人は「じゃあどうすればいいですか」の質問に対して100% 返ってくるのは以下の答えだ。

「自分で考えろ」
「どうしようもないな」

しかない。 これは言動に対する責任放棄だ。いたずらに苦しみを与える言葉で人間として卑怯だ。信用できる人間の言葉ではない。
そういう人間に対して「私の価値をあなたが決めてください」なんでゆだねることができるわけがないではないか。
「どうせお前が思うように私を支配したいだけだろう?」

昔は雇用者の理想どおりに動いてくれる労働者を必要とした。その代わりそのように育てる時間はあった。

今は企業のほとんどが「育てる余裕がない」。「障害を多めにみる寛容もない」。
そういう状態においては「できること・できないこと」を明示的に提示でき、話し合いをすることが社会人としてのありようではないか?違うのか?

「そんなことをしたら仕事をくれなくなる。非常識だ。」という意見も聞く。
「できなくても『できます』と答えることのほうが正しい。」対応なのだそうだ。

私の考えではこれはこれは非常に危険だ。

「0(ゼロ)から教えてもらえるチャンスがある状態で『できない』という」のはNGだ。
この場合はある程度相手が見積もった上での答えになるからだ。
けれども物理的な問題に関してはそうはいかない。

「英語ができるか?」とう質問がある。英語の電話対応ができないのに「できます。」と答えたらどのようなことになるか。
英語は早い人でも音声になれるのに3ヶ月はかかる。
3ヶ月かけてもできない人もいる。それでも「できる」というのか。
それは即戦力を求める企業にとってかなりの損害をもたらすだろう。
だったら「できない」といったほうがいい。

おかしなことを本当にいっているのか?

スキル的な問題であればまだいい。

人間が一番理解できない最たる問題が「病気や身体障害の苦しみ」だ。
特にあからさまに手足がないよりも五体満足にみえる人は理解されない。
努力でカバーできればいいが、その領域を超えているものがある。
本来は「工夫で乗り越えるべき領域」。そこをNGという人がいる。
工夫があれば能力を発揮できる人が工夫を拒否されるから発揮できない。

で、「自分で考えろ」。

おいおいおい、考えたからいったじゃん。

実は目的は「問題解決」ではない。
相手が考えてきたことを否定して自分の考えを押し付けたいのだ。
意図は「支配したい」だ。

これもコミュニケーション能力を武器(wepon)して使った場合の効果的な使い方だ。

これを数回繰り返されるとその人の人格は非常に危険なレベルまで破壊される。
マインドコントロールだ。

実はここまでこわい表現をしなくても大概の場合やっている相手はそこまで考えず無意識にやっているから怖い。

服従するか、排除されるか。こうやって人間社会は細部に分断されていく。