シャイターン(悪魔)がささやく「そんな研究に意味はあるのか」その1
HPのメンテナンスができないまま日本を旅立った。
できなかった理由はある。
テーマの方向性を見失っていた。
「人間が人間として尊重される社会。それを具体的に実現するにはどのようなプロジェクトをつくればいいのか?」
「末は博士か大臣か」という昔からの言葉がある。
今は世間ではいわゆる「インテリ」とよばれる人に求めるものが違うかもしれない。
けれども私自身は障害の劣等感をカバーするのにもっとも重要なプライドの柱であった「インテリであること」というアイデンティティゆえに将来設計もまた「博士か大臣か」と思っていた。そしてそれゆえに「コミュニケーション能力」というものにこだわりづつけてきた。
人を動かすことのできる言葉。人を生かすことも殺すこともできる言葉。
でも…。
30代という中年にさしかかる年代になってもなお私の言葉はそのレベルには達しない。
「発達が遅すぎる」。正直あせりがある。
なぜ遅れたか?ノウハウにたどりつくのに多くの時間を喪失したからだ。
数十年レベルで…。
その苦い体験があるからこそ、ノウハウ、スキルのOUTPUTは「義務」だと思っている。
OUTPUTは数十年を数年に変える恐ろしい力をもっている。
難しいことをやさしいことに変える力をもっている。
しかし多くはそのことに気がついていない。
私自身の無力さを後押しするような話がある。
1月23日付けの「できない」ことはわがままか?その意図」に書かれていることもそのひとつだ。
http://d.hatena.ne.jp/stshi3edmsr/20090123/1232741370
言葉は通じない。利害を調整することもできない。聞く耳持たずというやつだ。
その逆もある。
「理解してくれ」と叫び続けるいわゆる「モンスターなんとか」というやつだ。
人間の能力をこえた過度な欲求を求め続け、最終的に社会の秩序を破壊してしまう。
数十年かけてつくってきた人間のためのシステムがあっという間に破壊されてしまう。
説得に乗り込むだろう。
言葉は通じない。利害を調整することもできない。聞く耳持たずというやつだ。
じゃあ俺がやっていることは何の意味があるのだ?
やり方を間違っているのではないか?
やり方を間違っているとすればどこがどのように。
まったく無駄になったものはない。
私の縁があった方々の9割は自分の足で歩き、自分の糧を自分でとり、自分の障害を克服、さらに自分の夢へ羽ばたいている。
しかし膠着している人もいる。
地獄から抜けられた人と抜けられなかった人の大きな差異。
それはまたしても「コミュニケーション能力」だ。
「コミュニケーション能力」の障害ゆえに人間関係をうまくつくれない。
またここか…。「コミュニケーション能力」か…。
その中でいったい何ができるのか?
いったい何を研究して世につくりだしたいのか?
そんな弱者のことなど「忘れた」ほうが楽だよ…。
シャイターン(悪魔)がいつも耳元でささやく。
「人間社会」という共同体を考えた場合にはそうはいかないと思っている。
なぜならば排斥したところで彼らは人間社会のどこかにいる。
もしも本気で排除したければ
「ドラキュラ公みたく障害者や甘えた人を一箇所にあつめて大量虐殺したほうが社会のためでない?」
なのになぜみんな口で排除するだけで、行動を起こさないのだ?
実際そういうしくみをとっていた/とっているであろう国家もある。アメリカもかつては労働者の能力を効率的にだすために、知的障害者や発達障害者を親から引き離す政策が行われた。そして親には「その子は死んだ」と思わせるようにした。子への思慕で数十年たった現在「子の姿」を求めて施設をさがす親がいるという。共産主義国家のほとんどが障害者に可能性を見出していない。
そのシニカルかつ危険な妄想の意図はこうだ。
要は口でああだこうだ、いうぐらいならそういう行動起こせ、できなければともに生きることをもっと真剣に考えろ。
「人間社会」という共同体の問題に対してあまりにも他人事すぎる。
そういうところが日本人非常に貧しい。
ソ連型インフルエンザでシュミレーションしてみ。他人事で病院にいけないホームレスとか放置していたら欧州のペストのさわぎが起こるぞ、まじで。病院にいけない疫病患者が通勤路、通学路にあふれるんだよ(汗)。みんなそこまで考えていないんだよな。みんなやりもしない理想が高すぎ。
で、「ばかはほっとけ」か。ばかのために刺し殺されてもしらんぞ。
「人間社会」という共同体の問題は放置すると自分たちに帰ってくるのだ。
なのに自分たちがまいた種に気づかずに人のせいにするのだ。
その視野狭窄、無責任さ、身勝手さ、おろかさ。
ちなみに「障害者を隔離する」、そういう国家のしくみは健常者とされる人間にとってもやさしくない。人間の弱さを認めないしくみだからだ。障害を負うことがすなわち「人間社会での死を意味する」しくみがどうして人間にやさしいといえようか。
日本人が貧しいからこその理由もきちんとある。
「え?経済的には豊かなはずだが?」甘い。
貧しい=余裕がないということだ。
自分だけが生き延びることに必死なのが日本人であり、日本社会のしくみなのだ。
それは今の日本社会のかかえる「厳しい現実」だ。
今の日本では「きわめて優秀かつ生活環境に恵まれた人」しか生き延びることができないようにできている。
そこになんとかかろうじて生き延びている人がいる。
だから、「助けてくれ」と手を伸ばす人を助ける余力がないのだ。
さらに「助けようという意思をもち、行動するものもいる」が、
彼らの行動の結果が「焼け石をスポイドで一滴一滴水をたらしてさまそうとしている」のが現実で、
つまり「圧倒的に問題に対してリソースが足りない」のだ。
下手をすると助けようとした本人が大やけどをするリスクも高い。
多くは「目をつぶって『なかったことにしている』」現状だ。
個人が個人の努力で生き延びるだけの余力しか日本には残されていない、という厳しい現実がある。
だからみな弱肉強食で排斥したがるのだ。
つまり「てめえで武器を調達してなんとか生き延びてくれ。俺が生き延びる邪魔をしないでくれ。」
対等にGIVE and TAKEで力を出し合うことができれば、それは「戦友同士」だ。
障害をもつ人は障害をもつなりに対等に戦える武器をもてばいい。
ところが。
現実の障害者たちのほとんどは武器をもって戦えるレベルに達していない。
その大きな格差は「コミュニケーション」にあった。
「井の中のかわず、大海を知る」ことによる精神的ダメージがかなり大きいのだ。
子供のときから死に物狂いで努力して結果をだしてきた。だが、その結果は健常者と渡り合えるレベルではないと知ったときの精神的ダメージ。さらに努力しても取り返せないと感じる大きな格差。
「努力をすれば普通の人になれるといっていたくせに」。
その上で
「努力が足りない」。
「自分で考えろ」と。
私だったらこう答えるだろう。
「わかりました。では健常者のあるべき姿という【仕様】と【実例】を教えてください。」
たいていパニくる。
理由は健常者は自分のことをわかっていない。
そして健常者のあるべき姿というほど健常者がすぐれた行動をとっているわけでない。
障害者の問題行動のモデルが実は健常者の行動からだったというケースを障害者相手のジョブコーチが発見しているほどだから。
けれども大概はそこに気づくことなく障害者に責任を負わされる。
<その2に続く>