シャイターン(悪魔)がささやく「そんな研究に意味はあるのか」その2

所要でメールをやりとりした友Xが状況を察して時間をとってくれた。

伊東:「10年活動していたときの目標は『普通の生活ができること』、つまり『心身ともに健康的に自分の力でめしが食えること』を目標ラインとして、必要なことをやってきたと思う。結果としてまだ不十分な面は細かくあるが、10年前よりは格段に生活のQOLがあがって、その意味では成功だったと思う。しかし同時に今度は『欲求が高くなりすぎて』かえってそうやってつくったシステムを破壊するような行動が増えている。」
友X:確認事項なんだけど、伊東くんがつまづいているのは「ノーマラーゼイション」のことだと思うのだけど、ノーマラーゼイションの定義をどのように考えている?
伊東:「自立して自尊心をもって生活ができること」
友X:(wiki検索。)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

障害者と健常者とは、お互いが特別に区別されることなく、社会生活を共にするのが正常なことであり、本来の望ましい姿であるとする考え方。またそれに向けた運動や施策なども含まれる。

これには「自立」も「自尊心」もないが。」
伊東:「くわしく書いている本だと「自立」も「自尊心」表現してある。」
友X:「わかった。で、具体的にプロジェクトの考え方としては2つあると思うのだが、ひとつはハードの整備。たとえば車椅子が通りにくい改札を広げるなど。もうひとつは障害者の特性にあわせて健常者が『できるように支援していく』。伊東くんの考えはどっちや?」
伊東:「どちらでもない。ここに第三の考えがある。」
友X:「第三の考え?」
伊東:「そう。相互補助というか…『おたがいさま』という考えや。」
友X:「!」
伊東:「障害者であっても健常者であってもそれぞれができること・できないことを補完していく考えや。たとえばさ、そうだなあ、通常の仕事においてはマネージャ業務が苦手な人がおるやろ?そういう場合『マネージャ業務できません。』となるやろ。『できない』と放置することは簡単や。でも『できない』理由は『一人の人間でそれを解決しようとする』からや。できないことを補完する人がおったら、できるんや。私の場合だと『リーダー職やるべく』努力をしているが、『向いていない』という考え方もある。なぜかというと第一印象『こわい』。まじめすぎ・完ぺき主義で遊びがないから、そのままでは部下が萎縮してしまってうまく動かなくなる。個人努力でカバーはできてももって生まれた性質ってもんがあるから限界がある。でもそのチームにムードメーカーで遊び心のある人がはいるととたんに『できる』ようになる。そういう凸と凹の関係やな。本来人間はそういうものや。」
友X:「…」
伊東:「先の2つなんだが、問題点がある。一つ目のハードの面だが、こちらは『物理的な限界がある』。もうひとつだが、これは一方的で力関係が生じてしまっている。対等な人間関係ではない。それは私が望むところではない。」
友X:「…」
伊東:「で、モチベーション低下でぐちゃくちゃになってしまった原因というのが、一方的な欲…要望の押し付け同士で最終的に『今できている必要なシステム(伊東聰のテーマの場合医療システム)を破壊してしまっている。破壊してしまっている結果、本当に必要な人たちがそのしくみを利用できないという事態が起きている。これは障害者&患者→健常者だけでない。健常者→障害者&患者という一方的な要望の押し付けもあるんだ。」
友X:「…」
伊東:「たとえば聴覚障害をテーマにとると『最低限健聴者と同じコミュニケーション能力を』という要望がある。けれどもそれ自体が実は『最低限』ではない。補聴器一個とっても20万〜40万はする。コスト面だけではない。『聞こえない』ということでコミュニケーションプロコトルが違う。実際には相当の負担を障害者側に科している。」
友X:「…」
伊東:「だが一方で私はそれをひきうける価値はあると思っている。そのほうが障害者にとって自由になるからだ。『配慮のあるところだけ』という制約がなくなる。ところがそれは障害者側にとっては怠慢だ、そっちが配慮しろ、というわけだ。」
友X:「…」
伊東:「要は歩み寄り、一緒にやっていこうというものがまったくないんだな。さきの『おたがいさま』の部分。それがなくなったことによって『社会のしくみ』そのものが破壊されていく。『人間社会そのものに対する破壊』というのかな…。そういう対等な関係性が成立するのか?という疑問があるかもしれない。エジプトにきた理由というのがそこにあるのだけど、たとえばエジプトの地下鉄にはエレベータはない。障害をもつ人たちが手すりを使って移動している。車椅子は?という話なのだが、もちろん車椅子単体では動けないから、有志の若者が手伝ってくれる。で、それに対して感謝こそすれ卑屈に思うことはない。人間としての対等性というのかな…。現実の問題とかもあるから一概に『こうだ』とはいえないのだが、イスラームの考え方が大きく影響していると思う。一見助ける助けられるの一方的関係と思うだろう。しかし、障害者の側から見ると『健常者が徳をつむチャンスを障害者である私が与えた、となる。その文脈で人として『おたがいさま』対等になれている。」
友X:「わかった。これは私の考えだが…。これは日本人のメンタリティの問題が大きく絡んでいると思う。キーワードは『欲』…というか、『甘え』や。障害者は自分の障害に甘えている。逆に障害者にむちゃな要求をする健常者は障害者の存在に甘えている。『甘え』というのは日本人を理解するのに重要なキーワードや。」
伊東:「…」
友X:「メンタリティを解くには…宗教的価値観の背景も大きいし…。実はノーマライゼーションとはいわれているが、世界的にノーマライゼーションは根付いていないんだ。それはなぜか…というのも大きな視点やなあ。そこに『甘え』をキーワードとして、日本人とエジプト・イスラームの価値観を比較、『おたがいさま』を復活させるにはどうしたらいいか。こうきたらどうだ?」
伊東:「あ…」
友X:「江戸時代には、雨の日にすれちがうと相手が濡れるので傘を傾ける「傘かしげ」、肩が当たらないよう「肩引き」という江戸しぐさがあった。琵琶引きなどの障害者専用の特権的な職業もあった。日本でいわゆる相手に対する気遣いやお陰さまという気持ちが強く庶民にあったのはこの頃ではないか。今はどうだ、お互いに譲らず、相手のせいにする。これが欲求の高さなのではないか。少なくとも江戸時代までは『おたがいさま』があったと思う。なぜなくなったのか…。」
伊東:「それだ…。」

そういうことで復活しました…。
やることたくさんありますが…。

さて…。

日本人のメンタリティを語る上で欠かせないのがルース・ベネディクトの「菊と刀」。
そして「甘え」という概念をだしてきたのが土屋健郎「甘えの構造」

菊と刀 (日本語)

菊と刀 (講談社学術文庫)

菊と刀 (講談社学術文庫)

■The Chrysanthemum and the Sword

Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture

Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture

■甘えの構造

「甘え」の構造 [増補普及版]

「甘え」の構造 [増補普及版]

■The Anatomy of Dependence

英文版 「甘え」の構造 - The Anatomy of Dependence

英文版 「甘え」の構造 - The Anatomy of Dependence

一回読んだけど意図がつかめなんだ〜。というところ。
再読したいが、郵便事情がよければなあ…。

「甘え」ってDependence(依存)なんだなあ。

さて反対にエジプト人のメンタリティは?

というところで。