理解されたい「同性愛」とは何なのか?

さて、そのまま続けてムハンマド・クトゥブの研究メモを書こうと思ったが、閑話休題
ずーっと心にとどまったまま言及することのできなかった問題にこのチャンスに言及しておこうと思う。

■思想的コンセプト
◆同性愛差別主義者・イスラーム優越主義者
=>ウラマーのトップ&イスラームという思考回路システム的に
  これは「しょうがない、というか【当たり前】」という気もするが…。

の部分だ。「同性愛」である。

先日、1月30日にこういう事件もあったわけだ。

「同性愛!! 二大超大国 アメリカと中国」
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1734

でかかれた財団会長の記事がホモフォビック(同性愛嫌悪)にみちた表現であったことで、問題視された。

もちろん当事者側も行動を起こした。

国内外のLGBT団体 同性愛嫌悪発言の財団会長に書簡送付
http://gayjapannews.com/news2009/news6.htm

ブログの笹川陽平氏は1930年代の生まれ。その世代のホモフォビアで有名な人物といえば、現東京都知事石原慎太郎氏だろう。実は私自身の、いや、日本全体の社会史研究において「欠けているな」と思うものがある。それは時代が生み出す社会的価値観への影響への考察だ。そのことは韓国人の法学研究をやる友人からの薫陶をうけた。エジプトで同様であった。たとえば韓国でセクシャルマイノリティに対して寛容な政策をとろうとする政治家たちの歴史的社会的背景には1950年代から1980年代にかけての30年間軍事政権を相手に民主化を戦ってきた歴史がある。人間はその人の生きた歴史地理的背景を無視して個人を樹立することはできない。笹川陽平氏や石原慎太郎氏の公的役割を無視したホモフォビア発言の背景に「何か」ないのだろうか。たとえば一昔前は女装業界では「男に抱かれないと女ではない」という考えがまかり通っていた。そういう彼らの世代に対する嫌悪感が背景にあったりしないだろうか。


また同性愛者の人権の問題に対する運動は性同一性障害の運動より早く起こったが、現在私の感覚でいうと「膠着してアンタッチャブルになっている」と感じる。特に同性婚についてである。


この膠着状態というのはワールドワイドにおきていて、トランスセクシャルに比べて同性愛に対する人権問題は解決しない。

2003年5月22日
【国際】 国連・同性愛差別禁止決議案がイスラム教国によって阻止される
http://www.milkjapan.com/2003hn06.html

その大きな【障害】となっているのがイスラーム国家である。先の財団会長に対するLGBT団体の署名団体のなかにイスラームの国はナイジェリアしか存在しない。(それもイスラームではなくキリスト教系が背景と思われる。)


なぜか。


イスラームでは同性愛が明確に「禁止事項」になっているからだ。クルアーンでのソドムとゴモラの話が背景にあって、加えてハディース(言行録)における記載がその根拠となっている。ムハンマドが「男性と寝た」ということでつれてこられた人を石撃ちの刑で処刑した。一番峻烈を極めたのは正統カリフ2代目ウマル、任侠家で一番理想のムスリムのあり方を実現している男性とされた彼の時代である。なにしろ、妹の影響からムスリムになる前は「わけのわからんものを広めている女々しいムハンマドにあったらぶっ殺してやる」といきまいていたようなジェンダー観の人である。4代目のアリーもそれに続いた。


イスラーム国家のある地域では古くからの民族的慣習や伝統で同性愛には比較的寛容だったといわれる。しかし、近代の西洋からの侵略によるアイデンティティ・クライシスが原因でそのような柔軟な姿勢はなくなり、なまじクルアーンハディースで同性愛=「死刑に値する悪」と示されてしまった「同性愛」に関しては峻烈な措置が行われるようになり、現在にいたる、というわけだ。

イスラーム教徒による性的マイノリティー迫害
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%95%99%E5%BE%92%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%80%A7%E7%9A%84%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E8%BF%AB%E5%AE%B3


2007年には国連の会議出席のためにイランのアフマディネジャド大統領がコロンビア大学での講演で、「同性愛者が存在するなどと誰が言ったのか知りませんが、イランには、そのような現象(同性愛)はありません」と答えている。


このように同性愛は「ないもの」として扱われる。


だが、同性愛問題を論じるときに私が長く言及してこなかった大きな理由はほかにもある。


根本的な問題だ。


「言葉のかみ合わなさ」を感じるのだ。


「同性愛」とはいったいなんなのだ?。


欧米の同性愛権利運動では「同性愛」を性的指向として使っている。
日本で同性愛を言及するときは欧米の「同性愛」を使用して語る。


だが、一方で先のアフマディネジャド大統領は「現象」としてとらえている。財団会長の問題発言も「行為」に対して言及しており、「性的指向」をもつその人そのものではない。


さらに。ウィキペディアの同性愛の項目をみてみよう。

同性愛
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B

同性愛の「意味」が性的指向から行為、文化的制度にいたるまで多岐にわたっているのがわかるだろう。
「あれ?」と思うわけだ。
同性愛の何を理解しろというのだろう。


たとえば「機会的同性愛」という言葉。
そういう言葉の使われ方をしている時点で問題がおかしくなっている気がする。


同性に性的指向がむくその人の「存在」を認めてくれ、という意味なのだろうか。
同性と欲にまかせて性行為をする「行為」を認めてくれ、という意味なのだろうか。


たぶん欧米の価値観をもつものや、同性愛の人権を扱う人たちは前者の意味で語っていると思う。
だが、イスラーム国家やホモフォビアをもつひとたちが「同性愛嫌悪」をあらわにするときは「行為」のことを想定する。
しかもたいていの場合「自分が同性愛者よって性的被害者になった」と想定して語るのだ。


だからかみ合わない。「じゃあ、少年が『性的暴力の犠牲になっても人権にかなうことだからいい』というのか?」という解釈になる。少なくとも同性愛に対して「死刑」という厳罰をもって処刑する国々の基本思想としてはそのような背景をもっている。


「人間の欲望の犠牲になる人間がでてはいけないのだ」。
異性同士であれば「欲望」が発生する。だからこそ、隔離する。
けれども同性同士はそうはいかない。だから厳罰を科す。
そうすることによって社会という共同体の秩序を維持して安全を確保しようとする。


「同性愛」の何が悪いか。多くは「同性愛」の行為に対して言及する。「同性愛者」である「存在そのもの」を「悪」とするわけではない。


たしかに現実には厳しい国だと政治的なトピックになっていてそのために言いがかり的に殺されてしまうということがある。だがイスラームの「教え」そのものは「同性愛者」を否定するものではなく、むしろ「存在する」ことが前提にある。でなければ「同性愛は死刑」という言動がでるはずもない。だが、死刑にするべき同性愛者をどうやって特定するのか?それを考えると「同性愛は死刑」のからくりに気がつくだろう。


同性に対して一方的な行為を行わなければ「同性愛」とは発覚しない。またなんらかの不良行為と一緒になっているか、最悪何かの悪意をもって告発・いいがかりをつけられたか。


少なくとも合意の上で隠れている&プラトニックラブであればそれを摘発することはない。
同性愛的な雰囲気だから、とそのまま即死刑になることはない。
(ただイランでMTFのプレオペの少女(少年)が何度も逮捕された、という例はある。性同一性障害への啓蒙がないが故の誤認逮捕である。性同一性障害を理由とした性別変更についてはイランは1979年にイスラーム国家で最初に認めている国である。)


つまり「同性愛」という言葉が文脈によって「存在」と「行為」に2種類の意味をもって語られている。欧米社会=「存在」、イスラーム社会=「行為」の意味で語る。そのために議論がかみ合っていないことに誰も気がついていない。「同性愛」とは何か。そこから語ることが同性愛者の人権問題を語る上で重要な問題点だと思うのだ。


イスラーム社会でも土着の文化的にもともとは性的少数者に寛容な傾向がある。しかも日本と違ってイスラーム社会の人間は人間の本質を見抜くことに非常にたけている。同性愛を含む性的少数者であることをかくして生きることはできない。つまり「埋没」という行動ができないしそのような努力が無駄なのだ。しかし「同性愛者」と気がついたとしても「そっと見守る」。性的少数者に寛容だからこそ、「同性愛者」を守るために「同性愛」行為を禁じているともいえる。


しかし欧米のゲイ・ムーブメントのように公的に同性愛をあからさまにしてしまうとイスラームの共同体の秩序を壊す欧米社会の文化的侵略ととらえられる。事実エジプトでおきた「QUEEN BOAT事件」という同性愛者の大量逮捕の事件は「治安維持に対する犯罪」としてあつかわれてた。「QUEEN BOAT事件」自体は修士論文のインタヴューで私から聞くのははばかられた内容であるが、察してくれたのか、インタヴュー対象者から語ってくれた。イスラームにもとづく国家運営、法の運用がどのようにされるかを理解するうえで非常に重要な事件であった。


最近では同性愛そのもの(存在)は反イスラームでないと考える考え方もあるらしい。しかし、同性愛をめぐる社会的なあり方・しくみついては「欧米」、特にアメリカからの文化的侵略と解釈されるのも事実である。故に「同性愛という性指向」をめぐって人権問題にするとイスラーム諸国はその法案をたたきつぶすということが起こるのだ。「同性愛」とは個人的な性欲の形を超えて社会、ひいては国家運営にかかわる「政治思想」にまで変化している。「同性愛」という存在をキーに文明戦争が起こっているのだ。こうした部分の問題を少しづつ整理していかないと、世界共通の「男/女」の本質的存在に回帰する形をとる=故に「埋没」という形で「存在そのもの」が消えてしまう性同一性障害と違って、一筋縄でいかないのは事実である。


最後に私自身の同性愛観を表明すると、「存在そのもの」を肯定的にうけとり、彼らが暮らしやすいしくみは必要と思う。けれどもそれは同時にいかなる存在に対しても「性暴力」「責任放棄」は許さないという厳しい仕組みも同時に必要になる。「存在するもの」を双方の合意なしに強制的に「欲望の犠牲」にすることが許せないのだ。言葉がきついだろうと思う。しかし「性の多様性」をふりかざしてそのような行動にでる心無い人間がいることもまた厳しい現実なのだ。全体からみれば「少数」だろう。しかし女性に対する暴力に対して同性同士の場合は罰することが難しい。その現実が「同性愛」という性的指向に対する偏見や神話をさらに生み出す。そして私自身はホモソーシャルな価値観=「男同士の連帯を重んじる/故に連帯を破壊する同性に対する性行為に強い嫌悪がある」をもつ人間であり、また同時に友人・知人の中には同性愛当事者もいる。「特別な関係になってくれ」といわれたときに答えることは不可能であるが、人間関係をつくることは可能だ。なぜならばそれぞれの「あり方」を認めて尊重し、境界を守っているからだ。その人の大事なものをお互いに守る。それができたら欧米的な権利活動は必要がないと思うのだが…。