閑話休題 イスラームに性的少数者はいるのか?

先のブログ「[世間の「動き」に思う]理解されたい「同性愛」とは何なのか? - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り」の続きというか、『おまけ』というか。


イスラームに性的マイノリティ(少数者)はいるのか?」、というお話をちょっと。


ブログでは一応欧米概念的に「同性愛」とは「存在そのもの」つまり、「性的指向」という定義の前提で書いた。一方でイスラーム世界では「同性愛」を「行為自体」をさしており、現在のグローバル化した国際舞台では「政治思想」として扱われている、ということも書いた。


もうひとつ「いわなあかん」重要なことがあるのだ。


「同性愛」が人生における「通過点」としてとらえられている、つまり「状態」である、ということだ。


「状態である」とらえられ方というのはどういうことか。
性的マイノリティのひとつに「性同一性障害」がある。性同一性障害のなかのトランスセクシャル、同じ文脈の上に「同性愛」が存在しているのだ。


このことは何を意味するか。
「同性愛」とは「なおすべき状態である」ということだ。
性同一性障害」と同じように。


性同一性障害とは何か。
英語では「Gender Identity Disorder」という。そのなかのトランスセクシャル、文字どおり「肉体の性を反対側に移したがる人」になる。


修士論文を書き上げた当時、アラビア語では「心理的半陰陽(もしくは半陰陽アイデンティティをもつもの」といった。今は文字通り「性同一性障害」とアラビア語のウィキには登録してある。(これ…アラビア語ネイティブが登録したのかな?)「心理的半陰陽」、つまり、「男から女へ」、「女から男へ」という移行する、トランス、SEX-CHANGEの概念ではないのだ。


ファトワをみたところ…。この根拠というのはこうだった。


人間ははじめから「男」「女」で生まれてくるわけではない。「男」になっていく、「女」になっていく、という方向性、ベクトルをもってうまれてくる。ここの話は人間の性分化のプロセスを考えると「なるほど」という感じ。


「男」「女」がまったく別の「生物」として生まれるわけではない、ということだ。


「男」「女」のベクトルをもったまま「未完成」で生まれてくる、というのがイスラーム的科学思考による男女の性分化プロセスであり、性差の原型である。


本来であれば「男」「女」のベクトルにしたがって成長して「男の本質にしたがったあるべき姿」「女の本質にしたがったあるべき姿」に成長していく。


が、「性同一性障害」の場合そこになんかのエラーが生じていて、それがうまく分化していかない状況なわけだ。だから、医療の手を借りて「男」「女」のどちらかのベクトルがうまく働くようにする、というわけだ。「じゃあベクトルがどっちを向いているか」を判定する精神療法が非常に難しいらしいのだけど、なるべく早く「どっちでもない中性状態」から解放されるようにするわけ。


「中性というアイデンティティもあるではないか!」という意見もありそうだが、観察を続けていると「中性」といっていても最終的にどっちかの方向に向かうらしいのだな。そのためにイスラームでは「第三の性」という概念が成立しないわけだ。


これと同じ考え方を「同性愛」という性指向にももっているようだ。


先に「機会的同性愛」という言葉まででてきて問題だ、ということを書いた。その「機会的同性愛」であるが、これは「行為」としての同性愛として書かれている。

機会的同性愛
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E4%BC%9A%E7%9A%84%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B

機会的同性愛(きかいてき・どうせいあい)とは、元々異性愛である者が、異性を得られない環境下(軍隊、刑務所、同性のみの学生寮など)で、同性を恋愛とセックスの対象に選択する事を指す。

機会的同性愛は根源的な性的指向自体によるものではなく、環境において一時的に形成される性的嗜好と見なす事が出来る。


つまり、イスラーム世界で恐れられているのはこの「機会的同性愛」のことだ。これは人間の欲望にもとづく行動だからだ。しかもこの同性愛は「一過性」のものでいずれは「異性愛」になっていく、という考え方ができる。


で、あれば以下にこの「欲」をコントロールするか、というところに重きを置かれる。


同性愛の歴史、という視点で見るとイスラーム世界と日本は非常によく似ている。
イスラーム世界が想定する「同性愛」は欧米諸国でいうところの「マッチョな一人前の男が…」というよりはの三橋先生いわくの「擬似異性愛」だ。しかも「擬似異性愛」の対象となるのはMTFトランスジェンダーよりも「少年」であることが多い。これは本来は「少年愛」の方に分類される内容であるが、そこまで厳密に分類することは普通の人はないので「同性愛」という言葉でこのシチュエーションがうかぶ人のほうが多いだろう。

イスラーム世界の少年愛
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%84%9B


・性的誘惑に関して「すべての女性が一匹の悪魔を連れるとするならば、美少年は17匹を連れている」。
預言者ハディースはけがれのない愛は楽園への途の一つであると断じる。すなわち「愛し、純潔さを保ち、その秘を秘して死ぬ者は殉教者である」

問題はここなのだ。


性的に未分化である少年に同性愛行為を強いる。多くは一時的な性的快楽を得ても、すぐに卒業して結婚し、よき夫になり、よき父になり、よきじいさまになり、一生を終える。


だが、性的に未分化である少年に同性愛行為を行うことによって、女性的役割を体験させる。そのことによってその少年の性的指向、ひいては性自認にも混乱を起こさないといえようか。本当に「大丈夫」という保障はあるのだろうか。先の「【書評】三橋順子 著 「女装と日本人」 - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り」三橋先生の書籍にはひとつの事例が書いてある。稚児として寵愛されたある僧侶が最終的に自殺してしまった。鎌倉時代を調べていたときに私自身「稚児の自殺」を扱ったテキストをよんだことがある。イスラーム世界でも同様のことが起こらなかったとはいえないだろう。


と考えていけば、同じことを感じたと思う。そして

「愛し、純潔さを保ち、その秘を秘して死ぬ者は殉教者である」。
ムスリムは純潔な処女同様に、美しく若い少年たちが待つ」。

という言葉。
つまり美少年に想いがいくのは自然なこと、そして現世では美少年に対してはプラトニックラブをつらぬくこと。


「同性愛という性的指向があるのは認める。だが、その指向は『一過性』のものであり、その想い(欲)を行為に移さないという『しくみ』が必要ではないか?」


そう考えた人がいてもおかしくないだろう。
むしろそのような思考から「同性愛行為をした人」「同性愛者であることを公言している人」に厳しい厳罰を科している、そう考えていくとアフマディネジャド大統領の言動は次のように理解できる。


「同性愛者が存在するなどと誰が言ったのか知りませんが」
=>一過性に同性に関心がむくということは自然に存在することで、同性愛者である永続的な状態はありえません。


「イランには、そのような現象(同性愛)はありません」
=>なぜならば一過性の同性愛感情が同性愛行為に結びつかないように当局が厳しく取り締まっているからです。


そうよみとけば大統領の話していることは論理的には筋がとおるだろう。


同じようにユースフ・カラダーウィーが同性愛に対して「同性愛は『性的倒錯』、社会から撲滅されるべき」も同じロジックで理解できるだろう。


永続的な中性の人が存在しないとの同じで永続的な同性愛感情も存在しない、というのはイスラーム世界での「同性愛観」なのだろう。


同性愛感情そのものは「医療で治療する対象」ではないが、それを行動に移す「行為」は厳しくとりしまるべき。それはイスラームでいうところの「同性愛(状態)」を安全にパスするために必要な社会のしくみだ。ましてや「存在する」とカムアウトすることで社会の治安を混乱に陥れることは厳に慎むべき。そのうえでアメリカの堕落の象徴として「同性愛者の存在」を取り上げる。


「同性愛そのもの」が時代と場所を越えてネガティブキャンペーンに使われてきたという歴史も数千年にわたって忘れてはならないだろう。


紀元前3000年の昔からの古代エジプトのイクナトン王(アメンホテプ4世)からはじまって、アブラハムの宗教にかたりつがれるソドムとゴモラの物語。キリスト教社会のローマ時代観、同じく「東洋の病」とイスラーム圏での同性愛を名指ししてきたキリスト教社会、キリスト教社会を放棄した欧米列強による侵略・植民地化、その反省から生まれたイスラーム復興運動、反して「欧米の病」と欧米の同性愛を名指しすることで社会問題を解決しようと試みるイスラーム社会。


たしかに同性愛は非常に個人的かつマイナーなことである。ここでかかれた同性愛について「結婚している男女」の「結婚観」と同じものを求める同性愛者の存在は?という疑問が生じることも否定できない。だが、世界レベルでみたときには「同性愛」という言葉にあまりに広がりがありすぎて、またあまりにも想定している「人間像」がちがいすぎてそのずれが埋められていない、と思うわけだ。原理主義という言葉をあてられるほど原則的定義がはっきりしている/すごくわかりやすい性同一性障害者と違って、「同性愛原理主義」という言葉を今作ってみて、「あれ?同性愛にとって原理的、とはなんだろう?」と思うほど統一的概念をもたない「同性愛」。

性的マイノリティという枠のなかでもこれだけ背景が違う。


たぶん世界レベルで「同性愛」にとっての権利活動とはなにか、を考えたときに一番に浮かぶのは「好きな人との家庭生活」ではなくて「身の安全保障」だろう。第一に「衣食住が『同性愛』を理由に破壊されないように」。これは職場や地域社会における「同性愛」を理由としたハラスメントを含む。第二に「『同性愛』を理由に心身の安全がおびやかされないように」。これは「同性愛を理由とした心身の病。つまり二次障害の防止、そしてイスラーム世界においては隣人の裏切りや不当逮捕や処刑に対する恐怖も含むだろう。パートナーシップという個人的他者とのかかわりはその次のステップという気がする。個人的他者とのかかわりは個人的人間性がものをいうと思うし、理解されない人に対して「個人情報を非公開」にすることができる。つまり社会のしくみというよりは個人の人間性・価値観のやりとりになる領域だ。


=>日本におけるGIDの問題は社会システム上「個人情報を非公開」にできなかったこと=事実上「公的なさらしもの」だったことにあった。それは関係性のない/薄い人にまで個人がみせたくない情報が公開される。だから「社会のしくみ」を変える必要があった。


けれども大多数の同性愛者の話をきくと優先順位に「パートナーシップ」がきている気がするのだ。そこでたぶん混乱がおきている。「大事なのはいったい何?」。「具体的に何が必要なの?」。たぶん同性愛当事者のなかでも混乱があって、さらに欲を満たしたいだけの「一過性同性愛者」もそこに参加して、さらに周辺のアイデンティティ混同の勘違いさんも参加、その動きを非当事者の人がみていて「???」になる。たしかに共通しているのは「パートナーシップ」なので、「じゃあ個人的にやれば。」になってしまう。


だからまず「同性愛」とはなにか。そして同性愛者が社会で生きるのは何が必要か。
つまり「僕を認めて」じゃだめだ、ってことなのだ。
「僕を『何を』認めて」かがわからないからだ。
そこがわからないとこういう恐れがでてくるのだ。


「俺とベッドインしなかったらお前は『性の多様性』を語る『偽善者』ということになるぞ」。
「俺とベッドインできないのは同性愛に対する偏見があるからだ」。


目的が「パートナーシップ」という「やりたい=欲」だからそういう言葉になるのだろう。
いわれた人で心の弱い人だとこのロジックで「自分が悪い」と感じてしまう。
それで応じる→いった人は目的を果たす。


こういうことが現実にある。
性的マイノリティが多いところに性的トラブルも多い。
安定した「パートナーシップ」を築けないことが背景にある。
裏返しとして「同性婚」を望み、逆に「欲を満たせないこと」を嫌って「同性婚」に反対する。


こういうことが現実にあるからこそ、「同性愛」に対する警戒が生まれる。それを「同性愛当事者全体の責任でなんとかしろ」とはいわない。なぜかというと、こういう行動をする本人が自ら行動を改めないと、人からいわれたくらいでは変わらないからだ。逆にいうとそういう心無い(弱い)人間もいることを考慮に入れて考えないといけないわけだ。


かなり大変だ。だから「性的マイノリティ」という枠から卒業することを選ぶ。
そのほうが逆に自由になれる。


最初の問いに戻ろう。
イスラームに性的マイノリティはいるのか?
答え:いません。なぜなら最終的に人々はマジョリティの中にとけてしまうし、そのように努力を重ねることはイスラームにかなうことだから。ただし人的限界はあるのでこの世にあるすべてのリソースをつかって社会も個人も最大限の努力をします。

ただし、現時点ではこの言葉は「理想レベル」である。


最後になぜこれを書いたか?これと同じロジックが「女性」「男性」「障害者」「健常者」。
「同性愛」「性同一性障害」のみならず、すべての人間に起こっていることなのだ。


ながくなったが…。