イスラーム法は「法のリソース」という考え方
飛び出すようにエジプトへきてしまったがために、「しまった」と思っていることがひとつある。
過去のメンテナンス用のHPを忘れてきてしまったことである。
過去の性科学系の資料はともかく一番残念なのは、中東・イスラームの法の情報、非常に惜しまれるし、すごく不便。私の研究にあまり価値をみだしていない友人は「まああるものでなんとかするしかない」と簡単にいってくれますが、たぶん図版つきビジュアル付でイスラーム法のしくみ書いていたのってうちぐらいだったかもしれなくて。参考にしてくれていた人もいると思っていて…。
もったいねえ…。今集中できる時間たっぷりあるのに…。
きちんとしたメンテナンスできるのに…。
なんとか帰国したらあげようと思う…。
さてHPにも注意書きがあって論文を書くために、とメールをいただくこともたびたびあった。
そのときに「あれ?」と思うことの多かったものとは…。
ちょっとクイズを出してみる。
「イスラーム国家でイスラーム法と国際法とどっちが優先されるか」。
どっちだと思う?ここの理解は大事。
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国際的な人権問題とかを扱う場合によく間違えるのだ。
イスラーム法なのだ。
なぜか。
イスラーム法は神がつくったもの、国際法は人間がつくったものだからである。
人間は神の英知にはかなわない。
人間がつくるものは神のつくるものにかなわない。
だから、まずイスラーム法の吟味を経てから人間のための法をつくる。
法をつくる、といういいまわしが間違いだろう。
「法を発見する」という考え方が正しいだろう。
なぜならイスラーム法のなかに「元ネタ」はたっぷりあるから。
ということでイスラーム国家が国際舞台で条約をむすぶときも、かならずイスラーム法の手続きをへてから採択する。
つまり「宗教が上位で法が下位になる」のだ。
エジプト憲法にはっきりと明言してある。
第二条 「イスラームはこれを国教とし、アラビア語はこれを公用語とする。イスラームの聖典における諸原則は立法の主要な源泉である。」
日本人の感覚だと「え!宗教にしばられるの?」と思うかもしれない。
だが、こう考えるとわかりやすい。
欧米社会でいうところの「自然法」がイスラームであると。
自然法と同じ感覚なのだ。
だからこそ、立法にあたってまずイスラーム法の手続きをへて、OKがでたらはじめて採用する。
「国際舞台がそのような方向になっているから」「時代がこのように変わってきているから」と検証を経ずに安易に立法したり、条約をむすぶわけにはいかないのである。
何か必要な立法があるとき→まずイスラーム法→OKだったら実現、以下まずイスラーム法OK条件が続く限り無限ループ。イスラーム法でNGの場合→条件から抜ける(したがって立法できない。)
イスラーム世界の法的思考はこのロジックであるということを最初におさえないと読み間違う。
くどいようですが、これは基本ロジックであると同時に教科書どおりの理想系であることはことわっておきます。