「王様が実は裸なんだ…」とゆってみよう。

●タテマエとしては『王様は裸でない』が原則
ここエジプトにきてから変わったこと。


「裸の王様」という有名な物語がある。
裸の王様 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B8%E3%81%AE%E7%8E%8B%E6%A7%98

本来の「はだかの王様

はだかの王さま

はだかの王さま


社会評論としての「裸の王様」。

裸の王様 (新潮新書)

裸の王様 (新潮新書)

王様は裸だと言った子供はその後どうなったか (集英社新書 405B)

王様は裸だと言った子供はその後どうなったか (集英社新書 405B)


さらにリーダーシップ教育、コーチング教育、果ては経済学にまでとして引き合いにだされるキャッチフレーズの強い言葉だ。

「はだかの王様」の経済学

「はだかの王様」の経済学


では実際「王様が裸である」現実の当事者になったらどういう行動をとるだろうか。


間違っても「王様は裸だ!」と公衆の面前で指摘することはしない。
それは王様の面子をつぶし、さらに社会的混乱を招き、発言した自分が「扇動者に対する見せしめ」として抹殺されるだろう。


「全体の秩序を重んじて優先的に考える」私としては「王様が確かに裸だ、やばい」と感じつつ、一般向きには平静を保って「王様は裸ではない」といい続けるだろう。


その上で「王様が裸である『現実』に対して具体的な対処を行おうとするだろう。
そしてそれでも収集がつかなくなってはじめて「みんな、知恵を貸してくれ!王様が裸なんだ」というだろう。
つまりグレーゾーンではタテマエを重んじる。グレーは「白」だ。
そして限りなく「黒」に近くなってから「黒」という。9割「YES」1割「NO」だ。
ただし「実はね…リスクとしてね…王様が裸である可能性が高いんだ」をにおわすことは忘れない。


ホンネが出たしたら「レッドゾーン」、ホンネすらいえなくなったらアウト。
その時点では僕は「真っ先に神経の言語系がすべてやられて、書けない&しゃべれなくなるので…」。


しかしなぜそこまでする?


「王様が裸である」現実があきらかになったときの社会的混乱のほうが治安維持を考えた場合の被害が大きいことと、その収束に多大な時間・人的・メンタル的コストがかかるからである。


つまり秩序が混乱することへの「損失」のほうがでかい、ということである。


だが、エジプトにきて考え方を改めた。


「タテマエとしては『王様は裸でない』が原則でそのための秩序維持には尽力しよう。
だがホンネをいわしてもらうと、私の目からみた『王様』は現時点で確かに『裸』だ。」と。


今まで「絶対禁句」だった人とはあきらかに違う「私の見え方・感じ方」をまずは「話してみてもいい」と感じるようになったのだ。


話してみることで「別の見方」を手に入れることができる。
話してみることで「問題を共有できる」。
そして話してみることで少なくとも「孤立奮闘の孤独」から解放される、というプラス面だけでも手に入る。
その分、自分の行動の結果がでやすくなるし、協力してくれる人が増える。


「王様は裸なんだ」という。
そしてもしかしたら「王様が裸と認識する俺の見識は間違っているのかもしれないが…」と断る。
そして「ほかの人は王様が裸にはみえないのだろうか?」と聞いてみる。


そこで突破口が開く可能性がある。
二人の詐欺師はタイホ、他国でも再犯はなくなり、王様の浪費にも変化があるかもしれない。
(…詐欺師の目的って王様の浪費の停止だったけ?ストーリー忘れているなあ。つまり子供と詐欺師はぐる?)


●なんのための「秩序の安定」か?
しかし、ここまでして「秩序の安定」を望んだのにはわけがある。


出発点は私自身の特性であった。


A.変化に対応する「経験」が信用できない!

友人たちから私自身の問題解決の特性として「予防線を張る」というものがある。
つまりあらゆる多様なリスクを想定して、そこに自分なりの答えを用意しないと「行動を起こさない」ということである。
「つべこべ考えずに『経験しろ』」ほど私に適さない言葉はない。


なぜなら私の経験そのものが「一般」と照らし合わせて「ずれる」=教科書としては使い物にならないからであった。
たとえば私は「在職中に求職活動をしたことがない。」必ず「先にやめてから」であった。
なぜかというと「本業に集中することが手一杯で、本業の勤務時間を調整して面接をいれるなどの行動ができないから」だ。
本業が終わった時間に面接してくれる職場なんて「まれ」だ。
逆に「面接のために休みをくれる会社」もまれだ。
目の前の仕事で必死なときに「それをどうするか」なんて考えられない。とても両立することはできない。


やめてからさがしたほうが安定して職を探せたのだ。
ひとつひとつの職場検討、面接に「丁寧に取り組めたから」。
だが、それは一般的には「禁じ手」だ。
こうしたたぐいの経験のほうが多くて、とてもそのままでは人には伝えられない。
しかも先の例でいうと「先にやめて」次の仕事がみつからなかったら、自分がうまくいっていても人には「お前のせいだ」とうらまれて、私自身の評価もさげることになりかねない。


そのため「自分の経験をそのまま信じる」ということがまったくできなかった。
また「経験だけを語る」というのは非常に危ない。
そこである程度の人数の情報との一致、そしてそこに論理的な理由は明確になってこそはじめて人に伝えられる情報になっていたのだ。


B.私は誰?ここはどこ?リアルタイムじゃ「わからん」−パニック!
リアルタイムの会話の中で「私が何を感じるか」を私自身感じることができない。
「話を聞く」というその状況に集中してしまうからだ。
二人以上の会話になるともっと大変だ。
なにしろみんな人が話終えてから、順番どおりに自分の話をするのではなくて、話しているときにばんばん話すでしょう。
実はあれは「内容を把握するのには相当な大混乱のもと」。
かなりいろいろな情報を取りこぼす。


さらにこれは「会話」だけの問題ではなくて、ほかのできごとのなかにもあるようだ。


とにかく「自分に被害が及ぶ距離感&当事者であり即時、短期のリアルタイムな出来事ととして起きた場合の状況認識が大変」ということだ。それが誤解されて「冷静な人」と勘違いされることもある。


「冷静さ」は「状況に対しての平静さをたもつため」に必要だった。
「未知の状況に対して適切な行動がとれない=パニックになる」からだ。
パニックになることは軍人気質の家庭で育ち、その文化に美学をもつ自分としては「死に値する恥」だ。


だが人間が「未知の状況にパニックを起こす」というのはデフォルトできわめて「当たり前」の感情だろう。
ただ本能のままにパニックをばら撒いていたのでは社会&集団に深刻な影響を与えるために「パニック」=「悪」という社会的ルールができたのだろう。実際ギリシャのスパルタでは「パニック発作」を起こしたものは「弱者の病」といわれ、本人の処刑のみならず一族郎党の命運をも左右した。本人のみの問題ではすまなかったのだ。


その意味では「状況に対しての平静さ」というのはきわめて重要な意味をもつ。
私自身の抱える問題としては「パニックを起こす未知の状況がほかの人よりも範囲が広い」ことだろう。
私の知らないところで何かが起こっていて大体の場合「突然知らされる」。
「みんなが知っているのに『私だけが知らない』。しかも私自身の利害にかかわることが勝手に決定されている。」


「どういうことだ、経緯を説明しろ!」
パニックになって檄高しないほうが不自然だと思うが、世間的には「檄高する」ほうがおかしいらしい。
経緯を説明されるどころか、「協調性のないやつ」というスティグマを張られる。
そういう体験からすごした小学生からの日々。


「人と違う人間が人の中で生きるためには真実がどうあれタテマエをたもつ」。
それが人と違うことを自覚する人間の生存するための大原則だ。


●タテマエ上『不変で安定していない』といけない。
「変化に対応する「経験」が信用できない」から検証、整理するのに時間がかかる。
「リアルタイムじゃ状況がわからない」ので状況を把握するのに時間がかかる。
その間「状況は『不変で安定していない』といけない。」


それでも私は危機的状況をサバイバルするには「現時点」ではまだ「まし」なほうと思っている。
タテマエをたもつことができるというのであればまだ「そこまでコントロール可能、余裕がある」ということだ。
裏をかえせばそれすらできずNGになってしまう人がいるということだ。
つまり上記ののべた手段の解決方法すらとれない人のほうが圧倒的に多いということだ。
つまり「そういう人がマジョリティではないか?」


たとえば私と同じような聴覚障害者、そしてやはり自分の外の認知に問題を抱える自閉症含む発達障害者、「タコ部屋労働」などの重労働や精神的な傷を負ったもの、病気や障害で体調は安定しない人、新しい環境に適応しにくい老人、慢性過労状態などいろいろな諸事情から「考えるという行為に余裕のなくなった人」。


こういう人たちは「急激な」社会のしくみの変化には耐えられない。
適切な情報が提供されればいいが、人間そこまでこまめではない。
怠惰な人間の本質としてたとえ友人が障害をもっていても「忘れる」のだ。
過去に修学旅行中に火事があったときに同室の難聴の女子生徒を忘れて全員が脱出し、警報の聞えなかったその子だけが寝たまま焼死したという痛ましい事件があった。


残念ながら平時にしくみをいくら整えようと人間とはそういうものである。


本来読書感想文にいれるべき友人Kからの紹介があった本、「暴走老人!」という本がある。

暴走老人!

暴走老人!

これは本来は若者に多かった非社会的暴走行為が老人に増えていることに着目して、筆者がとりくんだ老人の問題行動のエスノグラフィ。


詳しい内容は帰国後書くとして、この本でえた「あ、なるほど」と思った感想は「五感の感覚のもつ価値観」が育った環境によって違う、ということだった。この本では「空間」と「時間」を軸としてその「五感の感覚の世代間格差」の問題を取り上げる。そこに描かれていたのは急激に変化した「空間」と「時間」の価値観であった。それに「適応障害」を起こした老人たちがぶちきれて「問題行動」を起こす、というわけだ。


この問題は老人だけにとどまらない、と私は思う。


今急激に特別支援学級へ入学する子供が増えている、という。
自称「ラディカル・ノーマライゼイション」推進論者&「養護学校廃止論」者の伊東聰の活動として理念に第一にあげてきた「統合教育」とは逆の方向に世の中は向かっている。


今まで「障害」とみなされず放置されてきた子供たちが「障害者」として「発見」されだした、という障害者教育の歴史の第一歩という考え方もある。


が、一方でこのように考えている。


「個人の特性が『障害』として隔離されなければならないほど、日本という国に余裕がなくなっている」。

とりあえず「変化への適応能力の高い人」を健常者として、彼らの中からエリートを要請するという教育方針と「なんらかの理由で変化への適応に困難をともなう人」への適応能力を高める特別教育。


教育方針がそのように二極化しているのだ。


一見それは合理的な教育方針のようにみえる。が、その判断基準に「障害」というキーワードをおく限り、そのような二極化教育は10年以内に日本社会の経営において深刻な破綻をきたす、と書いておこう。


さて話をもどすと急激な社会変化。


自閉症の子供をもつ単身親の家庭が次から次へと転職を余儀なくされたらどうなるだろう。
自閉症の子供は数ヶ月スパンの転校に耐えられるのか?


介護老人を抱える家庭でもよい。
引きこもりの子供を抱える家庭でもよい。
障害者を抱える家庭でもよい。
身寄りのない人でもよい。


それでも建前上日常が続けられたのは時代の流れが「ゆっくり」だったからだ。
そのためある程度の力のあるものが彼らを支えることができたのだ。
ところが急激な時代の変化はこの「生活面をささえる絶対的強者の喪失」をうんだ。
そのために「自分のことでせいいっぱい」と「弱者切捨て」につながっているのだ。


「どうやって弱者を切り捨てようか」「どうやって弱者のいない世界にしようか」。


●【総括】「見えないもの」があるとまずは伝えよう。
小さな「個人的体験」、しかしそれひとつとってもどれほど恐ろしいことか想像がつくだろう。
…というか想像がついてくれ(ホンネ)。


今までは「想像はつくだろう」…つまり「同意を得られる」と思っていた。
だから、タテマエを守ってもなんとかなったのだ。
ところが同意を得にくかった問題が、近年さらに「同意を得にくくなった」。


伊東:「想像はつくだろう」
ほかの人:「えええええ??????????????」
伊東:「えええ???ってお前…!」


ここ数十年自分の感覚・見識を疑い続けた。
だがエジプトにきて「たしかにこれはそうではないぞ」と感じ始めた。


「私の感じていることは間違いではない。ひとつの見方だ。ただ、人によって見えている世界があまりに違うために感覚・見識に違いが生じているのだ。」


思い起こしてみれば、生涯の中で「一般」とされてきた世界と私が育った世界は「前提があまりに違いすぎた」。
前提が違えば、見えるものも生きる世界も違う。
それを日本人の悪い「平等・均質化」によって「一般常識・当たり前」として強制されつづけたために違和感を感じ続けてきたのだ。


「いや、私が感じている以上に健常者って意外に『不自由』なのかもしれない。」


そういうところもあって、まずは「実は王様は裸なんだ」とゆってみよう…というわけさ。
そうすることで「私しか見えないのか?」と思うことがそうでないこともわかるだろう。
そして「私が聞えていなかっったことも教えてくれるだろう」。


まだそういう考え方する人は少ないかもしれないし、実はこれを書いたことを「多かった」となるかもしれない。