実は奇跡がおきつつある

webシステムの開発もできるようにしようと、必要なことを洗い出したらどうしても「自信がない」とおりこして「やばい」のが「デザイン」。


で、「プロに聞くべし」と友人であるプロの友人に相談。


結論。解決手段なし。
あらためて友人の言葉を咀嚼して考えるに、「先天的なものだろう」。
つまり、つまり「私が好きなもの」が相手に理解されず、また世の中が「好きなもの」を私が好きではない。


「センスがない」とはそういうことだ。


それを無理に学習して変えようとは人格破壊に近い。
また小学生のときの二の舞をやるところだった。
「好きなものは好き」「嫌いなものは大嫌い」。
それでいいや。まず自分自身に関しては。


そもそもジェンダー古代エジプト&古代日本風のシンメトリーを求めるセンスも今の流行ではないし。


服を買いにいっても望むデザインがなくて、「じゃあ自分でデザインしてつくってもらうしかないか」とか。
セミオーダーであればエジプトで買い付けてリメイク。
つまりそれだけ日本にあるものを好まないということだ。


アメリカンカジュアル嫌いでもったいないからもたないようにしている。
黒も好きだが、黒が禁止されているので黒に近いグリーンベースの色が増える。


…日本人のセンスでない、ということかも。
結論的には「シンプル イズ ベスト」であまり服を持たないことにしている。
基本は十二単のように薄いものの重ね着。


だめだ…こりゃ。


そんなセンスなしにも「やるべき」手はある。
ひとつは「まねぶ」こと。(真似ぶ)
いろいろな業種のデザインを学んでそこにこめられた「想い(設計思想)」を読むこと。
もうひとつはセンスのある人にみてもらってフィードバックをうけること。
学習できるものとしては色彩だろう。
あとはビジネス設計の復習かな…。


さてほかにも必要なこと。
「話す」ということを学ばないといけない。
そのためにはまず「言葉」を知るということ。
そしてそれをいかに伝えるか。


いくら才能があったとしてもそれをセールスするための会話のセンスがなければ、その才能を買ってもらうことは不可能だ。


聴覚障害者には残酷な現実であろうとも現実は現実。
同じ「何か」を伝えるにも「伝え方」で意味が変わってしまうのが「聞く」「話す」の世界なのだ。
たとえばリズム感、場面の展開、立場、立ち居地、声のトーン。
同じせりふをいっても意図が思うように伝わらない。
ブログやメール、弁論で饒舌でもディベート、会話などの多面的な世界で口下手になるのはそのせいだ。
これは実際に「話す」訓練をしないといけないのだが…。
健常者でもきちんと事前準備してシナリヲを推敲して、本番にいどんでいる。
要は場数とフィードバックだ。


昔は「無理だ」とあきらめていた世界が近づいてきた。
奇跡に近い。
あとは「敵(健常者)の真の性質を知る」ことだ。
これが一番難しい。