障害を忘れろ、とは(tools) その2

■「ありのままの自分とは?」…どうやって示せばいい?

私の障害は一言でいうと「コミュニケーション障害」だ。「自他認識の不一致」という障害がおきやすい、すなわち「誤解」のために対人関係にトラブルがおきやすい障害だ。


実は自分で感じるよりも私は非常に視野がせまい。つい二年前まですべての「五体満足の男性」をかなり超人化され訓練された精鋭のエリートとして感じていた。彼らの選択は豊富にあり、年上の男性上司に「育ててもらえる」チャンスがある。


対する私。どんなに「無視される孤独に耐えながら」人の倍努力しても人はひとりでは育たない。心身ともにもはやたどりつけない自分自身に強いコンプレックスを感じていた。しかし私が抱いていた「五体満足の男性」が実は「五体満足の男性」自身にとっても「理想の姿」にすぎないことを知ったとき、私のコンプレックスの大半は癒された。そして知った。「障害」という視点に当事者のみならず支援者もとらわれて「普通の人間」としてでなく「理想の人間」に近づけようとしてしまうということに。「理想の人間」をめざすことでその人自身は完全否定されてしまう。


「人間になりたいよ〜」は妖怪人間ベムのオープニングのキャチフレーズだ。


私は「人間になれた!うぉぉぉー!ばんざーい」と思ったのは2005年暮れ。


つまり「人間になって3歳」だのだ、私。


それまでは「医学と教育の実験材料」だった。


そう表現するとかなりものものしい話ではあるが、私の根源的な怒りとエネルギー−すなわち「ルサンチマン」といわれているものであるが−は「医学と教育システム」に翻弄されて、否定された私自身の人生にある。


「俺の本来の人生をかえしてくれ!」
「ありのままの俺自身で生きたい」
「自然体で生きたい」


そして「わがままだ」とさらに否定される。


そういう実感持つ障害者は多いだろう。
障害者自立支援法という実験がある。


障害者ものは別次元で対策をねらないと…。
「変化に弱い」というのが最大の弱点だから…。


「変化」に強い人が行政をやっているからダメか…。
「変化に弱い」がどういうことかわからんよな、うーむ。


ところがある時点で重大な課題に気がついた。


「ありのままの自分」とはなにか。「自然である」とはなにか。
えーっと、「これがそうだよ」とどうやって示せばいい?


「本来の人生」と先に書いた。しかし「本来の人生」とされる、「本来」とはどこを指すのかを自分以外の人にさししめすのが非常に難しい。「本来の人生」という視点をもっている人同士ならわかりあえる。しかしそうでない場合はたとえば「じゃあ目の前にいるあんたはなに?」となるのだ。「いつまでも夢や理想を語らないで現実をみろ」ともいわれる。


ははあ…人生設計の材料を集めるのが「難しかった」わけだ。
つまり「設計図」が第三者にみえないんだよ。
「設計図」をみないで「今の現実だけ」に注目するから、「わがままだ」という結論がでてしまう。


「本来の人生」という名の自分が歩きたい人生の設計図。30年の長きにわたってまるで「未知デザインのマンション」を建設するかのように数え切れないほどの設計図を描く。ただひとつの「自分の幸せの形」のビジョンを見失わないように何度も何度も設計図を描きなおす。有限のものである人間の移ろいやすい肉体と「○○歳までにこういう人に」という社会的役割という締め切りに追われながら、「本来の人生」という設計図を推敲しながら人生を形にしていく。誰かの「ため」ではない。あくまで自分の「ため」だ。どれほど「他人のため」を考えているようであっても自分と他人は価値観が違う。解釈が違う。しかし、自分のために形にしたものを赤の他人であっても使ってうれしいと思うものであれば、これ以上の幸せはないと少なくとも自分の価値基準は告げている。


■「障害を忘れる」の真の意図

私の中の大原則に「私の障害を私自身が忘れる」、そして「私の障害を相手にも忘れさせる」という鉄則がある。この大きな意図は私自身を「障害」という牢獄から解放させて、自分のやりたいことができるようにするためである。


そのために「本来あるべき姿」になるべく近づける訓練をしている。
この集大成がこのブログに書いてあるようなもろもろだったりとか…。


「バレたら困るとかあるのでは?」という意見がある。
そうすると障害にとらわれていることにならないか?と。
「相手がどう受け取るか、どう感じるかが問題だ」という意見もあり。
問題ない。


「私はこうだ」というカードしかださない。
「私が忘れている/もっていないものをあなたに提供することはできません」


ただ、これだけ。


それに対してどう解釈するかは相手の内面でおこることで私が関与する領域ではない。
こういう指摘をする方々って「生きることがしんどくないかな?」といつも思う。
要は「受け入れられたい」と思っているよね、と思う。
それだと相手に人生ふりまわされないか?
「私の領域か、相手の領域か」考えないと解決不能な悩みで時間つぶすよ。


考えないといけないのは「私の人生に損害が生じる場合だ」。
この場合は毅然として戦う。


一番人生経験で多いのはある役割があるときにそのエントリーで排除される、というものがある。
エントリーしていてもほかの人を説得してでもつれてこられるとか…。
やはり異端のものは「健常者」には「こわい」のだ。
で、どうするか。

1.ライバルを徹底的に痛めつける
=>こいつをないがしろにしたら「えらい目にあう」と体験で学習させる。

2.自分が健常者以上の結果をだす
=>欠陥商品だけど、つかえると思われる

3.すきま産業、ダーティ産業をねらう
=>誰もがやりたがらないが必要なものは結果だしたときの評価が高い

でもこれはいわゆる「やくざ式」、コミュニケーション・レベルでいうと「上位より2位」になる。
できる人は少ないのだけど、「感情が納得しない」という欠点がある。


「上位一位」は何か、というと「win-win」の関係。「互いが満足すること」。
で、「障害を忘れろ」がでてくる。


「障害を忘れる」ことによって、ふたつの損害をさけられる。
ひとつは恩を着せられること。
もうひとつはやりたい仕事に「NO」をいわせないこと。


「俺はお前の障害に対して『やさしくしてやったよな』」と無理難題を押し付けられたり、「この仕事は俺がやる」ととられたり。「障害者のくせに」と話が通らない。これがさけられるのだ。


「障害を忘れる」。そしてそれにふさわしい形をつくる。
その「やるべきことをやる」がないと障害からの脱却は不可能だ。


その上で「ありのままの私」を考えねばならない。
「障害の受容」を意味する「ありのままの私」もあるのでそれとは一時別概念と思ってほしい。
「障害の受容」は「厳しい現実を受け入れる」の現実の世界。


今回は設計の話なのでアイデンティティが主体となる。


過去ログ参照。絶対に間違えないでほしい。

[さとしの思考装置]アイデンティティと「現実」が混同されている! - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り
http://d.hatena.ne.jp/stshi3edmsr/20080820


ピックUP!

●「現実」=> 問題解決、否定されるべきもの
●「アイデンティティ」=> 原点、ありのまま肯定されるもの


もちろん「障害をもつ自分」が設計上の自分で「一致」していれば設計が「障害のある」自分であっても差し支えないがたぶん対社会的には大変な諸問題が「逆」におこる。特に日本社会では。


現実に「可か不可か」にとらわれず自由に発想してほしい。
この「発想力」が人生設計の基礎だから。


しかし長くつらい人生を生きた人、または自己否定してきた人、つまり「健康的なナルシスト」になれない人だとどうしてもこれが「難しい」。


なぜかというと人の本能で「過去の人生を肯定したがる」からだ。
この本能があるがゆえに今ある社会の諸問題が解決しないという現実がある。


どんな悲劇的な人生でも「肯定」しないと生きられない現実はここにある。
これに対して健常者は「プライドが高い」と指摘する。
健常者のいう「プライドが高い」の意味は「障害のある人生に対する自己正当化が強すぎる」という意味だ。


たこ部屋で虐待・搾取された人生を生きた人が語り部として「武勇伝」として語る。
虐待・DVの被害者はその体験のOUTによってヒーロー・ヒロインになる。
生活保護は「勝ち組」といってしまう受給者。
障害者をスピリチュアルなものとして扱って世論の非難をあびた事件は知る人ぞ知る世界だ。


けれどもこの「プライド」があるからこそ人はどんな不幸の中でも価値を見出して生きられるのだ。
その語りをとりあげてしまったら人は死んでしまう。
けれどもその語りをうのみにしたら現実が解決しない。
悲劇の長期化&再生産につながるのだ。


かといっても「ほかの人に同じ経験をさせたくない」
これも難しいのだ。
これがさっとでる人はかなり「昇華されている人」だ。
「なんで自分だけが…」だいたい同じ苦しみを知ってほしい人ばかりだ。
「自分は心がせまいから、嫉妬を感じる」という意見もあるのだ。


だいたい私自身も聖人君子ではなく、あまりにも怒りにふるえるような状況下では「呪われろ!」と不幸がおきることを願ってしまうような瞬間もある。…だから「神にまかせろ、相手の人生だ、なんとかなる」と心を書き換える。


「因果応報」経験上確かにある。
自分で手をくださなくても天命にまかせろ。
インシャラー、いい言葉だ。


けれどもこれでは「気付き」にはつながらないのでさてどうするか。


こういう問いが必要だ。
「もう一度同じ人生を生きたいですか?」たいていNoという。
もう一回「やってみたい」と思うほどの「自己肯定感」はない、ということだ。


「じゃあどうしたかった?どうであってほしかった?」
大事なのはそれです。

本来そうであった「幸せの形」を一生懸命想像すること。
これが実現しなかったとしても最低でも「心のエネルギーチャージ」にはなるのだ。


<つづく>