メタ・モデルを理解する(tools) その3

「自分を認めて」と願う当事者の要求は
「メタ・モデル」の変更、「相手を変えること」だ。
だが相手の「メタ・モデル」にうったえることは容易ではない。
人は「みたいものしかみたくない『障害』」をもつ。
それでも命がけで「永遠に不可能な100%の受容」を強要するのか?


■メタ・モデルを理解する

メタ・モデルという概念がある。
メタモデル - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB


「メタ・モデル」とはもとは計算機科学の言葉で所定の問題領域でのモデリングのこと、いわゆる「色眼鏡の原型」のことだ。早い話が「相手の中にある偏見」だ。こいつに訴えるほうが「互いがわかりあうには『早い』」のだ。「メタ・モデル」を通した自分と相手の関係性への配慮「気配り」があれば自分自身を表現する負荷も相手が自分を受容する負荷も最小限ですむ。相手は相手の「メタ・モデル」の解釈内で人を理解しようとするのだ。


先の「障害を忘れろ」、それは「私」という人間を通して多様な人の「メタ・モデル」に働きかけるには「障害を感じさせないこと」が一番いいからだ。


事例がある。IT業界の戦友である友人Kさんは「マフィアの幹部候補の怖い人」と私のイメージを語った。 しかしニューハーフをやっているUさんは「某女優みたい。ニューハーフやらないの?」と私のイメージを語った。


読者としては「?」だろう。


私自身が「マフィア系」と「ニューハーフ系」と態度を変えているわけではない。


Kさんが勝手に「マフィア系」と解釈し、Uさんが勝手に「ニューハーフ系」と解釈し、それを二人から知らされた私が双方とも「私らしさ」として「承認」しているだけなのだ。 もちろんふたつとも伝えられないと気づかなかった「私の知らない私」であるが、私の中の自分らしさの中にはKさんのマフィア系もUさんのニューハーフ系も含まれているため、私にとっては自他認識は一致している。


そうなる要因これこそが「メタ・モデル」の問題だ。「メタ・モデル」:人で1:1でそれぞれ違う。100人他人がいれば100人の私がいる。 そしてたとえKさんとUさんと私が3人であっていてもも私自身は変わらない。「マフィア系」も「ニューハーフ系」も同じ私を見ていることがわかっているからだ。たぶん原則的にはKさんの中の私もUさんの中の私も変わらない。 一人の同一の私が「マフィア系」と「ニューハーフ系」になるのはKさんとUさんのそれぞれの「メタ・モデル」の違いが「私」を勝手に解釈させているだけなのだ。 逆にいうとKさんとUさんの「みたいもの」が私に反映されているのだ。Kさんは「欧米系のマフィア系のすごみ」を感じる人であるし、「ニューハーフやらない?」といったUさんは正真正銘のニューハーフである。


そのように私のなかにそれぞれの「みたいものをみた」ということだ。


もしもここで「障害である自分を認めて」というスタンスを取ったらどういうことになるか。「障害」という言葉で「私らしさ」のすべてがふきとんでしまうのだ。「障害である自分を認めて」であれば受け入れる相手が「見たい」障害者像を可能な限り私は表現しつづけないといけなくなる。つまりまず「ニューハーフに勧誘などありえない」。「マフィア系」もありえない。山本譲司の「累犯障害者」で聴覚障害暴力団の存在が「おどろきの事実」として受け止められたのは「聴覚障害」と「暴力団」はメタ・モデルではまったくつながらないからだ。それは私の自分らしさの否定につながる。


「障害」ってそれぐらい強烈な印象を健常者に残すのだ…。


私が「聴覚障害」であることを優先してしまったら、かつて「女性の見間違う男性の地位向上を願って活動した」本来の「自分らしさ」は全否定されてしまう。ならば最初から「いわない」のが一番ベストであるが、それでも「障害者」を視野にいれるのは「私がしてほしいことを誰もしようとしなかった」ということが一番大きい。社会のしくみも含めて解決しないと「自分らしさ」のスタートラインにも立てないというジレンマもある。「自己否定」につながるという危ういリスクをせおって社会システムの改革をせざるをえなかった。


閑話休題 「妄想」のススメ

ここから「妄想」…。
(伊東)女性の見間違う男性を生かす番組だったな、「おネエ★MANS」
(伊東)…でられるもんなら「おネエ★MANS」でてみたかった…。
(伊東)だけど「障害」に注目されると番組のメッセージ性かわっちまうしな…。
(伊東)「障害もち」は「メディア戦略」の制約がでてくるからやなんだよ…!
(伊東)かといって今「障害」を打ち消すだけの売りものないし…。
(伊東)ああ17年前に素直に茶道教授の後継者受けてたら
    「和と艶のカリスマ 伊東聰」ででられたかも。


(伊東)待てよ、茶道教授って50歳すぎないとなれないんだよな。
(伊東)じゃあ20年後の「おネエ★MANS」にでられりゃいいんちゃ!
(伊東)じゃあ今からがんばっても遅くないんちゃ!


(伊東)あるときは凛とした茶道教授で「和の雅」を体現し、
(伊東)うってかわってエジプト風センスで「妖艶な美」を表現す。
(伊東)その正体は神出鬼没の元IT傭兵の研究者…。


(伊東)実現するためにはアンチエイジング研究…(まじめ!)。

…おいおい…こらこらこら。お前いくつだ!
障害以前に「30代中の男性」ってこと忘れてる…。


でも、楽しいでしょ、妄想って(微笑)
(妄想終了)


でもね、この上記妄想が人生設計で大事なのです。
「妄想」ではあるのだけど、書かれているリソースは「現実」でしょう。
実は「妄想」ではあるがある程度の世界観に関しては実現の可能性がある、ということだ。
「おネエ★MANS」にでられるか、は別として(苦笑)、
たとえば茶道の先生、エジプト風ブランド開発、そしてもっとも近い現実はIT屋の傭兵(斜陽業界であるが)


茶道も一応許状のレベルUPはしているしね…。


「今の現実にとらわれない」というのはそういうこと。


■相手にあわせて「伝え方」をかえる

そうやって「クローズ」に徹する私の活動方針を「自分自身が弱い」といってきた人もいた。そうではない。「誠意をもって100%の自分をさらけだして100%の自分が伝わる」と錯覚もしくは「そうであってほしい」という希望をもつ人からこういう声をいただく。しかしそれは「理想」だ。「誠意をもって自分が伝わった」場合、それは「非常に幸運なことだ」と考えていたほうがいい。本当の自分は自己開示してみせているはず・・・。なのに周囲の「メタ・モデル」が原因で通じないと絶望することのほうが実は多いのだ。


性別越境者や障害者がかかえることが多い問題だ。「メタ・モデル」のなかに「その人を形作る材料がない」のが原因だ。しかも人は「自分が感じたいものしか感じない」というやっかいな特性を持っている。聞こえる音の質から目に見える色まで人に見えている世界観は誰一人として「同じ」ではないのだ。


相手の「メタ・モデル」を変えていくのが理想だろう。しかしかかわる人すべての「メタ・モデル」を変えるとなると相当なエネルギーと時間がいるだろう。20年、いや100年かも。


確かに「叶姉妹並みの容姿で大手銀行の頭取をやる元ニューハーフ」がメディアにでれば「メタ・モデル」破壊の嚆矢(こうし)にはなる。私としてはそのような時代が来るのをぜひともみてみたいが、まず周囲がその実現を許さないだろう。これはある意味「障害」ともいえる。よきモデルを提供できればいいが、近年はマイノリティの悪い面、一般に「わがまま」と解釈される行動ばかりがめだつ。「他人」は変えられない。社会を変えるためには人の価値観を変える必要がある。自分の属する「家族」という小さな社会も変えられないのに。


「人が変わってくれない」。全力で自分自身をぶつけた結果もえつきて、多くのマイノリティが命を断ってきた。私の知人でそれで命を絶った人は何人もいる。つまり一人ではない。「運動で自分が救われることはないよ。2、3年で結果などでないよ。だからまず自分自身の基盤をつくること。」と伝えても自分そっちのけで火にいる虫のように全力で飛び込んでしまう。まるで金太郎飴の生産のように次から次へと同じ結果になる。形をかえた「自爆テロ」である。そのような「人生フローになってしまう『しくみ』が日本にあるのか?」。これもひとつの課題である。


それでも社会は変わらない。そして社会に対する恨みを増幅させる。みたいものしかみる余裕のないマジョリティとされる人々。それを余裕のある「強者」と勘違いして自分をすべてうけとめてとばかりに「丸なげ」するマイノリティ。「理解できない存在」に危機感を感じたマジョリティが自らの世界をまもるためにマイノリティを「いない」ことにして「無視」する。「障害者はわがまま」という言葉はそれを正当化する。そのいたちごっこだ。「相手も『障害』があるんだから受け止められるように小さく噛み砕いてやれよ。」いつもやりきれない想いとともにそう思う。


健常者が聞いてくれるのはこれだけだ。


「私は、▲▲▲という理由で○○をしてほしい。私は◇◇を提供しますので、あなたは××月××日までに私のために○○をしていただくことはできますか?」


伝えるべき必要なことこのようにクリアに伝えられるということ、ただそれの繰り返しなのだ。下手でも不器用でもいい、「どうすれば相手の気持ちをうごかせるか」。相手が○○のために必要な材料をいってきた場合にはそれをそろえるべく準備する。必要なのは材料と熱意だけだ。一番いけないのは自分を丸なげして相手に推測してもらおうとすることだ。それは相手に時間的にも精神的にも多大な負担をかける。自己愛にもとづいた「自分ワールド」の講義と講釈など他人にとってはどうでもいいことだ。よくて「で、なに?(意図:つまり俺になにをしてほしい/なにができるというのだ?)」といわれるのがおちだ。多くは「かかわり」をさけようとする。


相手によって「できること・できないこと」、「何を知っていて何を知らないか」、価値・解釈が違う。相手をきちんと知ったうえで適切な依頼の言葉を述べないと自分が思っているようには受け止めてくれないのだ。そして相手がそれを「できるか/できないか」も大きな問題だ。


「彼を知り、相手を知る」。これができるということは人の中で適応して生きていけるという指針にもなる。けれども活動の実践を続けていく中で一部の障害者にとって「相手にあわせること」、それが実は一番「難しい」障害なのかもしれないとも最近は感じ始めている。


<つづく>