レベル1 KYの原因・「疎外感」の落とし穴 その9


うーん、このシリーズの記事書くのに1年かかる?
気分によって「文章」書きたくないときがあるからなあ…。


これがレベル1ラストの「疎外感」の話です。

[コミュニケーション講座1]レベル1 KYの原因・「疎外感」の落と - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り
[コミュニケーション講座1]レベル1 KYの原因・「疎外感」の落と - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り


■「わかんねーとこがわかんねーから『困ってるんだよ!』」
10年以上前のことです。


友人が資格試験のことで悩んでおりました。
そのころのサポートでは私はキャリアコーディネートのようなことをしておりました。
要するに昨日の日記に書いた、


[世間の「動き」に思う]「働け???」障害者の厳し〜い現実 - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り
「自分の障害にかかわる医療・工学・教育的なメンテナンス費用は自分でかせぐ」


という考えに基づいたメソッドで社会がかわらなくても
個人でサバイバルできる唯一の方法だと信じていたからでした。


そして「障害もち」の人々個人個人を
「社会で役に立つ精鋭部隊」として送り出し、社会を納得させる。
そして「個人の努力ではどうにもならない制度上の問題」を
リストアップして、それを政治的に働きかけ撤廃させる。


そのことによって個人も自由になるし、障害者をしばる制度さえもなくなる。
最終的に「障害を忘れていきることができる」社会をつくれる。


そのような戦略でした。


そして私の周りには同じような考えで「熱くもえる」友人たちが集っておりました。
暗黒時代の黎明期から抜け出そうとしていた90年代のなつかしい思い出です。


さて、とある法律系実務の資格をめざしていた友人は悩んでおりました。
「わからないことがいっぱいある」というのです。
当時、今では当たり前になっております、大学内のキャリア講座がありました。
これだと市価の4分の1ぐらいで資格をとるための勉強ができたと思います。
そしてその友人の勉強していた資格は当時の「就職率が99%」、
よほどの「問題のある人物」でなければ100%就職できるもの。
まさに「障害もち」にはうってつけの資格でもあったと思います。


で、私はいいます。
「せっかく高いお金はらって、講座うけているのだから先生を徹底的に使ってわかんないとこつぶせばいいんだよ」


友人はいいました。


「わかんねーとこがわかんねーから『困ってるんだよ!』」


■苦手な解釈「わからないところがありますか?」
「わかんねーとこがわかんねーから『困ってるんだよ!』」
わからないという自覚があるというのは「まだ救われるのです」。


コミュニケーションの問題でよくつまづく話が「わからなかったら」…の部分です。


「わからないところがありますか?」という確認の方法は
非常に危険だと私は思っております。


「わからないところがありますか?」と聞いたら
ほとんど100%のコミュニケーションが苦手な人は
「ありません」と答えます。


ところが「ありません」と答えたくせに
実際には「わからないところ」があったりするのです。
そこを勝手に自己解釈をして余計なことをしてしまう。
そして仕事を依頼した人は切れます。


「わからないところがあるんだったら、わからないといえよ!」


ところが、それ「おかしな」話なのです。


最初に話を聞いたときには、その人のメタ・モデルでは「わかっている」のです。
その人のメタ・モデルでは…ね。


逆をいうとその人のその人のメタ・モデルを超えた情報がある場合にはその人にはその世界はまったく理解できません。理解できないどころか、「存在すること」すら認識できません。


「理解」よりも「認知」の問題なのです。


■巨大な【黒船】が「みえない!」
文化人類学的な話でこんな話がありました。
あるアフリカの国でのことです。
ある湾の入り江に巨大な黒船が止まっていました。
それを見たヨーロッパの学者が「黒船があるね」といいました。
ところが現地のアフリカ人が「みえない」というのです。
そんなバカな、巨大な黒船なのに、と思って説明するのですが、みえないらしいのです。
実はその現地人の世界観に「船」がなかったのです。
「船」という概念がないから、目の前の巨大な黒船が「みえない」のです。


私はこの話は別の解釈をしています。
「物理的には網膜に『船』は捕らえられていると思うのです。」
ですが、それを示す「言葉や概念」がないために、五感でとらえているものを自分の世界に取り込むことができないのです。


逆の体験が私にあります。「人がみえないものが私には見える」です。
(おっといきなりカムアウトだ!)
実は私には「オレンジ色の天の川のようなもの、光の帯」が見えています。
それは昼間であろうが、夜であろうが、です。
今は「それはほかの人に『みえないもの』と解釈して、意識からはずしています。
意識からはずす(目をそらす)と普通の人のみているものと同じ世界がみえている【はず】です。
みたいときに焦点をあわせるとみえます。
子どものときよりも色があせているようにみえますが、今もみえます。


子どものとき悲しいことや苦しい、つらいことがあったときに
その「光の帯」をながめて癒されていました。
「天使の群れかな?」と勝手に解釈したりしていました。(本当に美しいのです)


そしてある日「その正体を知りたい」と思うようになり、父に聞きました。
「ねえ、お父さんこれなあに?」


ところが。父には見えなかったのです。
「ほらあれだよ、今度はあそこ、ここ。きれいだねえ。」
呆然とする父。


はじめてこの美しい「光の帯」がほかの人に「見えない」ことを知ったのです。


今でのこの正体はわかっていません。
その風景を共有できる人がいないので解析ができないのです。


赤外線なのか?(赤外線みえたらもっととんでもない世界に見えていると思うが)
目の血液の流れなのか(にしては不特定方向から飛んでくる)
障害をもっているため「脳が勝手に作り出した風景なのか」(うーん…)
いわゆる「あなたの知らない世界?」


35歳を迎えようとする今でも「なぞ」のままです。
ただ、私にみえて人にみえない世界があるということです。



■巳之吉の子どもたちはどうなったのか?
また有名な「雪女」の物語があります。
雪女 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E5%A5%B3


有名な小泉八雲ラフカディオ・ハーン)が「怪談(Kwaidan)」では雪女は「お雪」。
夫の名は巳之吉。
舞台は東京・青梅市と伝わります。
当時の東京・青梅は豪雪地帯だったそうです。


二人の間には子どもがいます。雪女の秘密をアウティングされたお雪は姿を消し、巳之吉はシングルファーザーとして子どもを育てなければならなかったはずです。


ここが問題なのだ。
「子どもたちどうなったんだろう。」


多くの同人作家たち含む多くの作家たちが「巳之吉の子どもたち」のその後を書いています。
共通している描写がある。「社会適応に困難を極めて、悩んでいる」というものです。
身体感覚が普通の子どもと違うのです。
特に「寒さに異常に強い」。
ノースリーブの半ズボンの着物で雪の中をころげまわったりする。


子どもの将来を思って巳之吉が叱ります。
「あたたかそうな格好をしろ!普通の人は凍えてしまうんだ!」
自閉症の多様性の中に「寒さや痛みに強い」というものがあるらしいです。
まさに「巳之吉の子どもたち」はその状態になっているわけです。。


ソーシャル訓練によって、「巳之吉の子どもたち」はある程度の社会適応を果たします。
だが、「孤独感」「疎外感」が癒されないのです。
「自分にとって『当たり前』の世界がほかの人に理解されないから」です。
そして逆に「ほかの人の世界が自分にとって『わからない』のでへまをしてしまい、
人間関係が壊れてしまう」からです。


つまり「わからないものがわからない」のに「わかるふりしない」と生きていけない現実が彼らにあったわけです。自分の判断が「間違い」とされるから、人としての自尊心も低下してしまいます。


彼らは人間の中でいきてこられたのでしょうか。
人の一人として「埋没」したのでしょうか。


それとも挫折して母の住む「山の世界」に帰っていったのでしょうか。
現在では失われてしまった「山の世界」は異端者を受け入れます。
「巳之吉の子どもたち」のその後を知らせる物語はありません。


「人と違う」ということが生み出す苦しみのひとつです。


ゲゲゲの鬼太郎のOPで
「おはけにゃ学校も試験もなんにもない」という歌詞があります。
私はそういう特別なおばけの世界では暮らしたくないです。
私は「おばけであっても人の中で暮らしたい」です。


京都大学教授の中西輝政教授は「フリー(自由)という言葉の語源は『人と人のつながりで幸せを感じる」という意味といっています。


「わかちあう友や家族がいなければ人は真に『自由』にはなれない」のです。



■「人間」のインターフェースは共通しているはず…
アフリカの黒船、光の帯、巳之吉の子どもたち。
それぞれにわからない世界をもっております。
そしてそれぞれの世界は彼らの五感の感覚を通して、言葉で整理された「まさに真実の世界」です。
それぞれがその世界観をベースにほかの人の世界を判断しております。


通常人間の五感のしくみはだいたい似通っております。
だから「同じものをみて感じる」ということができますし、「暗黙知」ということも成立します。
言語学者のフィールドワークが成立するのも基本的に「同じ情報を共有できる」というところから来ています。

「家」という世界があり、「親」があり、「衣食住」があります。


聴覚障害でありながら手話の世界に疎いですが、日本語対応でないほうの手話、つまり、日本手話の言葉と世界のジェスチャーに大きなずれ(ある程度通じる)がおきないのは「人間」のインターフェースが共通している」からでしょう。


けれども「人間の基本フォーマット」から仕様がはずれてしまうと「共通基盤となる」認知能力に問題がでてきてしまいます。いわゆる少数者の世界にはいったときに「まさか!」ということがおこるのはこの「共通基盤となる」認知能力によって世界観そのものが違ってしまうからです。


だから「わからないところがあるんだったら、わからないといえよ!」は不可能なことなのです。


私にとってわからないところがあなたにとって「当たり前」かもしれない。(当たり前だと説明ができない)
私がわかっていると思っているところは実はあなたにとって「わかっていない」かもしれない。
(自分勝手な解釈でしかないかもしれない)


「わからないところがありますか」という問いかけは五感のインターフェースがこわれている人にとって非常に強いプレッシャーになります。


正直「全部わかりません!」といいたくなるケースもあります。


「わからないところがわかる」ためには「わかってほしいこと」という大前提が一致していないと不可能です。


■大前提を一致させる
IT屋をやっていて「以外に多くの人ができないのだな」と感じたことがあります。
「大前提を一致させる」ことです。


傭兵なものでいろいろなプロジェクトを20件近く回ってきました。
いろいろなIT屋の友人たちの体験談も聞きました。
そういうものは「面接があります」。


私が必ず聞くことがあります。
「このプロジェクトの目的と最終的なゴールを教えてください」


答えられないのです。


個人的には「ありえない」と思ってしまうのですが、そういう現実があります。


逆になぜこのような質問をするのか?


「わかるとわからないを『発見』して、優先順位を決めるため」です。
目的がはっきりしていれば、「何をわからないと困るか」がはっきりします。
最終ゴールがはっきりしていれば「何が必要か」もわかります。


そうすると漠然としたカオスな「わかる/わからない」から必要十分条件の「わかる/わからない」を絞り込めるのです。


「このプロジェクトの目的と最終的なゴールを教えてください」は
多様な世界観をもつ人たちの大前提を一致させるために重要です。
これをやるだけでメンバーの「自分勝手な行動」「指示まち行動」の大半は減ります。


つまり「わからないものが何か『わかる』」からです。
当然意識あわせに必要なものもわかります。
一番困ったのは「いるだけでいいよ」といっておきながら、突然意味不明な依頼をされることです。
なぜ意味不明になるかというと「世界観」が一致していないからです。
よく上司が「部下が使えない!」といかりくるうシーンがありますが、その世界観の不一致の問題が大きいです。


本来はコミュニケーション能力が上位の人が下位の人に配慮しないといけないのです。
逆は不可能です。(やろうとしてうまくいかなかったです。)
現実は上位の人が下位の人をせめます。
「わからないところがあるんだったら、わからないといえよ!」


これは「歩けない人に歩け」というのに等しいです。
さきのFBI捜査官の能力が必要かもしれません。
けれどもそれが「正しいこととしてまかりとおる」のが日本社会なのです。


もちろん解決する手段はありますが、その能力はレベル6以上になります。
まずは世界観の成り立ちを理解しないと、疎外感の原因になるよ、ということです。

そしてつもりつもった疎外感は…。
昨今の凶悪犯罪をみてもおわかりですね。