行動を見るに2割の懐疑心

■その人の行動は8割
その人の本当の望みを知るには「まずその人のいう言葉を聞くのではなく、その人の行動をみよ」といわれる。


その人の属性をみよともいわれる。
ゆえにその人の言葉は半分以下、いや10分の1に聞けとも。


しかし私は私のルールとして、「行動=その人の望み」というのは8割だと思え、あとの2割は疑え」というルールを設定している。


これは自分の経験上の理由がある。
ひとつはその道を通るとイレギュラーな解決方法がある。
もうひとつはゴールはそこだと思って、実は「道を間違えている」。


だから「最終ビジョン」をはっきり明示することが大事だと私はいうのである。



ちょうどわたらせ渓谷鉄道の話があるので、それを使って説明してみよう。


■「日光に行きたい」

私は「日光に行きたい」と宣言したとしよう。
しかし東武鉄道の「日光・鬼怒川フリーきっぷ」ではなく、「ふらっと両毛」を選択したとする。


行動をみよ、という原則からいうと
「あ、この人は日光に行きたいと口ではいうがそうではないな」と思うだろう。
大多数がそのような判断をする。


または「日光に行きたいのであれば、日光・鬼怒川フリーきっぷだよ」というかもしれない。


さらにこれを
「日光に行きたいので、『ふらっと両毛』を買ってきてくれ」といった場合、気をきかせて「日光・鬼怒川フリーきっぷ」を買ってくるかもしれない。


そして私は憤慨する。
「なぜ『伝えたとおりにしないのか!』。もしくは確認しないのか」。


こういうトラブルというのは人生の中で多々ある。
そのたびに私は「ああ、わかってくれないんだ」とか「自分のコミュニケーション能力がおかしいのだろうか」となやみ続けた。


コミュニケーション能力であればひとつ問題がある。


「なぜ『日光』に行きたいのに、『ふらっと両毛』を買う必要があるのか」を説明しないといけないのだ。


なぜならば大多数の「日光のたび」のメタモデルは「日光・鬼怒川フリーきっぷ」を使うことなので、イレギュラーなことをする場合にはその説明責任はさけられないのだ。


「ふらっと両毛」を使って「日光のたび」をしたいのであれば、実現可能な客観的資料をそろえて説明しないとあらゆる妨害がはいることになる。


それは人生も同じだ。



わたらせ渓谷鉄道経由で日光へ。
さてではなぜ「ふらっと両毛」で日光へいきたいなのか。




大きな地図で見る



上記はわたらせ渓谷鉄道の地図。
122を行けば日光につく。
その距離23キロ。


実はわたらせ渓谷鉄道の終点間藤駅からJR日光行きの日光市営バスがでている。
「ふらっと両毛」のコースでも日光へはいけるのだ。
本人はそれを確信をもって知っている場合があるのだ。
結果としてはゴールは同じだから、「日光へ行きたい」は達成されることになる。


だから言葉で「日光へ行きたい」なのに行動が「桐生」に向かっているであったとしても、「その人は日光にいきたいわけではないのだ」と判断はできない、ということだ。


■しかし中禅寺湖経由で「行きたい」といわれたら…。

だが、もうひとつ気をつけなければいけない問題がある。


中禅寺湖経由で「行きたい」と思っている場合、だ。
たしかに中禅寺湖と足尾は10キロぐらいしか離れていない。
だが、間藤から中禅寺湖へは道はつながっていないのだ。


それを知らないで本人が「いける」と思って、行動する場合がある。


そして足尾までいってから中禅寺湖経由で日光にいけなかったことに気がつく。
行動の結果が「日光でなかった」からといって、「その人は日光にいきたいわけではないのだ」と判断はできない、ということだ。


この場合は「方法が間違っていないか?」という確認が必要なのだ。


けれども大概の場合は「足尾から中禅寺湖経由で日光行きたいんだよね♪」に対して、「ふんふんふん…(聞き流し)」で終わってしまうんだよね…。


「え?中禅寺湖経由?どうやっていくの?」と突っ込んだら、一緒に道路地図をみてこの問題に気がつくだろう。


中禅寺湖へ向かう250号。
足尾とはつながっていない。
人生にはこういうエラーもある。


「日光に行きたいんだよね。じゃあどうする?どうしても中禅寺湖にこだわる?」という展開が理想である。


「ふらっと両毛」を使って「日光のたび」はできるのか?
できるわけないじゃん!と即答する人もいるかもしれない。
「悪いこといわないから、日光・鬼怒川フリーきっぷでいけ!」というかもしれない。
ただ聞き流すだけで終わる人もいるかもしれない。


「ふらっと両毛」で「日光のたび」?どうやって!


という人は少ないんだよね。


■情報収集の格差
「ふらっと両毛」を使って「日光のたび」をしたいですが、と質問してきちんと答えを返す人も少ない。


さらに「ふらっと両毛」で「日光のたび」をしたい人への情報提供は少なく、「日光・鬼怒川フリーきっぷ」を使った人には手厚い情報提供があったりする。


最終的に同じ日光につく。
「え!!!!桐生にいきたかったのじゃなかったの???」という展開になる。
「だから最初から『日光』っていったじゃん!」


大半は中禅寺湖経由で「行きたい」と思って行動していけないパターンが多い。
早い話が「情報不足」だ。
「情報不足」を補わないといけないのだけど、「ふらっと両毛」を買った行動にひきずられてどうしても最後のゴール、「日光」に行きたいという部分がないがしろにされるのだよね。だから「情報収集がうまくいかず」人は人生の迷宮に迷い込む。


「日光・鬼怒川フリーきっぷ」を健常者の人生の道として、「ふらっと両毛」を障害者の人生の道とする。
なんとしても「日光・鬼怒川フリーきっぷ」を買いたかったのに「ふらっと両毛」しか買えなかったという場合が多い。


「ふらっと両毛」では「日光」に行きたいに対して情報は集めにくい。
たとえば障害者で医師の道を本気で目指したい、と話してもどれだけの人が本気にするだろう。
メール相談をしたとしても「話にならん」と返信さえこないかもしれない。
ひどい場合は「障害者の医師をやとう病院なんかあるか!」と返事がくるだろう。


だから結局孤独に切り開くしかないのだ。


孤独に切り開くと大半が「情報不足」で失敗する。まるで金太郎飴をきるように、同じパターン&原則で。
だから「先人から学べ」というのだ。


成功する人もいる。
だが、深刻な後遺症を残す。
先の「説明責任」。
なぜ必要かが理解できなくなるのだ。

まず「概念」が思いつかないよな。


「ふらっと両毛」で「日光のたび」?どうやって!
え?なぜその質問がでるの?


なぜ聞くのかがわからない。
人は単純に聞いているだけなのに、うけとる人は「自分が何か行動を間違えたのか?」と解釈してしまうのだ。

単独で解決する行動であればいいが、集団行動となると大問題となる。
聞かれてから答える。
「いいわけ」になってしまうのだけど、「いいわけ」になるという概念すら思いつかない。
聞かれたから、答えただけなのだ。
行動する前に「説明する」なんて世界があるとは思わない。


質問して答えるという体験がないまま「黙殺されてきたために」こういうことが起こる。


さらに「どうせ俺のことしらないくせに」と思うようになっているから他人の介入も拒む。
さらに一種のサバイバーになるために自分の成功体験に依存して絶対の法則と思い込む。
それがさらに他人との協調関係を阻害するのだ。


「日光へ行きたい」のであれば「日光・鬼怒川フリーきっぷ」でも「ふらっと両毛」でも情報が手にはいるほうが広がりがでて楽しいよね。


だから私が大事だと思っているのは「日光へ行きたい」の部分で、あとの「日光・鬼怒川フリーきっぷ」や「ふらっと両毛」という手段はなんでもいいと思っている。とりあえず「日光につけばいい」。


「日光に行きたい」のに「桐生」に向かったから、といって「日光に行きたいわけでないんだ」と解釈しないでくれ!というのが理想かな。


もっとも「本気で日光へ行きたい」のか?ということをきちんと確認するのが大事なんだろうね。


ということで「行動をみる」に二割の懐疑心を!でした。

東武電鉄さん、すみません)