障害なのか非かは関係なく


実は数週間前にmixiなどでは流れていた下記の問題。


お知らせ : 京都新聞
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009111300031&genre=C4&area=K00


トランスジェンダー聴覚障害者に置き換えてみたらどうなるのだろう。
やはり「コミュニケーション」がとれない、ということで解除になるかもしれない。


視覚障害者でかつ有資格者だったらどうなのだろう。
やはりだめなのか?
…だめかもしれない。


セラピー系も趣味のひとつでいろいろなところをまわったが、視覚障害の鍼師1名しかあったことがない。


大学等の専門で視覚障害東洋医学系技術者、聴覚障害IT技術、という教育をしているところがあるが、
聴覚障害ですらあれだけ大手の企業をいっぱい回ったのにであうことが一切なかったため、
「本当にめしを食えているのだろうか?」と思うことが多々ある。


小学校の先輩にはIT技術者は数人おられたが、コミュニケーション能力が原因で数年で廃業してしまっている。


「何故廃業に追い込まれたのか?」と先輩方が理解していなかったために、
その答えをもらえず(そういうことはどの問題にもよくある)
その「何故?」と心において仕事をして今の自分があるわけですが。


性別越境者(トランスジェンダー)の方から「ほかの障害はいいなあ」といわれることがよくある。
「ほかの障害」と同じような処遇がほしいといわれることもある。
また「ほかの障害と同じような処遇が必要なのでは?」といわれることもある。


でも、経験上私はそうは思わない。
性別越境者も自分が経験している聴覚障害者も本質的問題は変わらない気がする。
聴覚障害者を視覚障害に置き換えても同じだろう。


障害なのか非かは関係なく、流れるものは「異端者」に対する強い「警戒心」だ。


記事であげられている会社、「障害者」「異端者」を受容してきた熊野のおひざもとの企業であるため、この処遇が報道どおりであれば非常に残念とは思うが、業務委託や派遣という性格上やはり対取引先、対お客様という視点で厳しいものがあったのだろうと推察される。


となると「障害者」「異端者」が今の時代を生きる戦略とは何か。


隠せば健常者にみえる障害であれば隠し通して「今できること」を最大限にだして仕事をする。
障害者手帳がもらえるのであればもらって障害者枠で仕事を探す。


企業に補助金が下りるため、「障害者かつ健常者と同等以上の仕事ができる人」は歓迎される職場もある。


逆に障害をもちながら無職で「手帳」と「人脈」がない人は今の時代は悲惨だ。
障害をもってかつ手帳がない「ピア」が私にはいない。
私の同級生・先輩はみな手帳をもっている。


2009年秋現在、夏に比べてもちこしてはいるが仕事の絶対数が足りない。


障害者手帳ありませんか?」
障害者手帳があれば方法があるが…」
帰国してから何回聞いた言葉だろう。


「あげるかさがるか何とかしてくれ」と考えた場合に、
さげるわけにいかない。


そんなことすりゃこの記事ものだ。


http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/choukakusyougai-gisou/
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/choukakusyougai-gisou/


http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/feature/hokkaido1197600789502_02/news/20090525-OYT8T00357.htm
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/feature/hokkaido1197600789502_02/news/20090525-OYT8T00357.htm


じゃああげるしかないが、物理的限界がある。
たとえば私にとって問題なのは電話業務でこれは企業のあつかう機材に依存する。
機材もちこみ(低周波であるPHSなど)が可であればよく、それでのりきっていたが、
現在はほとんどそれがNGだ。


企業のコンプライアンスが厳しくなった。


たとえば市橋容疑者の通報した会社が身分確認の甘さによる社会的制裁を受けてしまっている現実からさらに状況は厳しくなるのみで記事のようなアプローチはさけるべき状況になるだろう。


http://news.ameba.jp/domestic/2009/11/50103.html
http://news.ameba.jp/domestic/2009/11/50103.html


コミュニケーション能力に対する要求も高くなった。
私の状況を「聴覚障害者ではなく、むしろ異文化問題、外国人の問題に近い」と指摘した知人がいる。


コミュニケーション能力の要求されるスキルはいろいろあるが、
一番苦手かつ克服が困難なのは「会話をリズミカルにつなぐ能力」だ。
これは営業マンに必要とされるスキルだ。
「ネイティブ・スピーカー並みの日本語能力」ともうしますか。
リズミカルという部分は障害の影響で違和感を感じる微妙なタイムラグが生じるために
相手に不安をいだかせやすい。


また、性格上の問題で「知りうる限り」の正確さを求めて「考えて」はなすとリズムがくずれる。
脊髄反射的に正確なものをかえす、がベターであるし、必ずしも正確である必要なない場合もある。
そして会話に「文語表現」が多く「口語表現」が少ない、という指摘もある。
これはわかりにくい人には非常にわかりにくい。


この3つ、解決には限度がある。


昔だったら「デメリットはとわない」。
だから大きな問題ではなかった。
「障害?異端?そんなんかまへんよ」といってもらえた時代が確かにあった。


今は「デメリットをさけるようになっている」。
可能な限り「揚げ足」を取られない書類作成・行動に努力が必要な時代だ。


社会から排除される彼らの「ちくしょう」「わかってほしい」「どうにもならない」気持ちは承知している。


基本的に「はったり」で若いときを生きた私。
それでも本音では誰にもいえない/いわない「ちくしょう」とは何十回、何百回叫びたかったか。
ここまでがんばって積み上げてきて、でもリセットされてしまうのか、みたいな気持ちだった時期もある。


でも少なくとも「はったり」で行動して受け入れられた時代があった。
受け入れられたからこそ、一番大事な年代を自分の設計書にあわせて行動することができた。


今は違う。
それこそが「不幸な」人もいるかもしれない。


けれども数百年という歴史をベースに考えた場合にはそんなことめずらしいことではない。
たとえばドン・キホーテに代表される「騎士」だったり。
大航海時代の海賊たちだったり。
明治維新による武士たちの失業には失業手当はない。


さらにマイノリティをみると
障害者の救済措置として許可されていたマッサージ業界、金融業。
金融業なんていうのは私にいわせると障害・マイノリティが生きていくための手段のはずなのだ。
許可が健常者に緩和されたことで一気に壊滅した。


テレビ産業や下手な人権意識による障害もちの芸能業の衰退。


富国強兵が生み出した五体満足/不満足のヒエラルキー


落語の世界をすべて知るわけではないですが、それをみているとそれまでは都市部、一部の農村では「対等な付き合い」がある程度できていた。


皮産業。それなりの社会システムが存在しましたが、皮肉にも身分制度がなくなったことで崩壊。


近い時代では明治の主要産業であった「製糸業」だったり。
そして銅山、炭鉱。
昭和であれば建設・土木も。
戦時中はエリートだった、職業軍人たちも職を失い、地獄をみたというのは伊東家の歴史をながめても珍しいことではない。


世間一般をみても寝る間も惜しんで勉強・訓練し積み上げてきたものがぐちゃぐちゃになった人なんでざらにいる。


そもそも「積み重ねれば幸せになれる」という価値観自体が戦後から団塊世代にのみいえる真実だろう。
私含む団塊ジュニア世代が親である団塊世代のみをみて、人生をモデリングするのは非常に危険でリスクが高い。


おそらくだが、身近な年代でいると90歳以上の親をもつ子ども世代が適切なメンターの気がする。


スキルをつむとかキャリアをつむとかそういうものではなく、
時代の波にあわせて舵とりができる余力がもてるかどうか。


健全な自己愛をもっているか。


己の価値基準をもっているか。


そして常に行動をしているか。


その上で柔軟性があるかどうか。


人間の連続した関係性がつくれるかどうか。


誰かのためになにかをできるかどうか。


誰かのための責任をひきうける器量があるかどうか。


人間には慈愛という感情がある。
人間にはたしかに「慈愛」というものがある。
「慈愛」がない、という前提で社会と向き合うと大変つらい人生になる。
しかし「慈愛」がある以前に弱い生き物であることも事実だ。


今まで「なあなあ」にしてきたことの「本音」がはっきりでている時代。


「障害もち」にとっての生きるための障害克服の努力ですらわからない人には「趣味でしかない」世界。
健常者ですら「生きるか死ぬか」の時代。


なので覚悟を決めて「その時代の中で私は私以外のためにどうするか」の視点が大事だと思う。


私、伊東聰からのメッセージです。