Be a problem solver, not a problem bringer

いただきものですが、僕の基本コンセプトにぴったりくる表現だったので。


Be a problem solver, not a problem brinder
問題をもたらす人ではなく、解決する人であれ。


長期記憶の僕としては、最近になって「腹が立つ」ことを覚えた問題がひとつある。


「問題のいいっぱなし、なげっぱなし、指摘しっぱなし」の人が圧倒的に多いのだ。
こちらの都合考えおかまいなしにそれはある日突然やってくる。
で、「問題」をさんざんぶちまけたあとで、
「私は問題を投げたから、解決はあなたでかんがえてね。」と放置されるのだ。
相談することも「禁止」である。
実際に「人に相談するのは卑怯だ」といわれたために、
「相談しない」ことを守りつづけたことがあった。
健聴者に教えられたそれが常識だと思っていた。


結果的に私はその「問題」をひとりでかんがえなくてはいけなくなる。
その課題の解決に半年費やしたりして、
その間「自分のやりたい、楽しみたい」がお預けになるんだよ。


僕の半生はそれに振り回されたわけだ。
自分の考えに固執せざるを得なかったのはそのせいもある。
だって「相談禁止」だもの。
その代償としての「情報収集能力」かもしれないけどね。
可能な限りの情報を収集して、自分で考えるしか方法がないんだよ。


聴覚と、そして人と話をすることを禁じられた10代。
物理的に、そして論理的に二重に人との関係を断ち切られた。
まさに「無間地獄」ってやつ。


「ちくしょう、ふざけやがって」と思うよな。
「でたらめ教えやがって」とも思うよ。
「おれの人生かえせ」だ。


構造がわかったからこそ、今になって無性に腹がたつ。
「私は問題を投げたから、解決はあなたでかんがえてね。」はねーだろうよ!
もっとひどい話は意訳して「私の問題をあなたの脳味噌で考えて教えてね」もある。
「まさか!」と思うだろう。でもふえているそうですよ。


私は「みんなで協力して問題を解決する快楽を知らない。」
せめてそういう思いを後世の人には二度とさせないために、と「障害者隔離政策」の廃止論者なわけだ。
一生隔離して、生計を立てて独立国家つくるならともかく、結局は「人間の中」で生きていくわけではないか。ただでさえ障害で学習が難しいのに人とのつながり方を断ち切ってどうすんだよ!


だけど、ほとんど多くの人がそれをやる。
ようするにコミュニケーション障害の私がいうのもなんだが、
逆に健常者のほうが、いや、「日本人が」というべきか。
「コミュニケーション」がわかっていないのだ。
特に「課題解決」のためのコミュニケーションのとり方が。


最近は逆にこちらは問い返す。
「それを解決しないことで何か問題がありますか?」
ないのであれば、こちらは考えない。


「この問題を考えて解決するのに、見積もり(時間・金額)このぐらいかかりますが(笑)」


「なぜその『問題の答えを私に求めるのですか?』」


「優先順位最後でいい?」


「アポとって!」


「HP&ブログみていれば状況わかるよね?」
((読まないで『問題』持ちかけるのもいるのだ、で「伊東くん、ブログ読まない人もいるよ」と反論!読まないで問題もちこむことで僕の時間泥棒している自覚ある?ようするに相手してくれるなら誰でもいいんだよね?))


いじわるかもしれないが、そうしないと私の身がもたん。
そんなわがままを受け止められなくなってきた。
受け止めるエネルギーがなくなっているよ。
その意味では年取ったな、と思うよ。


本気で解決が必要であるというのであれば、
下準備をしてから話をもってくるのが「常識・礼儀」だろう。
それを私は「頼(より)」というと聞いた。
「頼(より)」があるかどうか。


ましてや、「相手がどういう人(価値観・世界観)か」も考えずに
「問題」をもってくる、というのは「卑怯」としかいいようがないよね。
「伊東さんは○○とかんがえて、こうされていると思いますが実はそれで困ることがあります。」
このフレーズは必須だよね。
特に「伊東さんは○○とかんがえて」がないと、
「あ、意図が伝わっていないな、伝えるためにはどうするか?」と
またここで「考えない」といけないことがふえる。
説明したあとで「そんなこと当たり前だ、わかっているよ。」と逆ぎれする人もいる。


そこでこっちは思う。「おい、そんなに俺の仕事の邪魔したいの?」
「『わからない』から、『問題』と思ってもちこんでくるんじゃないの?」
俺に考えさせているよね、時間泥棒だよね?
上記やりとりじゃ、どうかんがえたって受け取る側はそういう風にとるよね?


やっとそう思っているんだと表現していい、と思えるようになった。
「問題のいいっぱなし、なげっぱなし、指摘しっぱなし」の人が多いことに気付いたから。


逆に彼らの立場&私も過去に失敗しているのでいいわけ。
「どうしてなげっぱなしにして、自分で考えろ」というのか?


大きな原因は上記文章からひっぱる。


「下準備をしてから話をもってくるのが「常識・礼儀」だろう。」
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
つっこむ。この「常識・礼儀」ってどこまで適用されている?
本当にすべての人に通用するの?


要するにこれが「常識・礼儀」でない人たちもいるのだよ。
さらに「常識・礼儀」でない正統な理由ももっているのだ。


だけど、多くの人が自分たちの「常識・礼儀」が正しいと思っている。
だから少し考えれば「わかる」と思っている。
だから「自分で考えろ」なんだよ。


ところがこれが成立するためには共通の「常識・礼儀」をもっていることが大前提となる。


実際には「村社会」、同一正業を営むもの同士でない限り、同じ五体満足出ない限り、この「常識・礼儀」が100%近くまで共有されていることは考えにくい。共同作業を多く必要とする農業・漁業でないとありえないだろう。


たとえば公務員文化、サラリーマン文化、経営者文化、自営業文化、農業文化、はてやヤクザ文化、マフィア文化、水商売文化。障害でいうならろう文化、トランスジェンダー文化。
それぞれに「村」のおきてがあるが、インドのカーストのようにこの文化の考え方はまったく違う。
そしてそれぞれにおきてに正統な理由がある。
文化をこえるとあいいれないことがある。


そうなると特に学校とか異文化集団が集まる場所だと、どの文化がマジョリティかによって「常識・礼儀」のあり方が違ってしまうのだよ。


賢い人は子どもの教育環境はそこを考えて「選ぶ」のだが…。
(もちろん失敗することもある。学校文化 != 地域社会というところもある…。)


また非常に残念でもあり、合理的、安全でもあるのだが、「異邦人/同胞人」でも扱いが違う。


共通しているのは自分の「常識・礼儀」が正しいと信じていることだ。


「常識・礼儀」を疑って、「いろいろあるよね…」ではわかりあうことは時間がかかりすぎるし、困難なのでまずお互いの「常識・礼儀」をぶつけ合って共通基盤をつくって会話しないと、言葉すら通じない。


たとえば「最近どうしている?」と聴覚障害者にいうと激怒ととれるほどの不快感がかえってくる。
それが「なぜか?」をわかる人がどれだけいるだろうか?


答えは後日書くがとにかく「そこまでずれる」んだよ。人は。


で、結論。
「問題のいいっぱなし、なげっぱなし、指摘しっぱなし」はNG。
必ず解決のための対面での「話し合いの場」をつくること。
電話&メールNG。
これはビジネスの世界では「常識」です。…ん?…。


Be a problem solver, not a problem bringer
問題をもたらす人ではなく、解決する人であれ。

※補足
大半は目的は「課題解決」でなく、コミュニケーションの飢え(ストローク(甘え)を満たしたい)ことのほうが多い。「内容」でなくて、「会話」が恋しいのだ。それは別の「問題」をもたらすとして別掲。
その意図がうまくうけとれていないのでは?と思われる読者おられると思いますが、
原則、私はストローク(甘え)を満たす欲求にはお答えしません…。
これは10年前からいっていることです。その辺は厳しいよ、私は。のはずが…。
「いわれていても伊東さんと話しているとそのことを忘れて『わかってくれ』と甘えてしまう」といった人もいた。


聴覚障害者の「話の聞き方」はストローク(甘え)を満たす欲求に答えているように感じている方が多いんだよね。一生懸命聞くから。話をスルーする、っているのが一対一ではまずないし、顔をみて「まじめに」話を聞くよね…。正しく理解しようとする。
それだけ「話を聞いてくれる人が世間にいないのだ」と思ったよ。


「冗談をいうときや、話をスルーしたいときは「目線をそらす」ということをこの前教わった。
で、ないと「冗談」と「本気」の区別がつきにくいんだとか。
どうりで個人的には「まじめにうけとりすぎる冗談の通じない人が多い」と思っていたが…。


コミュニケーション講座、休止しておりますが、本当奥が深いです。