性別越境者でなかったら…肉体の「性」に殺されたスルタン

性別越境者でなかったら…
肉体の「性」に殺されたスルタン


ラズィーヤ・イルトゥミシュ(1205-1240)

久しぶりに書きました。「歴史のなかのTG」シリーズ。
最後に書いたのいつだっけ?ぎゃー2002年から8年ぶり。
「やらねば」作業におわれて、我慢しすぎ(笑)。
道理で「書きたい」ストレスがたまっていると思ったよ…。
楽しんでくださいな。
基本的に英語文献しかなかったから、書き出すまでが大変だったけど、
時代がすすんでネットさまさま。


★風の谷ナウシカクシャナ王女のモデル?
「わが夫はさらにおぞましきものを見るだろう」(クシャナ:風の谷ナウシカ
蟲の毒により障害を負い、蟲を憎み戦いの中に己を投じたクシャナ
彼女のモデルといわれている歴史上の人物がいる。
ラズィーヤ・イルトゥミシュ。歴史家エリオット・スミスをして「彼女の欠点はその心にふさわしい肉体をもたなかったことだ」といわしめたFTMのスルタン。
事実その人生は肉体の性別に翻弄されて潜在的能力を発揮できずにその生涯を終えた、まさにFTMであったことが悲劇を生んだ人生でもあった。


★父・イルトゥミシュ
 ラズィーヤは1205年シャムスッディーン・イルトゥミシュを父としてインドに生まれた、とされる。当時のインドは奴隷王朝とよばれるトルコ系の王朝が北インドを支配していた。奴隷王朝の「奴隷」とはアイユーブ朝というイスラーム王朝がトルコ人の奴隷で構成したマムルーク軍団からの「解放奴隷」のことであり、その勢力は強大になり、13世紀当時にはエジプト・シリアにマムルーク王朝を樹立していた。一方インド方面では10世紀にアフガニスタンでトルコ系のガスナ朝、イラン系のゴール朝がインドの富を目的に侵略、ヒンドゥー系の勢力ラージプートと戦いを繰り返し、1206年にゴール朝の将軍アイバクがデリーにインドで最初のイスラーム王朝を樹立した。ラズィーヤ1歳のときである。アイバクがマムルーク出身であったために「奴隷」王朝というのだ。同じく「奴隷」であったラズィーヤの父シャムスッディーン・イルトゥミシュはアイバクの部下であり、かつ娘婿であった。この奴隷王朝をふくみデリーを拠点にした5つの王朝、ハルジー朝トゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝をまとめてデリー・スルタン王朝という。のちのムガル帝国につながるインドのイスラーム朝の基盤をつくりあげた。


 奴隷王朝をつくりあげて4年後、イルトゥミシュの上司でありかつ舅であったアイバクは落馬事故で急死、そのあとを息子アーラム・シャーがついだがマムルークたちを制御する力がなかった。まだ政権が安定せず、ちょうど「力のあるものが権力をとる」というちょうど日本の戦国時代初期のような様相であったためだ。そのためほどなくしてイルトゥミシュがアーラム・シャーと戦い、スルタンとして即位することとなる。1211年、ラズィーヤ6歳のときである。


イルトゥミシュは自分の同僚であるマムルークたちを一掃、勢力をベンガルまで拡大、長男をベンガル州知事に任命した。軍事・内政機構の整備や権力の中央集権化につとめ、絶対的な君主制を確立した。スルタンの手足となったのが、自身の出身であるトルコ系の帰属集団「四十家(チャハルガーニー)」」であった。彼らの存在によってのちにラズィーヤは翻弄され苦しむこととなる。


★男性ジェンダー規範で育った王女
ラズィーヤには兄弟姉妹がたくさんいた。長男のベンガル州知事ナーシル、その弟でありラズィーヤの兄にあたるフィーローズ、弟バハラームと末弟ナーシルッディーン、その他の名の残っていない弟たち。姉妹の中にサズィーヤという名の妹がいたことはわかっている。アイバクの娘ではないか?と推察される母の名は伝わっていない。なぜならばインド・イスラームの慣習でパルダー制度という女性を「ハーレム」の中に隔離・管理するシステムがあったために、女性の記録というのはほとんど残っていないからである。パルダーというのはペルシャ語で「カーテン」を意味し、ゴール朝からインドにもちこまれ、ヒンドゥー教徒の間でも女性が顔を隠すなどの習慣が導入された。


 父イルトゥミシュもその習慣を実行していたとおもわれるのだが、なぜかラズィーヤには女性ジェンダーに期待されるその教育をうけてはいなかった。ラズィーヤは「ハーレム」の中では育っておらず主に軍隊の中で生活していたのだ。「ハーレム」を知らず、軍隊で育つということはラズィーヤが女性ジェンダーの規範を知らず、男性ジェンダーの規範のみで育ったことになる。このことはラズィーヤを理解するうえでの謎のひとつとして残っている。「個人を優先する」というイスラームの価値判断にもとづいてFTMであるラズィーヤの特性を父が理解して育てようとしたのか、それとも母を早く亡くし、軍隊の中で育てざるを得なかったのか、また遊牧民の伝統として皇女にも軍事訓練を課す風習があったのか。また、30歳をすぎても未婚であったことはラズィーヤ自身に依存することなのか。それとものちのムガル帝国が皇女を未婚のままハーレムに隔離し続けたように、ラズィーヤもそのように扱われたのか。必然か偶然かいずれにせよ、その環境はラズィーヤには最適かつふさわしい教育環境であったらしく、幼なじみマリク・アルトゥーニアをはじめとする男友達と実地で支配者にふさわしい軍事行動や内政について学んでいった。


 スルタン位の世襲制度確立に成功した父イルトゥミシュであったが、とんでもない悲劇が彼を襲う。長男ナーシルが1229年に亡くなってしまうのだ。以後彼は後継者問題に悩むこととなる。そして7年後亡くなる1936年に彼が後継者に指名したのは息子ではなかった。ラズィーヤ・イルトゥミシュ。当時30歳。正当な形で女性がスルタンに指名されたのは歴史上ラズィーヤただ一人であった。


★「五体不満足なリーダー」の条件
 「個人を優先する」イスラームの価値判断というのは奇妙なものだ。通常は「五体満足の男性」でしか権力者、つまり集団のリーダーにはなれない。しかし実際にはイスラーム世界で「五体不満足なリーダー」は多くいる。たとえば近年で有名なのはアフマド・ヤシン (パレスチナ、ハマースの創設者:全身麻痺)、ムハンマド・オマルアフガニスタン、ターリバーンの最高指導者:隻眼)、オマル・アブドゥル=ラフマーン(エジプト、アル・ガマーア・アル・イスラーミーヤの創設者:視覚障害)であるが、これは「できる人がいなければ代理で指導することができる」というイスラームの考えによる。ラズィーヤも同様の論理で女性、いやFTMでありながら後継者指名をうけることができたのであろう。障害のみならずイスラーム圏の部族社会には例外的に男性ジェンダーで育てた女性を指導者にすえるといったことは民俗学レベルでは存在したようだ。そのことはFTMでアラブの男として生きたフランスのジャーナリスト、イザベル・エベラールによって報告されているし、アルバニアの「宣誓処女(Vajza e betuar)も同様である。ラズィーヤのケースも歴史的地理的な広い目でみれば例外ではないのである。


 当初、チャハルガーニー:トルコの貴族もウラマーイスラーム法学者)もラズィーヤの即位を歓迎した。ところが、ラズィーヤが指導者としてすぐれていうことを知ると女性隔離のパルダー制度をいいわけに持ち出し、ラズィーヤの兄フィーローズを後継者にさだめた。ラズィーヤが自分たちの傀儡にならないということに気がついたからである。ラズィーヤはおとなしく退き、この政争のなりゆきを見守ることにした。


★女性・FTMスルタン誕生、そして戦い
 フィーローズが父に指名されなかった理由はすぐに露呈した。彼は実の母、ラズィーヤの継母であるシャー・タルカンのいいなりで、視野狭窄なシャー・タルカンはフィーローズを利用して自分たちの私利私欲、道楽をみたすことのみに権力を利用したのだ。たちまち政治経済は混乱に陥った。民衆の激しい怒りを感じたシャー・タルカンは自分たちの権力を絶対的なものにするためにラズィーヤの兄弟たちの粛清をはじめた。弟の一人の目がつぶされ自身にも生命の危険がおよぶとさとったラズィーヤは決断する。


 1236年11月9日、ラズィーヤは挙兵、フィーローズとシャー・タルカンをとらえ、処刑、五代目スルタンに即位する。フィーローズの治世はわずか7か月であった。そしてそれ以後ラズィーヤはチャハルガーニー、生き延びた自分の兄弟とも戦わなくてはならない宿命を背負うことになった。


 彼女の即位に反対したワズィール(宰相)、ニザームル・ムルク・ジュナイディは貴族たちを見方につけて反乱を起こした。だが、ラズィーヤの政治的軍事的才能には勝てなかった。貴族、兄弟たちとの戦いにあけくれながら一方でそのさわぎに便乗しようとしたラージプートの反乱も鎮圧、法律を制定し秩序を確立、ついに混乱はおさまったかのように思えた。


 しかし、ラズィーヤを追い落とそうとする貴族や兄弟たちにつけこまれないようにラズィーヤは徹底して理想のスルタンを演じなくてはいけなかった。男性の衣装に身をつつみ、狩りを楽しみ、軍を率いて戦場にいき、結果をだす。しかしこれでは問題の解決にはならない。ラズィーヤが考えたのはチャハルガーニーに対抗する勢力をつくりだすことであった。そこでアビシニア人貴族のヤークート・ハーンに目をつけた。ヤークート・ハーンを皮切りに非トルコ系の勢力をつくりだして対抗させようとしたのだ。ところがこれはラズィーヤにとって命取りとなった。


 実はラズィーヤに味方していた貴族のなかには「自分がラズィーヤの夫となって権力を握る」ことを考えていた人たちがいたのだ。彼らの嫉妬がヤークートに向かい、さらにラズィーヤへの憎しみに変わっていったのだ。その中にはかつて一緒に遊んだ幼なじみで、バティンダ知事であるマリク・アルトゥーニアも含まれていた。FTMであり、自分を女性として意識したことがないラズィーヤにとってはまさに「想定外」の展開であった。


★肉体の「性」に殺されたスルタン
 1239年、ラホールとスィルヒンドの反乱を鎮圧するための遠征のときだった。ラホールの反乱をおさえ、スィルヒンドへ向かう途中だった。ヤークートが殺されたとの報が入った。幼なじみのアルトゥーニアが反旗をひるがえしたのだ。ラズィーヤはバティンダでとらえられアルトゥーニアに監禁された。一方ラズィーヤが反乱軍にとらえられたと知ったデリーではラズィーヤの弟バハラームがスルタン即位の宣言をした。アルトゥーニアがラズィーヤにいう。「処刑か、結婚かどちらかを選べ」。


 生きてさえいれば起死回生のチャンスはある。ラズィーヤはそう判断したのだろう。アルトゥーニアとの結婚を選択した。ラズィーヤの夫という大義名分を得たアルトゥーニアはラズィーヤとともにデリー奪還をめざして戦い続ける。だが、1240年10月13日、アルトゥーニアは戦死、ラズィーヤは逃走した。
 翌日身も心も疲れ果てたラズィーヤはわすかな郎党をひきつれてデリーから170Km南下した現ハリヤーナー州カイサルの田園地帯にたどり着いた。


 戦い、戦い、そして戦い、戦い続けて数年。いつになったら戦わずに済むのだろうか。ラズィーヤはその場にくずおれ、つかの間の眠りに落ちようとしていた。その様子を地域の土民がみていた。いわゆる「落ち武者狩り」の連中である。郎党の一人が土民のもつ食料や金品に気が付き、問い詰めた。教えられるままに畑にかけよった。そこには無残にもなぶり殺しにされた一人の戦士の遺体が転がっていた。ラズィーヤであった。最後まで「女性である」ことを気づかれることなく、この世を去った。享年35歳。30歳でスルタンになってからわずか5年を戦いでうめつくした人生であった。


★ラズィーヤの死後、弟たち、そして…
 ラズィーヤの死後、勝利のおたけびをあげたのは弟バハラームであった。チャハルガーニーを見方につけてスルタンになった彼も2年後の1942年に自身の軍隊で暗殺されてしまう。そのあとをついだのはラズィーヤの甥であり兄フィーローズの息子、アッラディン・マスード、しかし娯楽とワインに国費を浪費したその治世も4年しか続かなかった。そしてラズィーヤの末弟ナーシルッディーンがイルトゥミシュ家出身の最後のスルタンとなる。非常にムスリムらしく宗教的に経験で祈りと貧者救済の力をそそいだ彼の治世は20年、1266年まで及んだ。しかし、彼には子がなく、父の時代から仕え、彼の腹心であったバルバンをスルタンに指名する。すでに60歳近い高齢であったバルバンは80歳でこの世をさる20年間に貴族の権力を弱体化し、スルタンの独裁体制を強化した。しかし、ラズィーヤがかつてひきいれた非トルコ系の貴族たちが新しい勢力として台頭していた。そのため、バルバンの後継者である20歳を超えたばかりの孫カイクバードでは、バルバンの独裁政治に反発した貴族たちの反乱をおさえることができなかった。1290年、その中のハルジー族が台頭、カイクバードを殺害してハルジー朝を開き、ここに奴隷王朝は滅亡した。ラズィーヤの死後50年たってのことであった。


ラズィーヤは現オールド・デリーに葬られた。妹の妹のサズィーヤとともに。
そしてハルジー朝の次のトゥグルク朝の庶民の間では聖女として信仰の対象になったと伝わる。


<つづく>