性別越境者でなかったら…肉体の「性」に殺されたスルタン

性別越境者でなかったら…
肉体の「性」に殺されたスルタン


ラズィーヤ・イルトゥミシュ(1205-1240)


★スルターナ―王の妻ではない!
 ラズィーヤを紹介する時にしばしば、「スルターナ」という表現にであう。ラズィーヤは歴史上最初の女性スルターンであり、その死の10年後、わずか3カ月の治世であったが、マムルーク王朝の創始者としてエジプトのジャジャル・アッ・ドゥッルが女性スルターンとして知られている。双方ともスルターナで表現されることがあるが、ラズィーヤ自身は「あくまでスルターンである」と主張していた。スルタン(スルターン)の女性形としてスルターナといわれるが、意味は王の妻であり、王女である。男性形のスルターンは「国王」の意味である。ラズィーヤは自分は「国王」としての男性の役割を果たすのだと認識していた。その意味では古代エジプトのファラオ、ハトシェプストと同じ論理であった。ジャジャル・アッ・ドゥッルの治世が3カ月に終わったのは、マムルーク朝が創始されたのをみたアッバース朝カリフのムスタアスィムが「お前らのところは男がおらんのか?それなら男の統治者を送るけど?」といったために、急きょ退位して結婚、その夫を二代目にすえるという手にでざるをえなかったためである。女性君主である、ただそれだけでムスリムたちの反感がすごいものであった。しかし、ラズィーヤの場合は先に述べた「ふわさしいものがいなければ女性や障害者などの『例外的な存在』がその役割を果たすことができる」という大義名分のもとスルターンの地位を維持しつづけたのである。


しかしスルターンの大義名分とはなにか?ラズィーヤの場合は国の秩序を維持するための防衛と秩序の回復のための治世であった。その結果を出し続ける限りはラズィーヤはスルターンとしての正当性を主張することができる。だが、いったんその正当性にはてなマークがついてしまうとそれは権力と生命の喪失につながる。神権政治がある程度通用したハトシェプストと違ってラズィーヤの場合は「アッラーから与えられた」という大義名分は通用せず世俗的な人気に権力の持続性を依存させていた。そのためにスルターンとして戦いにつぐ戦いに人生を費やさざるを得なかったのだ。ラズィーヤの敵は2つあった。ひとつは国の秩序を破壊する反乱分子、もうひとつはラズィーヤを失敗させ、失脚させようとする「失敗願望の強い」視野狭窄な家臣や兄弟たち。その構図はフランスで英雄となったナポレオンが戦いを重ねて最後に失脚していく構図と同じである。


★「男心」も「女心」もわからない
 しかし輝かしいラズィーヤの人格・知性・業績をみても「間抜け」だと感じるのは転落につながったヤークートへのえこひいきである。そこだけを取り出すとどう考えても一見「頭がいい人の行動」とは思えない。それを「女性であるがゆえの偏愛」ととった研究者もいる。ハトシェプストの研究者にもみられた文化人類学研究で問題視された「心理的なものへの還元主義」である。「ラズィーヤが女性だから」ではない何かがそこにあったと考えるべきである。おそらくある勢力の力をそぐために別の勢力をつくりあげる、という瀬略は正しいし、歴史的に実績のあるものである。それはラズィーヤの父、イルトゥミシュがやってきたことであり、ラズィーヤはその父の戦略を忠実に実行したにすぎない。しかしラズィーヤが犯した失敗というのは「ラズィーヤがFTMであった」ことに由来する失敗ではないか?ということは推察できる。ラズィーヤがどう考えるかが重要ではない。ラズィーヤをとりまく人がラズィーヤをどう解釈したかが問題でそれにラズィーヤが「気付かなかった」ということが大きな問題なのである。


 現代の賢いFTMがこの話を読んだら「ラズィーヤはFTMなのに男心がわからんのか?」と問うであろう。男性がみたら「一人の男をえこひいきしたらそう解釈された当たり前」と思うだろう。女性だったら「二股をうまくかけられない不器用ものやな」と思うだろう。事実ラズィーヤがやった戦略を歴史上成功させた有名な人物は英国の処女王とよばれたエリザベス一世であり、彼女は男心をうまく制御して大英帝国をつくりあげた。それに比較するとラズィーヤの行動はイスラームの男性の女性不信、独占欲・嫉妬の強さを考慮にいれたとしてもあまりに「不器用」としかいいようがない。
 この問題を考えるひとつのヒントがある当事者からひと言であった。「性別越境者は『男の心も女の心もわかる』という神話がある。けれども実は逆じゃないか?男としても女としても深い人間関係を築くことを許されない人生であるがゆえに『男の心も女の心も本当はわからない』というが事実ではないか?」


 それがまさにラズィーヤそのものではないだろうか?ラズィーヤは「信頼してくれている男友達がまさに『男の一人』としてではなく、自分に想いをよせている」なんてことを想像したことすらなかったのではないか?イザベル・エベラールの言葉をかりれば「私がなにものかを知ってそのうえで受容してくれている」と思っていたのではないか?「同じ釜の飯を食った仲」、軍隊のなかで裸のつきあいができていた、と思っていた。なぜならば女性ジェンダーで生きたことがないラズィーヤにとって女性のあり方、女性が男性にどう扱われるかも「未知の世界」であったのだ。女性に対する男性のまなざしの意味、それは女性の中で学ぶものである。たしかに女性として生まれたら本能的に男性を警戒するとはいわれるが、中核群のFTMの場合その皮膚感覚がない場合がある。ラズィーヤがもしも一兵卒であったならば、恐怖心がないことの危険性をいち早くその身で感じること―性的にアプローチをかけられるなど―があるであろうが、なまじ王女という立場、「高嶺の花」であったために男性たちとの間にほどよい距離感ができていたのだろう。それを大前提に男性心理のバランスを崩してしまった、そこにラズィーヤの敗因があった、と考える。


 「自分は男である。人も男だと思っている。だから自分が人から恋慕されるなんてありえない。」そう思っていたとしたらとんでもない認識ミスであろう。同じ時代、日本同じような失策を繰り返した法皇がいた。源平の争乱で有名な後白河法皇である。自分の寵愛した男性を再開した死刑の道に追いやり、平清盛を怒らせ、源義仲義経を破滅させ、源頼朝をして「大天狗」といわせた後白河法皇が最終的には権力も維持し、天命を全うした。せめてそのレベルの人心掌握術は必要だったと思われる。


★FTMと軍隊
 FTMが男性としてのアイデンティティをみたすのに格好のターゲットになるのが、「軍隊・ミリタリーの世界」である。一度はその洗礼をうけたFTMは多いであろう。「軍隊・ミリタリーの世界」を知り、その世界の薫陶をうけるということが「自分が男性である」という大義名分を満たしやすい。そのため、多くの歴史上のFTMの人生と軍事政策の歴史、軍事技術の歴史とはかかわりが深い。ハトシェプストをはじめ、イザベルも、高場乱も、有名な川島芳子もそうであろう。その数多くのFTMたちのなかで突出してFTM=軍隊の統治者=男らしい生き方をつらぬいた、というのがこのラズィーヤなのだ。「平和主義」といわれたハトシェプストの軍事行動は王妃時代のヌビア遠征で、ファラオとなってからはおこなわれていない。ハトシェプストとラズィーヤ、父が先代の王の娘婿であり、軍事的英雄であったという共通点をもつが、残念ながらハトシェプストはその後の行動をみても軍隊のなかでの本格的教育をうけていないのではと思われる。「平和主義」といわれた政策の背景には「軍隊を動かす力がなかった」ことが考えられる。それをハンデと感じてであるのか、後継者であるトトメス3世には若年の時代にはファラオの役割をとりあげ「文武両立」を旨とした教育をほどこした。その教育背景をバックにのちにアジアの都市国家連合軍とのメギドの戦いに勝利し、「エジプトのナポレオン」といわしめたトトメス3世でも戦い初期には「動かぬ軍隊」に泣いた。その点を比較するとラズィーヤは教育環境としてはかなりめぐまれた位置にいたことになる。しかし「軍隊に力のないハンデ」をうまく克服したハトシェプストは22年の政治的混乱のない治世を築きあげたが、軍の動かし方を知っていたラズィーヤは戦いつづけて5年で燃え尽きた。


 男性の理想の人生のスケルトンがある。20代で吸収できる知識を詰め込む。30代でそれを整理して強化する。40代でやっと男の花、自分のやりたいことを行動に移せる。50代で安定期にもっていく。60代で後継を考え、教育をする。イスラームの世界では創始者ムハンマドが亡くなった63歳の死を理想とする。「なにかをやりとげてかつ美しい状態で死ねるからだ」。それによって、その死が美化され伝説になりやすい。これ以上命が伸びると「老い」によるいろいろなリスクが高まると考えられていた。一方でそれよりも命ながびく人は知恵袋と歴史・伝統の継承をになう。


 その点でいくとラズィーヤの早すぎる35歳の死というのはイエス・キリストと同様に「思想だけを残して実質的な政策をうちだし形にするのは短すぎる人生」である。この場合思想をいかした社会システム、しくみの問題はその考えに共鳴した人に依存するため、現在のキリスト教のシステムがイエス・キリストの考えとかい離しているリスクがあるように、多くは当事者の思想とかい離してしまうという問題をクリアすることはできないし、むしろそのほうが人間らしいしくみのあり方ではある。しかしラズィーヤの考えをうけついで50年後にインド・スルターンの世襲制の基礎を築いた。これも相手に学んだわけではないのにハトシェプストの王位継承のプロパガンダ成立と似たところがある。そして現在でもある種の畏敬の念で語られるFTM、いや、異端の女性であることも共通している。それはラズィーヤ自身が意図したものかはわからない。けれども短くも激しい人生に想いを寄せる人が少なくないのも事実である。

<終わり>