FTMの「吉田松蔭」 高場乱(1831-1891)

2002年に書いたものです。<前篇><後篇>構成でしたが、そのまままとめてのせてます。


FTMの「吉田松蔭」
高場乱(1831-1891)

★ 月代のFTM
 それはまったくの偶然であった。図書館で調べものをしているとき、ふと息抜きにと女性の人物名辞典を手にとった。ぱらぱらとめくるうちに女性たちの肖像画の中に、月代を剃ったちょんまげ姿の人物が載っていることに気がついた。これが「高場乱(タカバオサム)」との出会いであった。1997年、私は古代エジプトFTM、ハトシェプストについて記事を書き、大学の卒業論文のテーマにした。私の関心は古代エジプトを中心とした中東地域に向けられており、日本のFTMの情報はもたなかった。まして後世に名を伝えるほどの人物がいたとは想像もしなかった。


 FTMの存在を現代文明の弊害が生み出したと考える人がいる。またFTM本人のなかにもこうした自分を恥じている人がいる。しかし、過去にFTMはいなかったのであろうか。本当にFTMは「いてはならない存在」なのであろうか。「いなかったこと」にされただけではないだろうか。


★ 「玄洋社」と「人参畑塾」
 福岡の「玄洋社」という政治結社を知っている人はいるであろうか。自由民権運動をにない、大アジア主義に基づき、アジア民族の自立した独立を支援した結社で明治・大正を語るには欠かせないが、その思想の性格ゆえに戦後解散し、歴史のかげに隠れてしまった結社である。福岡市民であれば、博多駅前の「人参公園」を知っているだろう。「人参畑のばあさん」を知っている人もいるかも知れない。人参畑のばあさんこそ、「高場乱」であり、「人参公園」近くの住吉神社付近には乱のおこした「人参畑塾」、正式名称は「興志(こうし)塾」があった。「高場乱」はその玄洋社の生みの親と言われた眼科医にして教育者のFTMであった。


 高場乱は1831年、高場正山の次女として現在の福岡市博多区祇園町に生をうけた。異母兄一人を含む7人兄弟ではあるが、成長したのは異母兄義一と長女の姉セン、乱は末子であった。高場家は代々眼科医で福岡藩医をつとめた家系である。乱の幼名は「養命」であった。この名は男性名である。姉のセンが普通の女性名であるから、おそらく父正山が「後継者」として育てようと考えての命名だと考えられる。乱は自分の自由意志として男性として生きたわけではなかった。天保12年(1841年)10歳で元服し、諱名(いみな)を元陽、通称を小刀(しょうとう)といった。のちに改名し、乱が本名となった。


 乱の元服と帯刀は父正山が福岡藩に願い出て正式に認められたものである。つまり、乱が男装するということは公式に承認されたものだったのである。「男尊女卑」、「親に従い、夫に従い、おいては子に従え」の三従を説いた貝原益軒の影響が強かった福岡藩である。これはかなり画期的なことだと思われる。しかし、FTMの男装としては乱が初めてではない。秋月藩(現在の福岡県秋月市)出身の寛永10年(1798)生まれの詩人原采蘋(さいひん)がいた。長身で酒豪、太刀をさした放浪詩人のFTMの采蘋はのちに乱とならんで「学は民生にあり」を教義とした儒学の亀井学派にあって三女傑の一人とされていて、当時著名な人物であった。福岡藩が乱の帯刀を認めた理由の一つにこうした前例があったことがあげられる。


 男性として成長してきた乱であったが、16歳の時、結婚することになった。その理由はわからない。おそらく、異母兄義一、高場雲山が秋月藩医となったことで高場家再興の念願がかなったからであろう。養子を迎えたが、養子の名は伝わっていない。というのはその結婚がわずかな期間で破綻したからである。その理由としては諸説あり、「相手の男性が凡庸すぎて、家を滅ぼすと考えたから」というのがもっともらしい説になっている。しかし、実際は乱が女性ジェンダーに適応できなくなっていたからである。乱はすでに「男装の女傑」として知られていた。FTMで学のある乱を妻とするとなると、男性の側にも相当な器量が必要となる。少なくとも「凡庸なタイプ」ではなかったであろう。当時は同性愛の習慣もあり、それになぞらえれば適応できるという案もあったかもしれない。しかし、乱にとって耐えがたかったのは乱を「女性ジェンダー」でとらえようとする「世間の目」であった。それまで乱の男性としての人生は乱が自ら選んだものではなかった。しかし、離婚を期に乱は医師として学者として「男性」として人生をまっとうすることを自ら「選んだ」のである。20歳前後の時乱は亀井塾の塾生となった。


★ 「興志塾」開塾
 乱は25歳の時、「興志塾」を作った。近代日本の形成にかかわる人物が多くでた有名な長州藩山口県萩市)で松下村塾を開いた吉田松蔭は乱より1歳年上である。彼の門下生の多くは明治政府で多く活躍し、近代日本の基盤を作った。乱の塾からも近代日本の形成にかかわる人物を多く輩出した。アジアの独立支援に目を向けた頭山満(とうやまみつる)をはじめとする「玄洋社」創立の三巨頭、箱田六輔(はこだろくすけ)、平岡浩太郎(ひらおかこうたろう)、「福岡の変」の首謀者越知彦四郎(おちひこしろう)と武部小四郎(たけべこしろう)、大隈重信暗殺未遂事件のテロリスト、来島恒喜(くるしまつねき)、玄洋社二代目社長、進藤喜平太(しんどうきへいた)、父が玄洋社社員杉山茂丸(すぎやましげまる)であった心理小説作家の夢野久作が親炙し記録を残した影の功績者、奈良原至(ならはらいたる)、その意味で高場乱は「FTMの吉田松蔭」といっても過言ではない。吉田松蔭の教え子が歴史の表舞台で活躍したというならば、乱の教え子はそのアンチテーゼとして歴史の裏舞台で活躍した。しかし、何が医者であった乱に教育者としての道を選ばせたのか。ここで乱の生きた時代背景を説明しないとならないだろう。乱が青春時代をすごした幕末期、1953年の黒船の来航以来、尊王攘夷論が起こっていた。天皇を中心とした政治体制で外国勢力を追い払おうという尊皇攘夷派である長州藩と、朝廷と幕府が合体して政局の安定をはかろうとする公武合体派である薩摩・会津の争いで多くの政変が相次ぐ中で、福岡藩は「外国の近代化においつくための開国」「国内での争いゆえの国力の消耗を防ぐ」という2つの基本姿勢によって、政策を貫いてきた。福岡藩の教育水準は高く、幕府派にも勤皇派にも優秀な人物が多くいた。しかし、福岡藩は政策の基本をつらぬこうとしたが理解されず、幕末においては幕府よる弾圧で(乙丑の獄等)多くの勤皇の志士を失い、明治維新によっては幕府側とみなされ弾圧をうけ、そのために多くの有為の人材を失った。


 そうした時代の激動のなか、当然乱自身も時代の影響をうけないはずがない。ほかの勤皇志士達と同じように乱もまた京都に上って活躍したかったのだ。ところが、それをやるのはあまりに障害が大きかった。まず、乱は虚弱体質であった。さらにFTMとしてみても乱は「パスできない体」だったのだ。先輩のFTMの原采蘋が「放浪詩人」でいられたのは長身で大柄、屈強な身体で容易に男性としてパスできたからである。しかし、乱は違った。男装をしているが、肩幅、背格好で女性とわかり、中傷されたことや攻撃されたこともある。女性の旅行が危険だった時代である。ほかの志士たちと同じように行動するのが難しいことは誰よりも乱自身がわかっていた。自分の気持ちとそれを絶望させる自分の肉体との葛藤のなか、乱の苦悩を救ったのは管子の「百年の計は人を養うにあり」という一句であった。これによって高場乱は生涯福岡の地で人材を育成することに専念することになる。乱の教育は主に「漢学」が中心であった。「論語」や「孟子」をはじめする儒学から、「史記」や「水滸伝」にいたる英雄や豪傑の物語、はみ出しものの乱暴者が多かった乱の弟子たちにそのエネルギーを英雄や豪傑としての生き方に向けるように尽力した。



★ 「福岡の変」
 1868年待ち望んだ明治新政府が成立、五箇条の御誓文が発令されると、乱は塾生達にこれを熟読、精読させた。ところが新政府の政策はこれと矛盾するものであった。維新後の改革でもっとも打撃をうけたのは士族達であり、新政府の重要な職務は長州藩出身のものでしめられ、新政府樹立に功をなした士族達にもむくいはなかった。1873年征韓論争に終止符をうった西郷隆盛板垣退助江藤新平らの征韓論参議が下野した。翌年1874年から、佐賀の乱をはじめとして福岡の秋月党の乱、萩の前原一誠の乱、1877年には西郷隆盛によって士族最後の戦争「西南戦争」が勃発した。


 「梁山泊」「豪傑塾」「腕白院」ともいわれた乱の塾の塾生は世の中のはみ出し者が多く、血気盛んな彼らがこうした矛盾に黙っているはずがなかった。門下生の越知彦四郎と武部小四郎は板垣退助と手を結び新政府に対抗しようと考えた。しかし板垣の裏切りにより、門下生の多くが武力蜂起を目的とした政治結社を結成し、高場乱の塾を離れた。乱に迷惑がかからぬようにという配慮からであった。その中にはのちの玄洋社を結成した頭山満がいた。頭山満萩の乱にあわせて武力行使を準備中にことが発覚、山口の獄に投じられる。そして西南戦争に呼応して越知彦四郎と武部小四郎は「福岡の変」を起こし、敗退した。「福岡の変」の記録は現在あまり残っていない。しかし、犠牲者は100人以上、懲役者は400人以上、福岡の働き盛りの青年500人が福岡の町から姿を消した。それほどの大事件であった。乱も自宅で逮捕され、投獄された。47歳のときである。あくまで乱が扇動したと言いはる官憲を乱はやりこめ、釈放されたが、首謀者の越知彦四郎と武部小四郎は刑死した。



★ 結社「玄洋社」そして頭山満と来島恒喜
 高場乱の名が後世に伝わったのは弟子に頭山満がいたことが大きいであろう。高場乱と頭山満の出会いは1874年、頭山19歳、乱43歳であった。目をわずらった頭山が乱の医院にきて塾生達に魅了され、入門をこうたのである。乱は断ったが、頭山は無理に入門し、塾生達の信頼を得た。山口の獄のあと、釈放された頭山達は1878年大久保利通の暗殺の報を聞き、板垣退助のもとへ行く。そこで自由民権の思想に感化され、高知県立志社をまねた向陽社をつくり、教育機関や法律相談所を設けて多様な活動をした。乱は講師として迎えられた。活動のひとつに国会開設要求があった。国会開設の内容をめぐって対立していた乱の門下生である箱田六輔、平岡浩太郎が「向陽」の社名をめぐってさらに対立を深めた。乱は両者を仲裁する手紙を書いた。高場乱は「玄洋社の生みの親」と呼ばれる所以はここに発している。


 玄洋社は箱田六輔のもとで、一時は板垣退助立志社をしのぐほど力をつけた時期があった。ところが、自由民権の結社の7社の合同大会の時、頭山満が勤皇党の佐々を同席させたことから状況は一変した。頭山は箱田をつれてその場をさり、その日から自由民権の先駆者だった玄洋社は勤皇主義へと思想を変え、このことが心労となったのか、箱田は39歳の生涯を閉じた。この思想の転換の背景には明治維新以後の退廃的な政府のあり方にあった。国会開設、憲法の制定という近代日本の形が出来つつなる中、乱の弟子達の悲願は「不平等条約」の改正にあった。条約改正はたびたび失敗し、井上馨外務卿の時、鹿鳴館に代表される極端な欧化政策をとったため、世論の反感を受けていた。1889年、あとをついだ大隈重信は個々の外国と交渉し、条約改正に挑んでいた。ところが大隈重信の条約改正案に「日本の裁判所に外国人判事をおく」という条件が含まれていたことが大きな波紋を呼んだ。玄洋社の志士達は反対運動をはじめた。1889年10月19日、条約改正案は大隈重信の足とともに吹き飛んだ。爆弾テロであった。犯人は乱の教え子の一人、来島恒喜であった。来島一人で考えて行った犯行だった。来島はその場で首をかき切って自害した。条約改正はつぶれたため来島の悲願は達成した。この事件でほとんどの玄洋社の社員が逮捕された。


 「なからえて明治の年の秋なから心にあらぬ月をみるかな」。乱が来島の死をいたみ、弟子の一人に送った手紙である。「匹夫の勇に落ち」と書いてある。「匹夫の勇」とは「教養がなく腕力に頼るおろかな勇気」のことである。乱は身体的な理由があってあえて「教育」という手段を使って、戦うことを決めた。しかし、教え子達は次々と若い命を絶っていく。自分のやってきた教育はこれでよかったのであろうか。幕末、明治と激動の時代を生き抜いた自分は何をなしてきたというのか。乱は葛藤や悲しみを常に感じていたに違いない。1891年3月31日、来島の死から1年半後、高場乱は59歳の生涯を閉じた。病に倒れても薬を一切使わず、弟子達にさすられながらの静かな死であった。葬儀には福岡市中の500人近くが集まった。墓碑銘は勝海舟が書いた。学友の阪牧周平が文を書いた。県庁の近くに崇福寺がある。そこに乱は弟子の頭山と来島と並んで眠っている。

 
★ FTMを超えたものー武士のたましい
 高場乱について特筆しなければならないことは、 FTMである乱を尊敬し、敬愛してきた人たちがすべてセクシャルマイノリティに理解のある寛大な背景をもつ人たちではなかったということである。むしろ現代でいえば FTM=「女が男として生きている」と聞いただけで背徳的なイメージをもち、まゆをひそめてしまうような男尊女卑という観点において最右翼に属する人たちだったのである。乱は自分の養子応(こたう)には自分を父とよばせ、孫には祖父とよばせた。そしてそのことを周囲の人は「自然なこと」として受け止めてきたのである。それは乱が「肉体的に女性」であることよりも乱の哲学からくる精神性がその肉体を越えて認められたということであろう。乱の塾には他の塾では教育しきれない問題児達があつまってきた。彼らがひかれたものは乱の武士としての精神性とその豪傑さであった。


 高場の有名な弟子である頭山満は回想していったという。「自分が高場塾にきたときは自分の人格が出来ていたため、学ぶものはなかった。」しかし、「高場塾は修養道場である」とも語っている。頭山満が高場塾で得たものはともに政治を憂い日本にとって何が必要かをいっしょに考え、ともに行動する仲間であった。いかに玄洋社をつくった頭山満が巨匠としての才能をもっていても、それを盛り上げていく仲間やその仲間の人格形成にかかわった高場乱の存在がなければかなわなかったとこであろう。ところで高場乱の教育理論や理念はどのようなものであったのであろうか


  16歳から 30歳で刑死するまで 65件の著作を残した吉田松蔭と違って乱は自らの教育理論や理念を書籍としてあらわすことはしなかった。著作がない。日記も残っていない。乱の思想を知りうる手段は乱の人生史、弟子たちが語るエピソードや弟子達の人生、乱が出した書簡の数々や塾の方針など資料から構築して探しだすしかない。しかしその作業も厄介である。と、いうのは現代の FTMが直面しがちな問題と同じように、乱が FTMであることに第三者の関心が向かってしまい「男装の女性」としての興味本位のエピソードも多いからである。そのために一日の生活スタイルから行動パターン、交友パターンや衣食住のあり方まで高場の私生活のかなり細部にいたるまでのエピソードが残っている一方、その後の歴史のプロセスや当時の価値観によって乱とその弟子たちが偏見によるかたよった視点でつたえられているケースもあるため、乱の真の姿、思想をとらえるのが非常に難しくなっている。高場乱の人生は「 FTMであること」が優先しているわけではない。「 FTMであること」は高場乱という人間の要素の一つでしかなく、「 FTMであること」が乱の人生をすべて形つくっているわけではない。しかし、 FTMに限らず、性同一性障害当事者の多様性を生みだしているものは、性同一性障害当事者本人が生まれでてから接触する歴史的、社会的、文化的環境の要因である。それは個人の中にも内在し、こうした外的環境、内面的環境から個人が自由になることはない。人間の多様性というものは外的環境、内面的環境から個人性の相互関係によってつくりだされるものである。したがって、「 FTMである高場乱」という一人の人間の要素が周囲に知られていたとなれば、その相互関係による結果が人生史やエピソードの中に含まれてくるはずで、高場乱の人生の周辺をさぐることによって著作がなかったとしてもある程度までは教育理論や理念が見えてくるであろう。



★ 乱を生んだものーそして玄洋社解散
 乱の教育思想原点は青春時代を過ごした亀井塾には「三女傑」と称される三名の「女性」がいた。乱もその一人である。一人は詩人の原采蘋、もう一人は乱の同時期の亀井少?(かめいしょうきん)であった。亀井少?は乱の師匠の妹にあたる。亀井少?以外は FTMとして知られている。当時女性は学問の場に入れないという風潮があったため、比較的 FTMのほうが入りやすい、もしくは学問のために FTMとして装うという考えもあったかも知れない。しかし、それ以上に重要なのは亀井塾「三女傑」がいるということは亀井塾の側に女性を受け入れる背景があったということである。儒学とはいっても亀井塾の風潮は儒学的な価値観を押し付けることはせず、非儒学的な人間性をも容認していた。自派の学説に固執しない柔軟さをもち、学説や学統の世襲を批判し、弟子たちの才能を偏見なく伸ばす教育方針をとっていた。学問の儒学にこだわらず自主的な研究を重んじた。乱の教養は儒学だけでなく、老荘思想や仏教にも通じていた。それにはこうした亀井塾の柔軟性にもあったと思われる。


 興志塾での乱の授業も亀井派のやり方を踏襲し、印刷した本は使わず、すべて手で書写させた。そして授業の内容は大意を説くだけであとの細部は弟子たちの自主研究になった。弟子たちは他の塾では入塾を断られるほどの乱暴な少年が多かった。しかし、乱はそんな少年達を愛し、決して頭ごなしに矯正するようなことはなかった。むしろ若い子は行き過ぎがあるぐらいエネルギーがないと国をまかせるほどの力のある人材に育たないと考えていたのかもしれない。型にはめて萎縮した人間よりも型破り、型にはまることのない人間性を愛した。普段は弟子たちと冗談をいいあう仲であったがひとたび授業に入るとその熱意は相当なものであった。書物を前においているが決してみることはなく、三時間連続で講義をしても疲れをみせることがなかったという。乱は決して理屈で教えようとはしなかった。通俗小説等を使って身体感覚で教えようとした。その結果興志塾は死をも恐れぬ壮士、志士を生み出したのである。乱の弟子、というだけで福岡の町の人は恐れをなしたという。


 乱の死の前年に頭山満たちが望んだ国会が開設された。第一回の選挙で福岡県では玄洋社議席の半数以上を占めた。ところが翌年には海軍国防予算拡大案をめぐって国会が混乱、解散してしまう。時の総理、松方正義の要求により頭山満は全国の結社に呼びかけ、福岡県で 80%の議席を占めるが全国的には負け、総辞職となる。この選挙干渉により玄洋社に対する悪評が各地に広がった。以後、玄洋社は国会からは手を引き、大アジア主義にもとづいてアジア独立運動の支援を行うようになる。玄洋社が支援した人物は、韓国の政治家、金玉均をはじめとして、中国の孫文汪兆銘、インドのビハリ・ボースなど、はてはフィリピン、ヴェトナム、アフガニスタン、トルコ、ロシア、ポーランドの亡命者をも支援した。日露戦争を提唱し、シベリア出兵には反対、日中戦争の平和的解決のために活動した社員もいれば一方で、東学党の乱や李氏朝鮮閔妃殺害事件に関与するなどの負の歴史を背負った社員もいる。日本政府の意向に協力するときもあれは、アンチテーゼとして対立するときもある。玄洋社に対するイメージはそのことから発するものであろう。


 現在、福岡の町に玄洋社の史跡は大きく宣伝されていない。町の片隅にかつてあったという証拠の碑文が残されているだけである。昭和 21年( 1946年)、戦後の日本に赴任した連合軍総司令官マッカーサー元帥は日本政府に二つの重大な指令を与えた。戦争指導者の公職追放と、超国家主義団体の結社・活動を禁止することであった。この指令の立案に大きな影響を及ぼしたのがカナダ人の E・ H・ノーマンであった。外国人であるノーマンの眼には玄洋社は欧米のフリーメーソンKKKなどの秘密結社のイメージでとらえられた。昭和 21年 1月 5日、ノーマンの調査リストにより玄洋社は 67年の歴史を終えた。高場乱の愛弟子の頭山満玄洋社の終焉を見ることなく昭和 19年( 1944年)十月、富士山麓で波乱に満ちた生涯を 90歳で終えた。



★ <性教育装置>としての近代学校
 明治時代の FTMは高場乱だけではなかった。もちろん、原采蘋もそうであるが、 FTMは福岡県以外にも存在した。有名なのはのちに東京美術学校(のちの東京芸術大学)の創設者岡倉天心の少年時代の師匠で現在の東京上野のアメヤ横丁に画塾を開いていた FTM、奥原晴湖(おくはらせいこ)である。著名でなかったとしても学問のためにもぐりこんでいるのを発見された FTMもいるし、もしかしたらその数倍は FTMとして気づかれずに生活したFTMもいるだろう。幕末から明治にかけて多く存在しているようにみえる。それだけ女性が活動しにくかった時代であることの裏返しだろう。しかし、それだけではないであろう。当時は今にくらべて「無条件に」というわけではないにしろ、 FTMMTF、同性愛は現在より存在しやすかったのではないか。興志塾の塾則に同性愛に関するものがある。「恋童ヲ禁ス」。これは乱が同性愛に偏見があったというわけではない。むしろ同性愛が公認されていたからこそ、このような規則が出来るのである。明治時代における同性愛の風潮は1880年代から 90年代にかけて盛り上がったといわれる。鹿児島出身兵士の少年愛の風習が首都圏に流行したためらしい。欧化政策の一環として、 1873年に男色を犯罪とする法律を作ったが効果はなく、 1883年に廃止、刑法 253条の「十六歳以下の男女に対する放蕩、堕落の助長」に禁固 6ヶ月ないしは 2円から 20円の罰金刑というものに変わったが、なにも効果がなかったほどである。乱が塾での同性愛を禁じたのは同性愛が刃傷ざたになるからである。一時は若い男性が夜外を歩くのが危険と報じられたほどであった。



 「<性教育装置>としての近代学校 」[1]という論文がある。これは学制期から 1930年代の教育雑誌を資料として男女共学・別学理論を研究した論文である。この論文で堀氏は現在でも学校は「<性教育装置>としての近代学校」であり、ジェンダー化された異性愛主体でしかありえないという。そしてその目的を果たすために 1870年代は性別差異的なカリキュラムを遂行したという。明治政府は「性別によって学校を区別しているかどうか。」に視点を置いていて、 1887年の別学論者に意見によれば共学が危険な理由として「異なる性質の男女が影響しあえば、男児の女性化、女児の男性化が起こる危険がある」としている。共学論者の意見にしても「男女共学によってむしろ互いの性の相違を知り、自分の性を知ることができる」という意見である。つまり、別学か共学か、の理論は望ましい男性・女性を教育するために「西欧風」にするか、「国風」にするかという意見の相違だけで、身体性にあわせた「望ましいアイデンティティ」を形成するための教育方法論であり、トランスジェンダーが自分のアイデンティティにもとづいて教育を受けることが出来ないシステムであった。教育はすべて近代の学校制度の中にくみこまれ、トランスジェンダーFTM/MTFとして教育を受けることはできなくなった。第二次世界大戦中には一部の県では国民学校の中に男女組というクラスがあり、 MTFやそういう傾向のある男子や虚弱体質の男子がすべて囲い込まれたという話がある。


 徹底したジェンダー化教育の結果、明治政府以後第二、第三の高場乱、原采蘋、奥原晴湖等の教育者・学者タイプの FTMは出てこなかった。 FTMたちは家族の庇護のもとで生きるか、家族をすて、裏社会へ流れていくか、演劇などの芸術の世界で昇華するか、 FTMであることをばれないように生きるかもしくは FTMであることを隠すか、場合によっては死を選ぶか。もしくは女性解放運動の流れに便乗するか。いずれにしても明確に著名な FTMとして社会の表舞台で活躍することはなくなった。次に日本史史上で有名な FTMの登場としては昭和の川嶋芳子(義男)の登場を待つことになるが、それさえも当初から「男の人生」を選ぶことが可能であったわけではなく、また FTMとして受け入れらたわけではない。


 現在の性同一性障害者はアイデンティティを守るために幼少のころから登校拒否や非行、退学処分等によって教育機会を放棄せざるを得ない状況に追い込まれているケースが多く、高学歴でない場合が多い。また、たとえ高学歴を得られたとしても心的外傷と人生の歴史的プロセスが現在の生活を破壊してしまう結果を招くケースが多いので幼少時代、学業時代を「語れない過去・忘れたい過去」として封印する。「自分は FTM/MTFである」と宣言して生きることは 1996年の埼玉医大の答申以来と現在の「ジェンダーフリー」という考えにより比較的やりやすくなったとはいえ、完全に男性 /女性のアイデンティティを保証するものでなく、生活や人生計画にとってまだまだ危険が多い。それゆえに現在の当事者の人生は「自分が生き延びる」ことに全エネルギーがそそがれるため、社会的な広い視野を得にくく、そのことが第三者の偏見につながりやすいのも事実である。しかし、 100年前には 100年後という視野をもった日本の歴史にかかわった FTMが存在した。たしかに高場乱をはじめとする玄洋社の歴史はまだ研究段階でなぞの部分も多い。しかし、乱の人生はたとえ隠れてはいても胸をはって生きることの大切さを教えてくれる。(終)



[1] <性教育装置>としての近代学校
―戦前日本における男女共学論・別学論の分析を手がかりに
ー 堀 健志 1997東京大学教育学研究科紀要第37