流浪のFTMトランスジェンダー、イザベル・エベラール


流浪のFTMトランスジェンダー
イザベル・エベラール(1877-1904)


砂漠の女

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The Oblivion Seekers and Other Stories

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★「非常に純化されたFTMトランスジェンダー
 イザベル・エベラールというFTMはひと言でいうと「非常に純化されたFTMトランスジェンダーである」と考える。そのように書くと読者は違和感を感じるであろう。2010年現在、トランスジェンダーのイメージは性別越境者ではなく、医学的文脈での解釈、すなわち性同一性障害と同一視されがちであるからである。性同一性障害の場合は教科書どおりの解釈でいけばFTMであれば「女性」であるという性自認をもたない。たとえ身体が女性であり、法的身分も女性に区別されている現実を自覚していても、である。そのため、「性別を超えている=性別越境者」という皮膚感覚をもつことは少なく、むしろ「障害を受け入れて解決して楽にしていく=あるべき姿に戻る」と感じている。第三者的な目でみると「どちらも同じ」ようにみえるが、「障害に立ち向かう」という動機の面においてこれはかなり大きな差である。こうした「男であるべき女性の体をもつ障害者」=FTMという価値基準でイザベルをみると理解不能な状態に陥る。「いったいこの人は『男であるべき』とはどのように理解しているのだろうか?」「この人の性自認は男?女?」「性的志向は?」などである。


 イザベルの神話の一つに「レズビアン」というものがある。しかしこれは真っ先に否定される。しかしこれはイザベルのFTMとしての生き方をレズビアニズム、「女が女を愛する」ということに対する防衛的な意味での男装と考えたことによる偏見である。イザベルに「女性の恋人はいない」。いないどころか、女性に対して観察することはあっても一線を引いて特別な場面以外では接触しないように心がけている。「女を愛するから男である」という論理はここで否定される。


 さらに混乱におちいるポイントは「男性の恋人をもち、結婚もしていた」、という事実である。身体的に女性であることの違和感がなく、むしろそれを楽しんでいたようだ。さらに紀行文を読むと「自分が女性である」ということに肯定感をもっていることがわかる。先述した「私はシーディ・マフムードであり、そう扱われ続けているから」という「女性」を起点においた思考回路、またイザベルが小耳にはさんだ外人部隊の兵士の下品で愛すべき自分に対する陰口、「あのスパイのやつ、グラマーだね。デリケートな皮膚をしてやがる!」(「南部への帰還」P391)を書き留めておく寛容性、つまりここで性同一性障害、「私は男だ」と思っているわけではないこともわかる。


 では有名な初期フェミニストであり、フランス人作家である社会活動家ジョルジュ・サンドの伝統をくむフェミニズムを背景にした行動か?と問うと、後述するようにフェミニズムに対しても非常にクールで突き放した態度をとり続けている。フェミニズムとしての思想と性別越境という行動には関連性がないと読むことができる。


 イザベルが一貫してFTMトランスジェンダーを貫き通した唯一の規範、それは「女性のジェンダー規範の領域に足を踏み入れない」ということであった。性生活と性自認は「女性」と認識していたとしても社会的には「男性」としての規範を厳しく守っていた。むしろ初期のころには「女性」とリードされない、ということに非常に神経を配っていた。あくまで男性として「パス」しなければならない、ということにジェンダーの規範を置いていたのである。もちろん「女性として育てられた経験がない」し、その面は父が厳しくしつけた面もあるが、かといって「女性に戻ろう」と考えたことも一度もなかった。ジェンダーを越境してぶれることがない。ただただその意味でイザベルは純粋なFTMトランスジェンダーであり、そして歴史上おそらくはじめて自らの言葉でそれを語ってのけたFTMであった。レズビアンでないのだから「女性を愛するべきだ」などありえない。性同一性障害でないのだから「男を性的に受け入れるはずがない」などありえない。FTMゲイ=「FTMであるが『男として男に性的志向を持つ』」という言葉があるが、たとえその言葉を知っていたとしても「違う」と答えたであろう。あくまで「マフムード・シーディという男である」という基準は男性として日々の生活を送っている、ただそれだけであった。


イスラーム世界での性別越境者
「スースでは私は本当はどのような人間であるのか、誰も知らない。そこでのただ一人の友、原住民歩兵部隊の中尉、アブ・デル・ハリーム・エル・アラビーでさえも」(「放浪」P87)


「よく来たね、シーディ・マフムード」彼はそういってイスラム式の兄弟の抱擁をかわした・・・私が女だなどと彼は考えもつかないのだ!」(「放浪」P88)


 1899年22歳当時のイザベルが自分が男性としてパスしていることに疑いを感じることがなく、むしろ男性として埋没することで得られる「特権」のようなものを楽しんでいたふしがある。しかし1903年の26歳の「南部への帰還」においてはマフムードは実は女性であると気がついたとしてもあくまでそこを追求することはイスラームの礼儀に反することとしてイザベルが「ばれた!」と感じないようにふるまう、そんな男友達戦友たちの心遣いに感謝する記述がみられる。そしてイザベルもまたそのような友の気遣いに気付かないふりをして男性としての行動規範を守ることで礼節に答えようとする。


 「放浪」と「南部への帰還」の4年の間にある「埋没」ということに対する心境の変化というのは1901年におこった自身への暗殺未遂事件がきっかけだっただろう。ジャンヌ・ダルクがかつてそうされたようにイザベルも裁判でFTMトランスジェンダーであることを批判されたのだ。もちろん事件のせいで(おそらく「女性である」とのアウティングにつながったのだと思うが)、永遠の住処にしたかったエル・ヴェードの住民との関係も微妙なものとなり、居場所のない強烈な孤独を感じたのだろう。しかし見捨てるものあれば拾う神あり、インシャラーというべきか、イスラームの寛容性が徹底的に発揮されたというべきか、正体を知っていたスリーマンをはじめ、イザベルをうけいれた多くの戦友の友情を確認することとなり、あらためてFTMトランスジェンダーである、ただそれだけで石をなげつけるような欧米の偏狭な価値観と違い、ただ個人を認めてうけいれるイスラームの価値観を発見し、感動した、その想いが「南部への帰還」に表れているのだろう。


 しかし筆者個人的に「もう少し内容を深めてほしかった、残念だ」と感じる重要な記述が「南部への帰還」には存在する。


「アブゥ・ベルク氏は、私がどんな人間であるか完璧に承知していた。私の話を知っており、このケースを注意深く吟味した後、私のような生き方を認めた・・・」(「南部への帰還」P172)


 わずかにかかれたこの一文はイスラーム法学の視点では極めて重要な意味をもつ。「 このケースを注意深く吟味した後、私のような生き方を認めた」というのはすなわち、イザベルの性別越境という行為がイスラーム法にてらして「ハラル」=OKであるかどうか、判断された、ということだ。アブゥ・ベルク氏はブゥ・サアダにおける大聖人(マラブ―)の代理人イスラーム法や慣習に通じていた。イスラーム世界ではイスラームそのものがすべての価値観の上位に位置する。西洋社会における自然法イスラームなのである。人間が勝手に判断してつくる慣習や法よりも優先されるため、たとえ日本国憲法がある行為を許したとしてもイスラームでは許さないという場合にはイスラームの法が優先される。イスラームの法の手続きにもいろいろなものがあり、今イスラーム法学の世界で注目されているのは「イジュティハード」の問題である。これはクルアーンやスンナといった法源に独立した解釈を行うことで立法を行う方法である。この手続きは10世紀に封印された、とされていてそのために新しい法解釈ができないとされている。そのためにイスラーム世界の法は伝統主義のこう着したものとなり、時代遅れのものになりがちで社会の発展をさまたげ、イスラーム本来の柔軟性・臨機応変性を失っていると考えられている。


 クルアーンやスンナには性別越境者、性同一性障害の問題に言及するものはない。ハーレム(女性部屋)にはいった女装のスパイを追い出す記述はあったとしてもエジプト・アズハルの解釈では「スパイ行為自体が問題で性別越境ではない」との見解である。一方でマレーシアのイスラームではそれをもとに「性別越境、性同一性障害」にNGを出している見解もある。そのため現在のイスラームの性別越境者、性同一性障害の問題は イジュティハードによって導き出されたのでは?という見方もあり、筆者自身も2003年の論文にはそのように書いたがいまだ不明な面が多い。


 もしもイザベルがギリシャヘロドトスが「眉つばなネタ」でもかきとめたように、その手続きを描写してくれていたら、トランスジェンダーの歴史のみならずイスラーム法学の面でも貢献し、ルース・ベネディクトやマーガレット・ミードに名を並べたかもしれない。しかし大学の研究手法を学んでおらずあくまでジャーナリスト兼スパイであった20代半ばのイザベルにそこまで期待するのは酷かもしれない。ただ、想像するにおそらく筆者がイスラームの性別越境者をみてきたように全世界的に金太郎あめを切るようなファトワー(法的見解)の一致から考えて、「女性のジェンダー規範の領域に足を踏み入れない」、つまり「ハレムに入らない」規範を守り通す、この一点において承認されたと思われる。


★イザベルの「女性観」
 「ヨーロッパの若い女性のきちんとした身なりでは、私は決して何も見ることができなかっただろう。(略)私は人々の生活の中に潜り込み、群衆の波が私の上を流れていくのを感じ、人の流れの中に身を浸すのが好きだ。」(「放浪」P107)


 イザベルの女性観についてみてみよう。多くのFTMが言及するように「女ごころなんかわかんねーよ!」的記述が「南部への帰還」に見られる。また逆に「女には私の気持ちはわかんねーよ!」的記述も同時にみられる。しかし一方で全紀行文を通して、生物学的男性であれば「バカの壁」で封印してしまうような女性に対してある種の温かいまなざしが向けられていることも確かである。


バリュカンによる修復がはいっているが、このような記述がある。これを読むと 100年後の女性を姿を予言している?とも見え、正直驚く。


「女たちは私を理解できない。彼女たちは、私を奇妙な存在として見なしている。(略)女性は男性の仲間となり、その愛玩物となるのを止めた時から、別の生を生き始めるだろう。(略)新しい世代が告げられ、若い娘たちの中には、目以外でも語ることができるが、それでも講演や社会的権利の要求という饒舌には陥ることのないものが出てきているようだと言われている。が、私は、そんなこと全く信じていないし、そこにもまた、サロンの調子に逆らうことのない欺瞞的教育があるように思う。(「南部への帰還」P451)」


 「愛玩物となるのを止めた時から、別の生を生き始めるだろう。」これはまさに現代の肉食女子と呼ばれているような女性たちの生き方ではないか?当たり前のように講演会を開いて当たり前のように政策を論じて男性と対等に話をしていく。女性には生物学的な限界があるという当時の欧米諸国の価値基準に対してイザベルは冷静にNOを突き付ける。「私が特別なのではない。それは女性であっても誰もが本来もっている能力だ。」そのように考えていると思われる。「ヨーロッパの若い女性のきちんとした身なり」、人の中に紛れ込むにはあまりにも目立ちすぎるその容姿でかえって女性はものをよく見られなくなってしまうのだ。その点私のFTMという生きかたは快適で私にあっている。ただひとつの深刻な欠点、「誰にも理解されない孤独」という一点を除いては―。


デカダンス〜退廃の時代
 最後にイザベルをめぐる文化的背景にも言及しておこう。晩年は大麻と官能におぼれ、心身のバランスを崩していた、とされるイザベル。誰にも理解されない流浪のFTMトランスジェンダーという性格上、イザベルの人生は「不幸」という文脈で理解されてしまう。実際精神的にデリケートで不安定なFTMトランスジェンダーのあり方はそのような生き方を「女性として不幸である」とくくりがちになる。たしかにイザベルのようなタイプのFTMトランスジェンダーと含む広義のトランスジェンダーにとって「なぜ不幸な生き方が多くなるのか」という問いの答えは「生きるための負担が多すぎる」ただ、その一言が原因である。イザベルの紀行文に垣間見える「異端者へのまなざし」「死の世界への誘惑」「血と硝煙のにおい」、敬虔なイスラーム教徒でありながら部族の「ジャーヒリーヤ」的な価値観への憧れ、そして「死」による永遠の眠り。18歳処女作で女性の死体と性交するというネクロフィリアの世界を描いていることで、FTMトランスジェンダーの特異性にとらわれて一般読者は「ぎょ!」としてしまうのだろうが、実はそれは「当時のはやり」であったという背景を忘れてはならない。


 ちょうどイザベルが青春時代をすごした時期というのは世紀末の退廃、「デカダンス」の時代であった。キリスト教的な価値観に懐疑的になり、「神は死んだ」と宣言したニーチェがヨーロッパ全体がニヒリズムにおちいって「現実逃避」をしていると指摘した時代である。文化的にはゴシック的なものが好まれ、フランスのボードレールランボーヴェルレーヌ、イギリスのワイルドなどがはやったのもこの時期で日本ではやはり破壊的な人格障害に悩んだ中原中也が翻訳して紹介した。今では子供むけのSFの先駆けとされる「ふしぎの海のナディア」の元ネタ?とされた「海底二万里」の作者ジュール・ヴェルヌでさえ、エドガー・ランポーに憧れ、当初は退廃的な小説を書き、売るために作風の大改造をよぎなくされたという逸話があるほどである。


 イザベルの退廃と官能もこうした時代的社会的背景の影響であることを見逃してはならない。イザベルの弱さ、というよりはむしろ周囲の男友達、戦友たちでさえそのようであったのだろう。まさにムハンマドイスラームをおこす前のジャーヒリーヤ時代、死と隣り合わせでせつな的に生きて神のめぐみをうたう。力あるものに虐げられていく弱いものたちに対するまなざしと何もできない無力さ。列強の不条理に対する怒り。そして晩年には任務のためとはいえ、砂漠の僧院にひきこもって内面世界を充実させたことで精神的生命力を回復させ、「南部からの帰還」のラストは病に倒れての闘病、そしてアインセフラへの旅立ち、「長い亡命生活」という言葉が見える。けだるい体を引きずりながらもイザベルには何か「未来を生きる」計画があったのだろう。しかしそれは実現することはなかった。


 イスラームの墓地事情のため、100年後の我々がイザベルの眠る場所を探すのは不可能だろう。しかし突然の死で中断され長い間出版されることのなかったこの最後の紀行文「南部への帰還 第2部」はイザベルの死後2年の1906年に出版された。そしてその内容は遊牧民世界のフィールドワークの記録としても今でも楽しめるものになっている。



<おわり>