ジャンヌ・ダルク

2000年ごろに「歴史の中のトランスジェンダー」読者のリクエストで書いたものです。書いている私も非常に楽しめました。


「男装は犯罪!?」
ジャンヌ・ダルクの奇跡と悲劇を探る
ジャンヌ・ダルク(AC1411年ー1431年)


ジャンヌ・ダルク [DVD]

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★はじめに
 トランスジェンダーの「男装・女装」を考えるとき、真っ先に浮かぶのはジャンヌ・ダルクであろう。フランスの危機を救った少女として脚光を浴びながら、そのわずか二年後には「魔女」として、火刑にされる、という悲劇は今なお多くの人々の関心を呼び、あらゆる視点で、描かれてきた。99年に公開されているリュック・ベッソン監督の「ジャンヌ・ダルク」もこうした作品の一つである。


 ところでGIDの人々にとってジャンヌ・ダルクにはもう一つの関心を呼ぶ観点がある。「異性装」のタブーである。ジャンヌが受けた「異端裁判」の中でもジャンヌは男装を追及されている。これは申命記22章の「女性は男性の服をつけるべからず」という聖書の記述に反しているからである。最終的にジャンヌの男装は情状酌量の余地もないものとして断罪され、ジャンヌは有罪判決を受け、火刑に処されるのである。このジャンヌの悲劇から「キリスト教文化」は性の、特にジェンダーのトランスに厳しいというイメージをうける。そして、トランスをゆるされないというGIDの人が完全に息の根をたたれるような時代があった、と考えがちである。しかし、ジャンヌ・ダルクの悲劇は本当に「男装そのもの」も含んでいるのだろうか。ジャンヌの悲劇を起こした本当の要因はなんだったのであろうか。


ジャンヌ・ダルクトランスジェンダー
 ジャンヌ・ダルクは社会適性を移行するという広義の意味においてはトランスジェンダーと考えられるかも知れない。しかしハトシェプストやラズィーヤのように公的に男性の帰属意識で男性としてふるまったわけではない。ジャンヌ・ダルクはあくまで女性としてフランスを救うため、神のお告げによって男装したのである。それはジャンヌの語録や話の文脈の中に「男性」としての帰属が全く見られないことでも言える。したがってジャンヌはGID傾向をもっていたとは考えにくい。むしろジャンヌの男装は男装のもつ実利的な面を考えてのことであろう。つまり、戦闘服として、防護服としての意味合いが強かったであろう。


 ジャンヌの有名なショートカットもそうである。余談であるが、男性の髪が短くなったのは、一つには戦争とよろいの発達史に関係がある。「長髪の男性」の民族の戦闘服は軽装である。日本の武士の戦闘ファッションをはじめとして、モンゴル民族等の騎馬民族系、オリエントでも鉄の武器で有名なヒッタイトなどの男性は後ろ髪をたらしているヘアスタイルが多い。これは、戦いの時に首を守るためといわれている。しかし、長髪には欠点があって、戦闘時に解けてしまうと視野が狭まって、危険になることと、衛生管理が難しいことであった。そこで、前髪を剃る、というヘアスタイルになったといわれる。


 短髪の男性の戦闘ファッッションは全身を覆うよろいである。古代ギリシャの初期などはまだ長髪の男性がいたが、首を隠す形のよろいが出てきて、戦争の時には短くして平和なときに伸ばす、という形になった。しかし、だんだんに戦争が頻繁になってきて、長髪を楽しむ間がなくなってきた。そのため慣習的に男性=短髪になったようである。ローマ時代には長髪の男性=MTFというイメージがすでに出来あがっていた。


 ジャンヌ・ダルクの時代のよろいというのは身体では「目」しかださない、という全身を装甲で覆う形で、20〜30キロ、重いもので80キロはあったといわれる。これはジャンヌ・ダルクの少し前、百年戦争初期にクレシーの戦いで、イギリス側にに長弓が出てきたからである。これでは軽装ではいぬかれててしまう。そのために、弓矢をとおさないよろいが発達したのである。これだとやはり女性の長髪は不向きで、やはり、ショートカットにせざるを得なかったであろう。こうして、戦闘にそなえた結果が男装であっただけで、「男として」とは考えなかったであろう。事実、ジャンヌ・ダルクが「女性」であることは全身を見せていないのにかかわらず、公的に知られていた。


★ジャンヌ・・・伝説の少女
 フランス西部のドイツ国境付近のロレーヌ地方、ここには一つの伝説があった。「フランスが危機に陥った時、ジャンヌという名の少女がその危機を救うだろう。」ジャンヌ・ダルクこと、ジャネット・ダルクはこのロレーヌ地方のドムレミ村に父ジャン・ダルク、母イザベル・ロメの長女として生まれた。兄弟は兄ジャックマン、弟ジャン、ピエール、そして夭折した妹カトリーヌがいた。家は裕福な信心深い農家であった。当時、フランスは百年戦争と、ペストの影響で農民が激減し、従来の封建制が成り立たなくなっていた。そのため、貨幣経済の発展を背景に、地代を現金で払うようになり、また農民がにげないように待遇を改善したため、農民の地位は向上していた。ジャンヌが育ったのはそんな時代である。


 ジャンヌはGIDではないと書いた。しかし、変わり者ではあったようだ。早くから不思議な力をもつ少女としてジャンヌこと、ジャネットは知られていた。ジャネットが神の啓示をはじめて受けたのは13歳のときである。このときにジャネットは伝説の少女がジャネットであることを知らされたという。15歳の時にジャンヌと改名し、17歳の時に伯父にすべてを打ち明けて、ヴォクルールの守備隊長に会いに行き、そこから、24歳の当時の王太子シャルル七世に謁見する。



★運命を決定づけたオルレアン開放戦線の勝利
 ジャンヌを「神の少女」として位置付けたのは最大の活躍はオルレアン開放戦線である。この戦いをきっかけにフランスは巻き返し、百年戦争は幕をおろした。しかし、ジャンヌにとっても運命を決定づけた戦いでもあった。


 この戦いを語るには百年戦争を語らねばならないだろう。当時イギリスはフランスの封建諸侯だった。つまりイギリスはフランスの一地方でしかなかったのである。フランス北部イギリス方面にフランドルという地方がある。この地方の領有問題と王位継承問題から始まったこの戦争によって、ジャンヌの時代にはフランスの諸侯達は、イギリスを支援するブルゴーニュ派とフランスのシャルル七世を推すアルマニャック派に分裂していた。フランスはロワール川北部のパリを含む地域をイギリス軍に占領され、その一都市、オルレアンも諸侯がイギリスの捕虜になり、イギリスの手中にあった。ジャンヌはそこを6千の兵士とともに急襲し、わずか2日で、オルレアンをフランスの手に取り戻したのである。そしてその勢いにのって次々と戦勝をかさね、ついにランスで、1429年、シャルル七世を戴冠させたのである。ジャンヌが神から聞いた予言がすべて成就したのである。


 ところが、その後一転して和平交渉に臨もうとするシャルル七世とあくまでフランス全土を奪還しようとするジャンヌは対立した。そして、シャルル七世の静止を振りきって同じ考えの急進派の諸侯とともにパリへ進軍して連敗をかさねる。そして運命の1930年5月、ジャンヌはコンピエーニュで捕虜になってしまうのである。


★異端裁判ーそして処刑
 ジャンヌは身柄をルーアンに移される。ルーアンも当時はイギリス領になっていた。イギリス側はジャンヌが「神の奇跡の乙女」であることを恐れていた。何故なら、ジャンヌが「神の奇跡の乙女」である限り、正義はフランスの側にあることになるからである。またジャンヌ自身のカリスマ性も恐れていた。ジャンヌがいてはフランスは「神の奇跡の乙女」に導かれているという熱意のもとで団結し、巻き返しを図るだろう。その連帯感の強さはオルレアン戦線で身をもってしっていた。ジャンヌを処刑するしかない。しかし、「神の奇跡の乙女」をそのまま処刑してはかえってイギリスは神にそむく悪人となり、ますます不利になる。イギリスに正義があることを証明するにはジャンヌが「神の名をかたる悪の手先ー魔女」であることを証明しなくてはならない。1431年1月から始まった異端裁判は実はこのような動機から始まったものであった。はじめからジャンヌに勝ち目はなかった。


 ジャンヌの異端裁判は1月9日の予備審理開始から、5月30日の最終審議までつづいた。結果、ジャンヌがカトリックの教義に反してあくまで神の声を聞いたといったことが有罪判決の最大理由となった。そしてその日のうちにルーアンの広場で火刑に処され、19歳の生涯を終えたのである。火刑は服が焼け落ちた段階で火をとめ、ジャンヌが「女性である」ことを証明してから再び焼く、という残酷なものであった。骨はほとんど残らず、心臓だけが残ったという。そして遺灰はセーヌ川にすてられた。ジャンヌの死後、1435年にブルゴーニュ派とアルマニャク派は和解し、団結して、イギリスにあたった。そして、1453年にカレーからもイギリス軍を追い出し、フランスは国土全部を回復し、王権は強くなり、中央集権化がすすむこととなった。


★ジャンヌの生存伝説と出生の謎
 ところが、である。処刑から5年後にジャンヌは家族の前に姿をあらわした。1436年にロベール・ド・サモワールという人物と結婚した25歳のその復活したジャンヌはルクセンブルクなどの貴族に歓迎され、2年後の1438年にはオルレアンの町を訪問し、210ルーブリの功労金とワインをもらった。そのうわさをきいたシャルル七世は9年前と同じようにジャンヌと対面したが、本物と見とめざるを得なかった、という。しかし、当時、ジャンヌの名誉回復裁判がおこなわれておらず、パリ大学ローマ法王庁もジャンヌを認めていない。結局政治的配慮からジャンヌは裁判にかけられ、「偽者」とされたが、その後故郷のドムレミ村で家族や親戚達と平凡な幸せな日々を送ったという。


 ジャンヌの名誉回復裁判は1456年にシャルル七世の申請によって行われた。その頃には復活したジャンヌは45歳になっているはずであるが、どうしていたか定かではない。しかし、どうして火刑で死んだはずのジャンヌが復活できたのか。実はこれについてはジャンヌが王族の血筋、しかもシャルル七世の異母妹である可能性があるという。シャルル七世の父シャルル六世の愛人オデットが1411年に生んだ女の子が行方不明になっているのである。ジャンヌがうまれた年である。当時身分オ高い子供が身を守るために一般家庭にあづけられることもあったから、かんがえられることであろう。また、同様にシャルル七世の異父妹、つまり母イザホーと愛人の子ではないか、という説もある。いずれも定かではなく今にいたるまで論争になっている。


★ジャンヌの奇跡ー騎士の教育背景
 ジャンヌ・ダルクがフランスの国民的英雄になったのはナポレオンが国家主席になったときに賛辞して以来といわれる。歴史学は当時のヨーロッパ諸民族ののアイデンティティー確立のために行われたもので、ジャンヌ・ダルクについても1840年代にジュール・キシュラによって、「ジャンヌ・ダルク史料集」が刊行された。ジャンヌ・ダルク像はフランスのナショナリズムの観点からの「英雄像」としてか、キリスト教の観点からの「聖女像」として書かれた。ジャンヌ・ダルクが「聖女」とされたのは1920年である。「フランスの国家のために男装して戦う聖女」ジャンヌ・ダルク。その奇跡と悲劇の原因はなんだったのであろう。


 ジャンヌの奇跡をイメージするものはオルレアン開放戦線だろう。しかし、オルレアン開放戦線は根拠のない神懸り的な力でなし得たものではない。あえていうなら奇跡を生んだのはジャンヌをはじめとするフランス軍の構成員が「騎士」としての教育を受けていなかったという背景であろう。諸侯のいない都市に奇襲攻撃をかける、というのは騎士道精神に反することで、しかも骨の髄まで騎士道の教育的背景を持つ、当時の支配者階級にとってまったく発想できなかったことであった。そのためにオルレアンの警備は手薄になっていて、ジャンヌ達はその盲点をついたのである。


 しかもジャンヌ達の軍はいわゆる傭兵達で構成されていた。いまでこそ軍隊は教育や訓練を施して、規律が守られているが、当時は軍の兵士、特に傭兵などろくに道徳や倫理も知らないあらくれものの集団であった。一方騎士になるには5歳から7歳ぐらいのときに親元をはなれ、奉公しながら、騎士としての教育をうけ、20歳前後で騎士叙任式を挙げて一人前になった。騎士道は根強いものとなる。しかし、百年戦争末期には騎士道精神に基づいた一騎撃ちのスポーツ的ナ戦いはもはや出来なくなっていた。そんな時のジャンヌの戦法であった。「神の名の元に」団結して、騎士道の精神を破り、読めない戦法で攻撃してくるジャンヌはイギリス軍にとってまさに悪魔の仕業に見えたであろう。「卑怯者」とも思ったであろう。また、あらくれ者の中にいるジャンヌはとても「聖女」のイメージではなかったであろう。


★ジャンヌの悲劇ー政治的配慮の欠如
 ジャンヌが捕虜になったときシャルル七世は恩人であるはずのジャンヌを助けようとせず、あざ笑ったという。しかし、それは俗説だろう。もし、完全に見捨てていたら、1456年の名誉回復裁判を起こそうとは考えないであろう。それでも「だから、あれほどとめたのに」と舌打ちする、といったことはあったかもしれない。


 ジャンヌの行動規範は常に神の言葉であった。キリスト教の価値観が強い社会で神の言葉という概念は強力な確信を生んだであろう。その確信はジャンヌのカリスマ性となり、軍を率いるときの求心力となったであろう。だから、連勝しつづけたのである。ところがその「カリスマ性」がエスカレートしてしまったのであろう。ほとんどノリでフランス全土を回復できる、といった、集団暗示のようなものが生まれてしまったのかもしれない。ジャンヌはシャルル七世に扱いにくい人物になったのであろう。


 一方でシャルル七世の政治的立場はジャンヌのおかげで王位についたとはいえ、まだ、脆弱なものであった。優先順位としてはまず自分の足固めであったであろう。シャルル七世の即位をフランス全土が認めているわけではない。ブルゴーニュ公との和解が先決であった。それに母イザホーの浪費のために国庫は火の車であった。財政を立て直して戦力をつけなければイギリスと戦うことは出来ない。そのために休戦したかった。ジャンヌにはこうした政治的事情を読むことはできなかった。以後連敗を重ねたのも、シャルル七世のバックアップが望めなくなったからであろう。


 ジャンヌ・ダルクが活躍した時代、それは旧来の価値観が通用しなくなり、社会的混乱が激しかった時代である。男装で戦場に出たのはジャンヌ・ダルクだけではないという。しかし、その大半はその肉体の性が判明することなくおわったか、教会の特別な許可証を持っていたという。つまり、トランスジェンダーも生きられた、ということである。ジャンヌ・ダルクの悲劇の根源的な理由は男装ではない。男装の罪はいいがかりであって、実際の問題はジャンヌが既存の価値に打撃を与えた、ということへの恐怖であった。そしてその問題を悲劇に変えたのは状況判断のミスであった。トランスジェンダー達がトランス行動そのものを責められるとき、その裏にある事情にどれだけ配慮できるのであろうか。人が人の社会で生きる、生きられないは、時代のせいでなく、自己と社会との付き合いのあり方なのかもしれない。