戦国の雄とよばれた”姫”若子

これで昔のHPにあった「歴史の中のトランスジェンダーすべてです。
一番ヒットした(受けた?)のはこれなんですね…。
今回のは厳密には「未成年のGID」で、トランスジェンダー(性別越境者)ではないんですね。
GIDを隠してきたMTFの方には多いタイプではないかと思っておりました。
大河ドラマ化されたらどうなってしまうんだろう…。
「夏草の賦」が元ネタであれば回想シーンのシルエットのみで(笑)「違和感に苦しむ」シーンはかかなくてすむけれど…


戦国の雄とよばれた”姫”若子
長曾我部元親 (AC1539ー1599)


新装版 夏草の賦 (上) (文春文庫)

新装版 夏草の賦 (上) (文春文庫)


GIDの戦国武将
 「人からは姫若子といわれていた。」(略)「俺は少年のころ、何度も女に化りかわりたいと思っていた。女ならば戦場にゆかなくともよい。そう思い暮らしているおれを姫若子とよんだのもむりはなかった。」(略)「いまでもそうだ」(略)


 これは、司馬遼太郎の「夏草の賦」の一節である。このセリフをいったのはこの小説の主人公、「四国の雄」と呼ばれた長曾我部元親であった。わずか一代で四国を平定し、かの織田信長にも屈しなかったと言う強健なイメージをあたえるこの武将が「かつて女性になりたかった」人物であるという。実際、元親を織田信長のライバルとして、かの上杉謙信武田信玄のように対にしてかけば絵になりそうではあるが、戦国武将の物語のなかでは元親の影は薄い。これは「四国」という島国で、高知は「陸の孤島」である、ということもあるが、それ以上に元親の性格がつかみにくい、そのために人物描写がやりにくいという側面もあるのではないか。


 元親は「民を気遣う心優しい領主だ」ともいう。「血も涙もない冷酷な人物」ともいう。「決断力にとんだ雄雄しい人物」ともいう。そして「礼儀正しく、教養の深い武将」とも。そのため、元親が豊臣秀吉に臣従してからも秀吉は元親には一目おいていたという。


 また人生もいまいちつかみにくい。「少女のようなおとなしい少年が成長して雄雄しくなる。」これは大人の男性がおとなしい少年にいだく、一種の神話かもしれない。そのために「少女の感性をもつ少年をいかに雄雄しくするか」の教育がさかんになり、その神話のもとで苦しむGIDの少年(少女)がいる。


 元親は「女性として生きた」わけではない。少年のころはそうだったかもしれない。しかし、その後はGIDを思わせる行動はいっさいないように見える。しかし本当にそうだったのだろうか。外見にはあらわれなくても元親の「少女の心」は最後まで消えることはなかったのではないか。


 少女の心の少年が優しくて勇ましい領主になる。しかし、中年になるとワンマンになり、冷酷になり、晩年には権力欲もなくなり、静かな余生を望み、死んでいく。あまりにも変化にとんだ性格の変化は何を意味しているのだろうか。


★美少年?MTF?当時の少年達
 高知市から5キロ、南国市へ向かう55号線沿いの北側の山に博物館が見える。これは高知県立歴史民俗博物館である。そしてその建物がたっている山が岡豊山、長曾我部元親の生まれ育った城跡である。この岡豊城で(天文8年)1539年、国親の3番目の子、長男として生まれた。幼名は弥三郎、七歳上の姉の本山茂辰室をはじめとした、次姉池四郎左衛門室、一つ下の弟、親貞(吉良)、四歳下の親泰(香曾我部)、六歳下の親益(島)、波川玄蕃に嫁いだ妹の養甫尼の7人兄弟であった。


 長曾我部氏は日本のユダヤ系といわれる秦氏の末裔である。抜けるような白い肌と鋭いはっきりとした目つき、それだけでも美少年であることは間違いないが、元親が「姫若子」と呼ばれたのは外見上の理由だけではない。たとえ元親が少女のような装束をつけていたとしてもそれだけで、ジェンダーが女性と言うことにはならない。なぜなら、この時代の風俗そのものがまさに「ビジュアル系」の美少年ぞろいだったからである。織田信長がMTFTVだという説がいわれたことがあったが、驚くにあたらない。当時の少年達は元服前は髪を切らずにそのまま伸ばし、化粧をした。そのうえ当時の流行は「かぶきもの」、城主の息子達もビジュアル系よろしく奇抜な格好で町をあるいていたのである。元服後も10代のうちは先陣でも化粧してきれいに飾っており、その肖像は信長のみならず、甲斐の覇王、武田信玄すらも少年時代はビジュアル系である。


 元親が「姫若子」といわれた理由は行動や性格が「まるで姫君」のようであったからである。父の国親は豪勇でしられた人物であった。弟の親貞、親泰、親益、特に一歳違いの親貞の方は文武両道の知勇をそなえた武将であった。ところが、元親はその誰ともにていない。外見的には背が高く、柔和な印象をあたえしっかりものにみえた。しかし、寡黙で家臣ともであってもあいさつもあまりしない。外にでて剣術などで遊ぶ弟達をよそに一日中、部屋にこもってめったにでてこない。静かに室内で空想しているのが好きな少年だったのだ。これは上の二人の姉に「同一視」してしまったからだ、という説もあるが、父の国親も「このうつけもの」といっては心なやませていたという。しかし、だからといって「あととり」として強引に”教育”する、ということはしなかったようだ。元親は22歳まで「やり一つ持ったことがない」と告白しているからである。


★父の願いー元親デビュー
 こうしたいきさつもあって、元親の人生ステージは他の武将にくらべてかなり遅い。はやく大人になるのが理想とされていた時代に、16歳まで「少年のままであった。」元服してのちも行動は姫若子のままであった。兄がこれでは弟達もこまったであろう。おそらく元服は次弟親貞の15歳の元服に先だってのことである。武将としての素質を確実に伸ばしていく弟の方へ家臣の期待も傾いていく。父の国親は自分の代で再興したばかりの長曾我部家を維持するのと親の敵討ちのために必死だった。そのうえ「後継者」の問題で、長男の元親をさておいて親貞の方に家臣の人望があつまる。元親はどこ吹く風で、自分の世界に浸っている。おのおのの個性から考えると適材適所という気もするか、それでは秩序が乱れる。長曾我部家はもたないだろう。そう考えてか、息子達に期待しないで一人で頑張っていた。


 しかし、その頑張りも限界にきた。事件が発生したのである。長曾我部家の兵糧米の輸送船をとなりの現在の長岡郡を支配している本山茂辰の部下がおそったのである。本山茂辰は元親が幼い頃理想としていた上の姉の夫である。もともと本山家は父国親が幼少の時に長曾我部家をほろぼした家系であった。孤児になった国親は公家出身の一条家で育てられ、本山家を敵としてきたが、土佐の国が戦乱になるのをうれいた一条家の仲立ちで和睦をむすび、そのあかしとして元親の姉は本山茂辰の妻となっていたのである。そんな微妙な関係のなかでの事件であった。これをきっかけに本山家と長曾我部家の戦争になった。国親はこの戦争を元親と親貞のデビュー戦にしようと考えたのである。元親22歳のときである。


 元親の最初の戦争の時は、戦場でも空想癖がでたらしく、ぼんやりしていたため、家臣にしかられている。しかし、長浜の合戦のとき驚くことがおきた。合戦の前に元親は秦泉寺豊後にやりの使い方をきいた。いつもの「姫若子」のことだと思い、秦泉寺豊後は簡単に使い方を教えた。戦闘がはじまると、元親勢はくずれかけた。そのときである。


「引くな!!ものども!!」元親であった。驚く家臣達。次の瞬間元親は切りかかろうとする敵を二人やりでたおしたのである。この「姫若子」の予想もしなかった行動によって元親の軍勢の士気はもりかえし、本山勢を追い詰めた。逃げ散る敵の兵達。潮江までおいつめたとき元親はさらに潮江の本山の城もとるという。反対する家臣をおしきって元親は城にいく。城にいってみれば兵は一人もいず、すぐに手にはいった。元親はこの城に誰も帰ろうとしない、帰らないということは「反本山派」ではないかと気付いていたのである。


父の国親は病床にいた。元親の活躍をきくと安心したのだろうか、「本山を撃って欲しい」と元親に遺言して、この世を去った。54歳であった。


★戦国の雄「元親」の誕生
 元親がいつ天下統一への野心を抱いたのかはわからない。しかし当初は父の遺言を果たすことだけが目的だった。25歳で、美濃の斎藤利三の妹を妻に迎えたときにはそういう気持ちもあったかもしれない。元親が父の遺言を果たしたのは8年後の30歳のときであった。最初は茂辰の子もほろぼすつもりであったが、姉になきつかれて思いとどまったという。その後安芸国虎をうち、土佐の名家であり、長曾我部氏の恩人の一条家も撃った。病気で転地療養にでようとした弟島親益を虐殺されたことをきっかけに阿波(徳島)にも出陣し、毛利輝元とも戦った。そして四七歳の時には四国統一をはたしたのである。


 このイメージが元親を「戦国の雄」とした。かの織田信長が「土佐一国をやるからあとの国を俺にくれ」といったときに「織田に兵をかりた覚えはない」とはねつけている。もちろん一発触発になったのだか、その前に織田信長本能寺の変で討ち死したためことなきをえている。


★元親の特徴ー心理操作
 元親の戦争は作戦とか、軍備といった戦争というイメージで連想する要素ではなかった。元親の得意だったのは心理戦と情報戦だった。武力をもって正面からぶつかるという戦い方はしなかった。無関心をよそおう、もしくは正面からむかってるようにみせて裏で人間心理をたくみに操作してみせる。それも微妙な働きかけをするので誰も「元親の仕業」とはおもわない。つねに疑惑の黒幕からはずれる、といった風である。その心理操作にのせられた人間だけが行動してしまって名を残す、そういう感じである。一条家もそういう形で家臣を分散させてほろぼした。


 また、自分がどうふるまえば人がどう反応するかを熟知していた。22歳の時のデビュー戦のときもそうであるが、元親は時に神がかったふるまいをみせることがあった。阿波に出陣するときに神社の前で「神の姿をみた」といってとまどう家臣の前で拝礼する。そして「勝利する」とつげ、家臣達の士気をあげる。元親にとっては「自分がどうみられているか」ではなかった。「自分をどうみせるか」が状況判断の基準となっていたのだ。そのために当時の戦国武将にくらべて、勇猛果敢とみせながら、その姿をかこうとすると難しい、という人物像になっている。そのうえこうした心理操作に重点をおいた作戦は男ジェンダーは好まない傾向にある。どちらかというと女ジェンダーのやること、といったイメージが強い。そのために織田信長や秀吉、武田信玄上杉謙信といった豪快な武将達とちがって元親を表現しにくいし、おそらく多くの男性にとって共感がえにくいのだろう。


元親が得意だったのは人の気持ちにうまく答えることでもあった。勇猛果敢でしられた弟達にまるで姉がそうするように活躍の場を与えた。元親にとって弟達はライバルではなく、息子達の見本となる武将であった。家臣達に対しても同様であった。元親が自分の意見を言うのはめったになく、だされる意見はほとんど元親の観察眼にもとづいた盲点についてだけだった、という。


★元親の特徴ー情報収集
 元親ももう一つの特徴は情報収集能力である。高知にいった人はわかるであろうが、土佐は「陸の孤島」である。南は太平洋、三方を1000メートルをこす四国山脈にかこまれているため、同じ日本であっても独特の文化として発展している。紀貫之が土佐に来たときから多くの京の貴族がすみついて町は京に似せてはいるが、土佐独特の文化をもっていた。こういう場所であれば、井の中の蛙になりやすいものだが、元親は情報収集力についてはたけており、「土佐は遅れている」と思っていた織田信長を感嘆させたという。


 元親は大阪(堺)商人の人脈を多くもっており、京、大阪から土佐へ、といいた交易の際に元親の元へは多くの情報がもたらされたという。実際、元親の妻は地元の女性ではない。美濃(岐阜)の人間である。美濃と土佐の縁組というのは当時でいうと現在の国際結婚よりもはるかに価値観や感覚からいっても並外れた行為であった。この縁組も大阪商人をつうじておこなわれた。元親自身が動くことはあまりなかった。「深閨にこもる姫若子」、しかし、ただ引きこもっていたのではなかった。現在のインターネットにも似た情報収集で時勢をつかんでいたのである。


 また、元親は家臣や自分の息子に京で学ばせている。息子を教育するために家臣を教育させてその師とし、他の家臣達にも京の作法や学問を教授させたのである。そのため陸の孤島、土佐で育ったにもかかわらず、今様の京に作法に熟知しており、秀吉の前にでたときも「田舎もの」という印象ではなく、洗練された「武者」といわしめたという。


★長男「信親」の死
 四国を統一したときから、元親の運は傾いてきた。四国を統一してわずかわずか四ヶ月で、秀吉に攻められたのである。先陣の蜂須賀小六の軍備軍装の情報を集め、分析した元親は「負けだ」と判断した。このままたたかえば四国は残らず、切り取られてしまう。長曾我部家も滅ぶ。降伏しかない、と思った。その特徴の一つの軍馬があった。土佐は日本産のちいさな馬、秀吉軍のは、外国から輸入したアラブ産の馬だったのである。第二次大戦の日本とアメリカの空軍と戦いのようなものである。それを客観的にみとめる力は元親にはあった。こうして48歳の正月には秀吉の臣下として大阪に向かったのである。


 四国を平定した秀吉が今度狙ったのは九州の島津であった。それを受けたのが、毛利や長曾我部氏といた中国、四国の武将であった。この戦いで、元親の人生最大の不幸がおとづれる。最愛の長男信親を戦死させてしまったのである。22歳、元親の初陣の年齢と同じであった。豊後戸次川の戦いであった。元親は持ち前の分析力で、戦いは不利だと反対した。このことも元親にしてははじめて家臣の意見に反対したのであるが、血気にはやった家臣は聞かない。その上秀吉の戦目付けの仙石秀久も乗り気だったので「父がいかぬなら、代理で」と信親がかって出たのがあだになったのである。遺体の損傷が激しく、家臣の谷忠兵衛は「一目みないと信じられない」という元親に見せるのがしのびず、火葬にしてから遺骨をもちかえったという。「信親と同じところで死ぬ」と飛び出した元親。なだめる家臣。このときにこうした元親の行為を「女々しい」と非難した人がいたという。それを聞いた元親の中で何かがはじけた。


★元親乱心!?
 「姫君のようにやさしい」元親が「冷酷な暴君」と化したのはそれからだという。ちょっとしたことできれて家臣を罰し、場合によっては殺す。それはかつての自分の兄弟でも例外ではなかった。長曾我部家の後継者を三男の親忠でなく(次男親和は信親の死後一年で心身症で死)、末子の盛親にすると宣言したとき反対した甥親実(父は親貞)を殺しているし、親忠を幽閉している。これはさすがに元親もこたえたらしく、もちまえの感受性の強さからか、岡豊城を攻める親実の軍の亡霊に苦しむようになったという。姉妹の一族はすでに四国統一のときにそれをうらんで妹の養甫尼が長曾我部家を裏切ったこともある。元親の兄弟で後世まで家が残ったのは、三男の親泰の家、香曾我部氏であり、現在の長曾我部氏のルーツは彼だという。元親のあまりの変貌に家臣は理解できずとまどったという。これが長曾我部氏の滅亡につながったのかもしれない。


 家では暴君の元親でも、外向きは礼節にとみ、忠義にみちた武将であったという。信親の死に責任を感じた秀吉が大隈国をあたえようとしたが辞退している。そのころには領土欲もなくなっていた。元親が最後に望んだのは静かな余生であった。


 朝鮮戦争にも出陣した元親であったが、1599年、秀吉に最後の謁見をすませると四月十九日、61歳の生涯をとじた。晩年は静かな人生だったという。その、16年後、大阪の夏の陣の責任をとって四男の盛親は一族もろとも京の六条河原で刑死した。三男の親忠を殺したことで親忠かわいがっていた家康のいかりをさそったから許されなかったといわれる。元親には同じ大名の友はいなかった。そのためにかつてのような情報網が帝に入らず、盛親は「適当に」判断するしかなかったのだ。そのため元親が父の遺言を心に生涯をかけて立てなおした長曾我部家はわずか三代しかもたなかった。


★元親のGID傾向はなくなったのか?
 元親は少年期にはGIDの傾向を見せている。しかし、その後の人生にはそれを思わせる行動は微塵もかんじられない。そのためここでGIDとかんがえていいか、という問題もでているだろう。ここには現在のGID神話の問題がひそんでいる。GIDとは何か、という根本的な問いである。われわれはGIDとは「望みの性と反対の性で生きる、もしくは反対の性で行きようとする心理的衝動」ととらえられている。たしかに肉体とジェンダーが一致していないとあきらかにわかる行動であれば、その人がGIDである、という認識を得やすい。そして、その衝動がはげしければ激しいほど、「重症」であるという診断が得られる。したがって手術まで必死で望むTSはGIDでは最たる「重傷者」として認識されるのである。


 ところがGIDとはそういうものなのであろうか。「GID性同一性障害」。つまり、性に同一性が得られない。同一性が得られないから、社会の中でアイデンティティーを築きにくい。人がこうした問題を抱えた場合、とるべきと考える行動は果たして「望みの性へと向かう」ことだけだろうか。1996年の答申直後に起こった問題、それはまさにこうした問題に気付かなかった当事者の問題であった。つまり、隠しとおす。押し殺す。GIDとわからないように。逆にこうした女性性を抹殺するために肉体の性のジェンダーを過剰に装う。これは「GIDにないから」ではない。「GIDであることを自覚してるから」である。根本的な理由はここにあるのである。人が「GIDである」ことを自覚したとき、それを「隠そうとかんがえるか」「表現しようとかんがえるか」それはその当事者の社会環境と決して無縁ではない。


 元親の肖像画の大きな特徴は大きな耳と長いあごひげである。そして雄々しい行動と洗練された礼儀。そして演技的な性格。まるで男性を表現しようとしているようにみえる。これが「姫若子」と呼ばれた時代に深閨にこもって情報収集し、時勢を確認してだした結論だとしたら、元親の心情がしのばれる。元親の時代にGIDという言葉はない。ただ、父とも弟達とも違う自分の感性はそのまま元親のアイデンティティー追及の動機につながっただろう。元親のもつ人並み外れた観察力や感受性、穏やかな気質、まるで戒名の雪の字のように静かな涼やかな人物、それは戦国の時代に一家の棟梁となるべくうまれた元親にとって非常に扱いにくい性質、本人もとまどったにだったにちがいない。GIDを自覚してから数年、部屋の奥でせまりくる決断の時期までどう生きるべきか考えつづけていたに違いない。


 元親はいわゆる法律マニアであった。ほとんど慣習だけで生きている土佐の国に、法による統制をもたらそうと考えた。「長曾我部元親式目」というものがある。「侍たる者は文学問ならびに軍法専一に仕り、君臣の節、父母の孝行、肝要たるべきこと」「敵打つこと、親の敵を子」、兄の敵を弟打ち申すべし。弟の敵を兄打つは逆なり。叔父、甥の敵打つことは無用たるべきこと。」これをみると元親の行動倫理に儒教の影響がみてとれる。元親は自分のアイデンティティー不安を儒学を通じて解消しようとしたのであろうか。元親の決断は長曾我部家を強くすることであった。決して自分の野心をみたすことではなかった。長曾我部家が名家として存続できればよかったのだ。これは人生をかけて長曾我部家を再興した父国親の願いであった。だからこそ、岐阜から妻をむかえ、生まれた子供に最高の教育を与えて子供に引き継いだらまた元の姫若子に環える。それだけの気持ちだったのではないかと思われる。元親は環境がGID傾向を生み出すと考えたのかもしれない。元親の子供にもGID傾向は見られなかった。


★元親のフェミニズム的発想
 元親についてもう一つ重要な観点がある。それは元親夫人についてである。長曾我部元親について書かれるとき必ず、元親の妻についても多くのページがさかれる。その扱いは他の武将達の妻にはみられないほどである。元親は25歳の時に岐阜から彼女を迎えた。家臣が元親に結婚の話しをもっていったときに元親は「斎藤利三の妹を」と強く望んだ、という。この「斎藤利三の妹」の美貌は天下にしられていたため、家臣がたしなめると元親は、こういったという。「英雄を多く生んだ斎藤家の血筋が欲しいと」。これは当時の女性観からいうとかなりすすんだものであった。当時の女性は「借り腹」であり、女子の血統は全く重視されていなかった。だから、結婚は近隣の同盟のために行われたのである。それを元親は女子の血統という考えをはじめてしたのである。元親は政治向きのことも夫人とかたったという。そのため元親夫人も能力発揮とばかりに自立して行動していたという。


 おそらく、その女子にも家のアイデンティティーを、という元親の考え方を理解できていないと、元親の行動が不可解なものになるのかもしれない。そしてそのことはおそらく当時の人達にも理解できなかった。何故、長男の信親が戦死したとき、四男につがせようとかんがえたのだろう。儒教倫理でいえば、次男、三男がつぐのが適当と考えるはずであり、事実、家臣達は猛反対した。これも男子継承でみると理解できない。親和、親忠、盛親は同母兄弟である。母の門地が原因とは思えない。そこで元親の偏愛のせいであるともいわれたが、おそらく、信親の一人娘が本当の後継者で、その婿として年齢のつりあう最愛の息子を挙げたのかもしれない。当時親忠は15歳、盛親はまだ幼児であった。


 女性にも重きをおいた元親の感覚は後世、意外な副産物をもたらした。元親夫人の兄、斎藤利三山崎の戦いで戦死、その妻は子供をつれて土佐に身をよせた。そのひとり土佐で少女時代を過ごした一人の少女が女帝といわれたかの春日局である。政治的思考ができ、自立して行動できる女性であった春日局、その背景にGIDを抱えていた元親の発想があったのではないかという気がしてくる。男性の体をもつ”少女”がそのアイデンティティーの葛藤の中で男、女の枠から自由になって物事を知る。その視点で行動したことがいつしか、GIDでない人の心のかせをはずし、あらたな価値を生み出す。しかし、あまりに悲しみや苦しみが深すぎた場合にはこうした副産物に気付くことはない。「姫若子」が部屋の奥で流したであろう涙の重さをわれわれはどれだけ理解できるだろうか。