FTMがみせた男たちの夢 川島芳子(1907-1948)<後篇>


虹色のトロツキー (4) (中公文庫―コミック版)

虹色のトロツキー (4) (中公文庫―コミック版)


★魔性の「美少年系」FTM
 日本人の文化を考えるときに世界に類がないほど性別越境者に寛大な文化をもつということは多くの研究が明らかにしている。「少年が女性のようによそおう」ことに関して魅力を感じて多くの文化が発展したようにFTM、男装に対しても白拍子など、「女性が少年のようによそおう」ことに意味があるとみている研究者もいる。

 イスラームの開祖、ムハンマドは性的誘惑に関して「すべての女性が一匹の悪魔を連れるとするならば、美少年は17匹を連れている」と表現した。まさに芳子はそのタイプの「美少年系FTM」であった。芳子を国策にいいようにつかわれてボロ雑巾のように捨てられた「悲劇の王女」として表現してきた文学・メディアは多いが、芳子にかかわった男たちにいわせるとこれほど恐ろしい魔物のようなFTMは歴史上類をみない。ホモソーシャル、恐妻家で「一穴主義」の陸軍大将、のちに首相になった東条英機が芳子という名の男装のコスプレイヤーという「魔物」に関東軍の男たちが翻弄されていく様に苦々しく感じていた、その気持ちは非常に共感できる気がする。男のジェンダー規範を死守することなく「女」の上にあぐらをかいて徹底的に利用していく。軍隊という聖域に「女」をもちこみ、目的を果たしていく。あきらかに男の連帯に対してはルール違反であるにかかわらず、バカな「男」どもはその魅力にさからえず、ずぶずぶとおぼれていく。

 芳子に夢をみた男たちは二人の父だけではなかった。愛人となった田中をはじめ、関東軍石原莞爾甘粕正彦、多田駿、「男装の清国の王女」というプロパガンダをさかんにおこない、満州帝国の宣伝を行った。関東軍を離れたあとに、政治団体をつくった笹川良一松岡洋右頭山満。すべての人と肉体関係まであったわけではないと思われるが、芳子が動くところに常に男たちの野心があった。逆に芳子自身がそのような男を好んで探し当てる傾向があった。そしてそのような芳子の野心も男たちのほうも読んでいたのである。お互い同じ「夢」のためにお互いを利用した。ただ、それだけのことに違いない。

ジェンダー規範が一貫していない、男ジェンダーの規範の厳守というルールを逸脱することはFTMの文化では最下層に位置する。「しょせん女だからしかたがないよね。」という言葉で許容されてはいるが、FTMという共通のカテゴリーではあるが「同性」して受け入れられているわけではない。芳子というのはまさにそのFTMであった。「髪をきれば男になれると思った。」「言葉や行動をかえれば」芳子自身が証言している。芳子が有名であるためFTMトランスジェンダーが社会適応にする、という点に関してはある意味非常に「迷惑な」モデルをだしてしまっているともいえる。性同一性障害FTMが「俺は男である」と宣言したときに多くの人は川島芳子を思い浮かべる。その結果「美少年」であることが求められ、次に「男にせまられる」という経験をすることになる。すべての男が美少年になれないようにすべてのFTMは美少年になれない。性的志向が女性に向いていることが多いので、男にせまられても困る。まれにFTMゲイを宣言する性的志向が男性に向いているFTMもいるが、彼らの証言によると「FTMには女の心を求められる」つまりお門違いとの話である。これらのもとになっているのはやはり川島芳子によってつくられたFTM像が強烈であり、「FTMに美少年を期待する」日本人の美意識だからだろう。日本人FTMは「おっさん」ではだめなのだ。永遠の美少年でなくては。

FTMの品格/FTMの不幸
 しかし「俺は男だ」という狭義のFTMではなく、「男装がすき」というレベルのFTMまでふくめた広義のFTMでみた場合、芳子の人生そのものも「FTMらしい」人生といえる。
 男性として教育をうける幼少時代。葛藤を経てトランスする思春期。中にはいったん女性としていきるも適応できず男に「戻る」。FTMのスパイ。埋没して社会生活を送るFTMは裏の世界で生きることが多い。FTMの軍司令官。なんとか男として管理職につき、安定するFTM。そしてFTMを売りにした水商売。これはいわゆるおなべバーの経営者をほうふつさせる。そしてしたう部下たち。FTMの多くがもつといわれる懐の深さ。そして野心・誇大方言・物語的な生き方。そして男たち、そして女たち。

 そして最後は悲惨である。健康をこわし、心をこわし、だれにも理解されないまま死んでいく。そして「FTMとしていきるのは不幸だ」というモデルを再生産してしまう。

 FTMに関するこれらの問題は芳子自身が強く自覚していた。芳子はジャンヌ・ダルクに憧れはしていたが、FTMそのものに否定的な見方をしていた。トランスした当初は「第三の性」を宣言する一方で、みずからのことを「化け物」という。そして男装ブームに関して「男装は好きでやっているわけではない」といって、第二、第三の芳子がでることをけん制する。「よほどのことがない限りするものじゃない、不幸になる。」という。結果的には言動不一致になっているが、性的に奔放である芳子は実はジェンダー思想的には非常に保守的である。「もしもこのような運命にまきこまれていなかったら、いい家庭の奥様になれた」といわれるほど、女性ジェンダーの規範に関しては完璧だった。要は「お嬢様」としての女性ジェンダーの教育はしっかり受けており、その上に「男性としての教育」が行われているのだ。その点はイザベル・エベラールやラズィヤとは一線を画している。FTMのリスクとはこうである。FTMという生き方は非常に下品になるのである。当時、断髪洋装のモダンガールがはやっていたが、それすらも品性がないとされ、ましてや男装は論外である。男装の麗人のショーで有名な宝塚でさえも男役に非難があつまった。男装する女性は「処女性を疑われる」のである。「未婚の女性に品格がないのは価値がないのと同じ」が芳子の口癖であった。

 私的資料が多いがゆえに実は芳子には「奥さん」とされる女性たちの名前が残っている。ほとんどが10代の秘書で期間はそれぞれ3、4年の短期である。歴史の中のFTMにはめずらしいことであるが、実際には「妻」たちに手をつけるどころか、「男に嫁ぐときまで処女を守れ」と訓戒しているため「FTMとその妻という形式だけ」である。小間使いの一人が性的被害を苦にして自殺したときにかなり嘆き悲しんでいるのを目撃されている。

★高場乱・玄洋社、そして川島芳子
 品格をそこなわずに品格をあげる思想が日本には存在する。「武士道」である。

ところで、日本のFTMには奇妙なつながりがある。芳子の男装には前例がないわけではないのだ。たとえジャンヌ・ダルクに憧れたとしても、それだけで「一番女性として楽しい時期」に坊主頭になってしまうある意味「不可逆」な行為に踏み出すとは到底思えない。ここに芳子のいいわけをふくむ多くの言説では「男をさけるため」「少女としての幸せを追求できなくなったため」という理由をもってくるが、はたしてそれだけであろうか?

 芳子を幼少のときからかわいがった頭山満そして玄洋社とのつながりを考えてみたい。「芳子は男として生きた高場乱を知っていたのでは?」ということだ。もちろん高場乱は芳子が生まれる前に死んでいるので、面識はないし、芳子の言動にふれている個所はない。だが、頭山満と父・川島浪速には赤羽宅時代からの親交があり、玄洋社社員もそこに出入りしていた。乱の死後に開かれた国会でもめて以後、大アジア主義にもとづいてアジア独立運動の支援を行っていた頭山たちは日本政府に協力、または反対しながら独自の活動を続けていた。一方で「自分が考えて」一匹で行動をしていた浪速は中国で玄洋社の社員たちに自分と同じ思想をもつものが仲間をもち協力し合っていることにショックをうけたという。「今から仲間になればいい」と交流がはじまった。過去の「ヒーロー物語」をベースに教育した高場乱の教育方針の影響で、玄洋社の社員は自分の「物語的アイデンティティ」というものをもっていた。「ある大義・思想をもとに自分はどういう人間であり、そのためにどういう行動をとるか」。現在の企業研修などでうける「ミッション、役割、手段」の考え方である。浪速は自分の活動もしたが、同時に若い人の教育にも力をいれた。粛親王一家の留学を受け入れていたのはその考えのもとである。自分が子供としてもらえた芳子は「女の子」、どういうわけか浪速は芳子も「男の子として育てよう」と考えたらしい。尊敬する「忠臣蔵」の大石良雄にちなんで、「良雄」の名を用意したが、義務教育の時代、社会不適応につながると考え直して「良子」とつけたのだが、「芳子」となった。そういう話もきかされていたのか、芳子自身も男性名として「良雄」を使うことがあった。

 浪速が求めていたのは自分の思想を実践してくれる後継者であった。そのため、芳子を完全な深閨のお嬢様にするつもりはなかった。また、有名な西太后もその才能を惜しんだ叔父に男の子の教育を与えられた口であるが、満州族の女性自身が比較的社会的思想をもち、行動することにタブーがなかった。「男として育てられた高場乱」の話を頭山から聞いていたとしたら、まよわず実行するだろう。「じゃあ可能な限り男の子として育てればいいんだ」。そう思ったとしても不思議ではない。男の子として育てる。松本藩士であり、軍隊と縁の深い浪速の意味では「大陸で通用する軍人として育てる」であった。そのためにまず幼い芳子に「武士道」の「心技体」を叩き込んだ。政治戦略思想に関しては、川島家に出入りしていた男たちと聞いていればいい。そして、必要な技術、馬術と射撃は特別に大日本帝国陸軍の松本連隊に混ぜてもらって訓練したのだ。それはかなり特例的なことだ。そして、物語的アイデンティティ形成に関してはおそらくいくつか与えたであろうが、その中で芳子が選んだのはジャンヌ・ダルクであった。

 その結果乱と同じように小柄で華奢であった芳子は乱とは逆に非常に行動力と体力のあるFTMになった。おそらく当時の女性に比べてずばぬけて運動神経もよかったとおもわれる。100年後を意識して教育した乱の思惑よりもかなり早く、乱の教育成果を実現して見せたのである。

 乱が「静」であれば、芳子は「動」である。師弟関係を結ぶこともなかったこのFTM二人がこういう形でニアミスしていることに、マクロの形で時代が動くことになるとは…運命というものの不思議を感じる。


性同一性障害はあったのか?
 芳子が性同一性障害なのか?と、とわれると答えはNOだろう。残した文章・発言をみても性自認が女性であることは芳子自身がはっきり述べているからである。しかし後天的に性同一性障害状態におかれてしまったことは考えられる。なぜなら、粛親王死後、浪速は芳子が女性的なことをするたびに暴力を振るったからである。そこに浪速が芳子にほれていたため、ほかの男を刺激するのをいやがった→近親相姦という図式が固定化されているが、少しこの問題を考えてみたい。

 近親相姦という話は村松梢風の小説「男装の麗人」の芳子のモデルが発端である。そしてそれに尾ひれをつけるように意味深な証言も多くある。たしかに日本文化には源氏物語光源氏と紫の上、豊臣秀吉淀殿のように養親・養女の関係でのちに結婚という前例は多く、いわゆる近親相姦のしきいが低い。さらに文学上でも「エロ・グロ」に関してタブー意識が低い、そのためにおもわず納得させられそうになる。しかし、もう少しおこりがちな問題に視点をむけられないだろうか?

 性にかかわる被害は「魂の殺人」といわれる。まして思想を同じくしている信頼している養父からそのようなしうちをうけたなら、その心身のダメージは大きく、その後の和解や古希祝いが不自然なものとなる。いくら芳子が自己の感情の制御にたけているとはいえ、深刻な障害を負ってしまい、その後の活躍につながる活動はできなくなるだろう。また、いくら浪速が乱心していたとはいえ、それをやってしまったらすべてがおじゃんになるといいうことはわかる。それはあまりにも損失が大きくないだろうか。

 ただ、それに近いような出来事が起こった可能性はある。芳子は「川島の家のことは・・・」と語っている。そこでうっかり核家族で考えると3人家族でオスは浪速だけだから「さては浪速が」と思ってしまう。しかし川島家は大所帯である。粛親王の子供たちがいたし、夫となったカンジュルジャップ、芳子にほれてストーカーした大和丸事件の森山、初恋の人山家亨もいた。大陸浪人の性質でいうと浪速もそうであるが、女に対して「だらしない」といわれる。さらに男と対等に付き合おうとする芳子はだれとでもしゃべる。「男として」育てはしたが、思春期、婚期を迎えたころの展開を考えていなかったのだろう。そして当時は「恋愛」がブームになっていた。いい女になった芳子に依存している浪速はひやひやものである。まだ芳子を離したくない思いと、芳子をキズものにしたくない思いで厳しくしつけようとせっかんする。女性的なことをしようするとまたせっかんがはじまる。自分というキャラが確立している芳子は束縛されないと激しく抵抗する。それをみた同居する男たちは森山のように「暴力的な養父からお嬢様を救うのだ!」とやっきになり、たちまち浪速と若い男たちの間でけんかになる。芳子は家をでては山家亨に想いをうちあけるが当時は山家に自信がなく期待通りに動かないうえ、それがわかった浪速によって勤務先の松本連隊に通報、別のところに飛ばされる。

 浪速に引き裂かれた恋。お姫様を救い出せと勘違いする男たちと男たちを寄せ付けまいとする浪速の戦い。そしてとうとう性的被害も発生か?もしくは山家が最初の男か。それが処女を失った女に価値なしとの発言につながる。そして川島の家の混乱をしずめるには次の考えが必要になる。「芳子は浪速をすてない」と浪速を安心させること。そして、「若い男たちの恋愛感情を刺激しないこと」、「男と関係性に一線を引くこと」かつ「仕事や役割に支障がでないこと」。「自分らしくいられること」。

 それをすべてみたせる方法はただひとつ、「男装」しかなかったのだ。つまり女性の断髪を通り越して坊主にしてしまうことで、「女の楽しみであるおしゃれも恋愛も終わり」と宣言したともいえる。それが「女を清算」ではないか。上記はあくまで筆者の推測である。こう考えると芳子の発言と一致しないか?「女をすてて男として生きる」。性同一性障害の状態になるとすれば、FTMのそれ、というよりはある程度まで女性的な振る舞いがゆるされたMTFが社会にでるために髪を短く切り、スーツをきるときの心境に一番似ているかもしれない。

★もうひとりのFTM、「軍曹」四か所ヨシ
FTMのスパイ、男装の将校といった芳子らしい自己アイデンティティを発揮できたのは1931年(昭和6年)芳子24歳から、1937年(昭和12年)芳子30歳までの6年間でそのうち1932年(昭和7年)から1934年(昭和9年)、芳子25歳から28歳の3年間が芳子の人生の絶頂期であったともいえる。そう考えるとFTMの中では40歳の人生は長い方であるとはいえ、実際に活躍できる時間は短い。しかし芳子の生きた大正末期、昭和は同時に大衆文化が発展した時代でもある。大衆の識字率もあがり、メディアも発達した時期である。王女という特別な地位にあったこともあり、その短期にも驚くほど内容の濃い人生を送っていることがわかる。

 ところで芳子だけが特別だったのであろうか。実はこの時期日本軍とかかわったFTMは芳子だけではなかった。ブラジル・フィリピン・広東省マカオ・ジャワ島等で活躍したFTMがいた。今年2月8日に100歳でなくなった四ヶ所ヨシ(1910-2010年)である。芳子と違っていわゆるガチムチ系のFTMであったヨシは女性ジェンダーに適応できず、「看護師であれば従軍できる」と考え、看護師になり、ポルトガル語ができることをかわれてスパイ活動も行う。戦場で「軍曹」と慕われ軍服をきて数々の死線をくぐった。スパイ活動の経歴ゆえにGHQににらまれた戦後は貧しい老人たちを対象に医療にたずさわり、診療所、病院、特別養護老人ホームを開設、医療法人芙蓉会をつくりあげた。その物語は木村園江 「花と星と海と」として出版され、ミュージカルになった。

 また、同じ中国で「川島芳子に間違えられた」という記者もいる。スパイそのものの性格上、また芳子ほどに自己顕示欲でFTMである自分をさらす人もいないので、表にでているのは芳子とヨシだけであろうが、実際には相当数いるであろうと思われる。

 FTMトランスジェンダー、「男装の麗人」に対しての日本人の関心の高さはアニメ・漫画の文化に強く反映されている。池田理代子ベルサイユのばら」をはじめとして「男装の麗人」であげられるキャラクターには枚挙にいとまがない。有名な手塚治虫にしても「リボンの騎士」の騎士のサファイア姫から、「ブラックジャック」の如月恵、そして「海のトリトン」のドロテアとでてくる。少年のようなサファイア姫、船医として孤高に生きる「青年」の如月恵、そして冷酷で残酷な「中年女性」である船長のドロテア。サファイア姫は10代の芳子、如月恵は20代前半の芳子、ドロテアは20代以後の芳子ではないか?
そして後進のエンターテイメントにはこの3キャラのコピーとも思えるキャラがたくさん量産されている。

 FTMとはどんな存在か。魅力的なFTMとはどんな人か?そんな妄想をかきたてつつ男装の麗人芳子はいまでもメディアを通じて日本人のファンタジーの中で大活躍をしているのである。


<おわり>