FTMがみせた男たちの夢 川島芳子(1907-1948)<前篇>

評伝 川島芳子―男装のエトランゼ (文春新書)

評伝 川島芳子―男装のエトランゼ (文春新書)

愛新覚羅 王女の悲劇―川島芳子の謎

愛新覚羅 王女の悲劇―川島芳子の謎

清朝十四王女―川島芳子の生涯 (ウェッジ文庫)

清朝十四王女―川島芳子の生涯 (ウェッジ文庫)

元祖・男装の麗人 FTMがみせた男たちの夢

川島芳子(かわしま よしこ)(1907-1948)

★日本人のFTM観・FTMメタモデル
 日本の九州は福岡、FTMの3人のゆかりの地である。秋月藩の生んだ放浪詩人、原采蘋、政治結社玄洋社」の生みの親、高場乱、そして「東洋のマタ・ハリ」。「満洲ジャンヌ・ダルク」と呼ばれた男装の麗人川島芳子、である。

 1925年福岡・門司を経由して養母の実家鹿児島へ向かう途中、学習院の制服に学生帽で下関に現れた18歳の芳子は記者にこう語る。「川島芳子は死んだ、僕は川島良麿というんだ。」そして清朝の復辟(ふくへき)の夢のため、日本軍に協力し、福岡・門司経由で中国を往復、晩年は日本・福岡に拠点を置き、中国・北京を往復する。玄洋社の巨匠頭山満と交流、FTMを師に持つ彼をして「女にしておくのはもったいない大物」といわしめた、とされる芳子。清朝末期の王女として生まれ、日本人として育ち、「男装の麗人」ブームを引き起こした芳子。満州帝国のイコンとして活躍し、戦後に漢奸として処刑されたまさに悲劇のFTMである。その名を知らない人はいないだろう。多くの有名人と知り合い、その口を膾炙して多くの川島芳子の物語・研究資料が21世紀になった今でも数々のメディアを通じてだされる。日本人のもつFTMのイメージを紹介するのにこれほど適した人物もいない。
  
一方でこれほど情報が多く残っているのにもかかわらず芳子ほど「謎にみちた」人間はいない。故郷・信州松本の墓碑に刻まれた「推定42歳」の文言。没後60年しかたっていない「新しい歴史の中のFTM」であり、関係者の多くが存命であるがゆえに名誉・面子・対面・感情・利害関係の問題により逆に古代の人間を対象とするより真実にせまるのが難しいという側面もある。また、芳子自身も「FTMはこうあるべきだ」みたいな他者の期待にこたえ続けることを幼い時から是とした面もあり、その演技的虚言癖、誇大妄想ゆえに芳子本人の人間が見えにくくなっていることも難しさのひとつだ。中国人でありながら、日本人のもつ「FTMのイメージ」=FTMメタモデルを体現した川島芳子の人生は「デマに生き、デマに死す。これが私の人生」と最後に残した遺言そのものであった。


★二人の父・粛親王と川島浪速
 川島芳子は粛親王(しゅくしんのう)の第十四王女として1907年5月24日、北京の粛親王府に生まれた。当時の名前は愛新覺羅 顯シ(あいしんかくら けんし)。

 母は粛親王の第四側妃張佳(ちょうか)氏、同母兄憲立によるとこの母は日本人であった可能性があるという。中国人の養女になった女性か、川島浪速の関係者の女性ともいわれている。兄弟は命名前に死亡した5人を含めて38人、うち、同腹の兄弟は10人、存命中だった兄が「兄弟が多すぎて名前が思い出せない」というほどの大家族だった。

 父、粛親王清朝の2代目ホンタイジの長男で建国の英雄の血筋である。3代目は長男ではなく、九男が順治帝として即位したために、皇族の一家に甘んじた。しかし建国時の功績ゆえ本来皇室の縁戚は世代とともにどんどん家格がさがっていくが、粛親王家は親王としての地位を維持し、また粛親王もその地位に恥じない実力をもっていた。日清戦争での敗北を機に、列強に国土をむしり取られていく現実の中で明治維新にならい、立憲君主制を目指して国政改革を続ける。

そしてもう一人の「父」、川島浪速(かわしまなにわ)、粛親王と1900年の義和団事件の際に知り合って親交を結ぶ、いわば戦友であり親友同士であった。松本藩士として生まれ、東京で育ち、日清戦争のときに陸軍通訳官として大陸に渡って大陸で仕事をはじめた浪速はいわゆる「大陸浪人」であり、信州松本の「英雄」である。「大陸浪人」とは明治初期から第二次世界大戦終結までの時期に中国大陸などに居住・放浪し、各種の政治活動を行っていた日本人のことをさし、特定の組織に属さないで活動するプライドを込めて「浪人」と自称していた。

★父の夢・芳子の天命
 立憲君主制を目指していた粛親王であるが、1911年とんでもないことが起こる。孫文による辛亥革命である。1912年南京で中華民国が成立し、清は袁世凱を通して孫文らと交渉していたが、袁世凱が裏切り、宣統帝は「最後の皇帝」になってしまったのだ。このことにより多くを失った清王家の粛親王家は北京を逃れ、旅順に移動、ここで清朝王族による政権の樹立、すなわち清朝の復辟をめざした。その野心はやがて祖国である満州と蒙古の独立、いわゆる満蒙独立運動につながり、日本・関東軍による満州国建国の土台となっていく。協力する日本側は粛親王との間をとりもつ日本人を必要とした。粛親王は親友である川島浪速を推薦する。だが、拒否された。理由は川島浪速の日本側の地位である。官僚主義の日本にとってかたぎではない大陸浪人である彼は信用が低い。ましてやいわば「一匹狼」で傭兵のように仕事をしていた浪速には政府につながる強い後ろ盾もなかった。そこで粛親王は彼との関係性を「親友」から「親戚」にレベルをあげることで、浪速の粛親王家における重要性を強調することにした。その証に子のない彼に「養子」を与えることにしたのである。中国人は「気」、つまり人間の相性を重んじる傾向が強く、家のために相性がよければ養子にし、実子であっても家族との相性が悪ければ相性がいいところへ養子に出すといわれる。したがって明治時代にドイツから輸入された優生思想に裏付けられた日本の血縁主義と違い、養子養女の関係に対しての心理的しきいが低い。しかし皇室典範で浪速が望んだ「男子」=王子を養子に出せないため王女をから選んだ。そして浪速夫妻に一番なついていた王女、それが顯シ、のちの川島芳子に「東洋からの珍しい客」、東珍という字をさずけて、一通の手紙とともに芳子を日本へ送り出したのである。

 一筆書かれた「君に玩具を進呈する」。その本意はわからないが、一般的には「王女をもらうなんておそれおおい」と浪速がかまえないようにとの粛親王の配慮ともいわれる。また、教育方針その他に関して「浪速ののぞむように」という意味ともとれる。それゆえか芳子に中国側の関係者は侍女一人さえ一切つけられなかった。この安易な文言がのちに芳子にとって重大な意味をもつ。7歳のときであった。この二人の父の生涯をかけた共通の野望、清朝の復辟(ふくへき)、これが友情の証である芳子自身の野望となる。芳子の主張は一貫していないといわれる。だがマクロの目で見た場合、生涯を通して大アジア主義の思想にもとづいた清朝の復辟、清朝による自立的な国家建設という終始一貫した目的をもち、「目的達成の手段は選ばない」という非常に冷徹な徹底した主義を貫いていたのである。それが芳子の強さでもあり、同時に弱点でもあった。


ジャンヌ・ダルクに憧れる
 川島浪速の家は当時豊島区赤羽にあった。1915年に豊島師範付属小学校に入学した。浪速家には多くの人が出入りしており、門下生や書性も多かった。また、芳子の兄や弟も日本で学ぶべく来日し、浪速家に滞在していた。のちに結婚する蒙古族の将軍の息子、カンジュルジャップや福岡・玄洋社の壮士など浪速と同じ大アジア主義をかかげる大陸に視線を向けた理想の高い政治思想家、活動家たちが集まっていた。
日本舞踊、琴、茶道、油絵、乗馬と名門のお嬢様にふさわしい教育をうける一方で、出入りするこのような多くの政治思想家たちの影響も受ける。ここでフランスという国家を救った男装の戦士ジャンヌ・ダルクの物語を読み、ジャンヌ。ダルクに憧れ、ジャンヌ・ダルクと自分を重ねあわせるようになる。「私に三千の兵があるならば、中国大陸を取る」と豪語して、「女のくせに」といわれて級友と喧嘩にもなった。しかし数奇なことにのちに「中国で戦う三千の兵の男装の将」は現実のものとして実現する。男装の麗人としての芳子の物語的アイデンティティそれはジャンヌ・ダルクだったことは間違いない。小学校を卒業後、跡見女学校に入学する。ここまでは忙しい中でもどんな少女にもある平和な生活だった。


★実父母の死、養父の障害・乱心
1921年浪速が手がけていた満蒙独立運動が日本政府の意向で中止になる。理由は袁世凱が死去したことで政権の情勢がよめなくなったからである。すでに満蒙独立運動に多額の私費を投じていた浪速の家計は行き詰まり、一家は赤羽の家を引き払って、浪速の故郷、信州松本に移る。転校した松本高女でさらなる悲劇が芳子を襲う。ある日届いた「チチキトク」の知らせ。直ちに浪速とともに旅順にかけつけた。粛親王は死後のことを浪速に頼むと息を引き取った。さらに悪いことは重なる。母も亡くなったのだ。もともと病で値付いていたとも覚悟の殉死、後追い自殺ともいわれている。実父母をなくし、帰国後松本高女も退学になった芳子は老人性の聴覚障害になった父・浪速の秘書のような役割をになうようになる。「同士」を失っても満蒙独立運動の挫折と再起を願う強い野心、政治的・経済的基盤が弱くなる中でもはや一企業レベルの人数をかかえる川島家のみならず粛親王家をも経営するプレッシャー、そして筆談でないとコミュニケーションがとれないレベルの聴覚障害のせいで政策立案にも「障害」をかかえた浪速は激しくいらだち、二次障害としての人間不信・孤独感・妄想を起こし、生来の気性に輪をかけてかんしゃく、乱暴・不条理な行動が目立つようになる。

 ありきたりの少女としての少女らしいファンタジーを胸に父・浪速に激しく反抗しながら浪速の夢を一番理解し体現する「浪速の娘」として父に代わって多くの発言を行う芳子、浪速のDV(ドメスティック・バイオレンス)の犠牲になる芳子。妻にも逃げられた浪速は芳子が自分に不可欠な大切な存在としてますます依存的・支配的になり、芳子を束縛。芳子は抵抗。17歳で謎の自殺未遂事件。とうとう芳子がいう「10月6日の夜9時45分…永遠に女を清算した日」に事件が起きた、とされる。


FTMトランスジェンダー川島芳子
 日本髪で写真を撮った後、芳子は床屋に行き、髪を五分刈りにする。「川島芳子は死んだ」と宣言し、名を芳麿(良麿)、良輔となのる。大企業に勤務する広報課のマスコット的存在、そして彼女には王族という高貴なブランドもある。それがいきなり「男になる」と宣言したのだから、センセーショナルな話題であっただろう。「芳子は死んだ」「女を清算した」という話は広くマスコミに広く取り上げられた。先の下関の逸話は馬関毎日新聞の記事であり、「おしのびだったのにばれたか」と芳子自身を苦笑させている。もともと美人であった芳子の男装は大正末期〜昭和初期の中性的美男子のブームにものり、日本人の美的感覚に訴えやすい「美少年」として受容され、一気に男装の麗人ブームが起きた。

 FTMトランスジェンダーとしての川島芳子の誕生である。実は1年ほど、秘密にしていたらしい。FTMであること=恥ずべきものと考えていた芳子は「トランスした」ということを世間に公表するつもりはなく、「芳子」を行方不明にして、弟の一人として「埋没する」つもりだったらしい。しかしひそかに芳子を思っていた男性が芳子を「弟」と思惑通り間違え、芳子への恋心をうち開けたことで「恋しい人を見抜けないのか!」と芳子が激怒、秘密は露呈、恥をかいた男が世間に暴露したという話もある。

 そして「FTMになった」ことのいいわけとして浪速による近親相姦を避けるため、という話が主になっている。それ自体が物語だ、いや実際にあったなど説がいろいろあり、真相は闇の中である。いずれにせよ、当時の男装の芳子はいわゆる「新手のアイドル」が誕生したに等しく、芳子の本領が発揮されるのはそれから約7年後の24歳のときである。

 いったん「女」を清算すると宣言した芳子だが、男性に完全にトランスすることは一生涯なかった。それから2年後に幼なじみのカンジュルジャップと結婚する。「満州と蒙古の融和」そして双方の英雄の血をかけあわせることにより、新しいアジアをつくりだそうと考えた浪速の夢だったのか。だが、3年後にその結婚は破たんし、芳子は中国・上海に飛び出した。もはや家庭という小さな器では収まらない人間になっていたのだ。初恋の人の山家亨との再会が火をつけたという話もある。自由奔放だった芳子が田舎の生活にあきて家をとびだした程度だったのかもしれない。しかし上海での生活で知り合いの田中隆吉少佐に出会ったこと、これで歴史から忘れ去ることのできないFTMとしての芳子の人生が始まった。

FTMのスパイ・軍の総司令
  上海で「初恋の人」山家亨の「裏稼業」の知り合いを通して、1930年に上海駐在武官の田中隆吉少佐と交際をはじめた。田中が上海で諜報活動が主な仕事だった。田中は芳子にいう。「国民党行政院長の孫科(孫文の長男)の情報を取れ」。孫科の秘書として働いた芳子はその任務を成功させ、そのため孫科は失脚したという。芳子の初仕事であった。

 そんな中で1931年(昭和6年)芳子24歳のとき、田中の紹介で関東軍参謀、板垣の命である任務を引き受ける。21世紀に入っても尚残る負の遺産を作った関東軍大日本帝国陸軍の一つで、満州を含む東北部に駐留した軍であった。もともと遼東半島および満州鉄道警備を行う関東都督府の守備隊で関東軍として独立した組織になっており、旅順に司令部があった。日本の中国大陸に対する植民地政策のひとつである。そしてここの司令官もまた大陸で一旗あげようという野心の強い男たちが集まっており、日本政府の大陸政策に対するにえきらない態度に不満を持っていた。「おれたちのつくる『国』はおれたちでなんとかしよう」と考えたのか、1928年の張作霖爆殺事件、1931年その息子張学良を攻撃した満州事変と日本政府の承認なしでいわば「暴走した」戦略を展開していた。

 芳子の任務は元皇帝溥儀の皇后婉容の天津脱出作戦である。満州国建設のイコンとして先の皇帝を必要としていた関東軍は皇帝を旅順につれだそうとしていた。一方日本政府側が暴走する関東軍を警戒しており、皇帝に「いくな」とくぎを指していた。そのため内密に皇帝夫妻は脱出する必要があったが、皇后の脱出は困難であった。なぜなら皇后には皇帝以外の「男性」が近づけないからである。そのため、芳子に白羽の矢があたったのだ。王女であるという芳子の素性もうってつけであった。かくして、この戦略は成功、1月上海事変勃発の謀略に関与したあと、1932年(昭和7年)芳子25歳の3月満州国が建設されたのである。当初芳子は執政官として皇后つきの女官長となり、「安定した生活」をおくれるはずであった。だが、その話はなくなった。日本の関東軍よりの芳子に奥向きのことをまかせることに皇帝夫妻がNOといったからである。満州国建設後、芳子をモデルにした村松梢風の小説「男装の麗人」が出版されると芳子はますますマスコミの注目を浴びるようになる。そして芳子自身もそのような大衆の期待にこたえる言動が多くなる。

 1933年(昭和8年)芳子26歳のとき、芳子の人生最大のクライマックスを迎える。関東軍により満州国安国軍(定国軍)総司令に任命されたのだ。「満州ジャンヌ・ダルク」の誕生であった。その役職がマスコット的なものであったのかどうかはわからない。ただ、一般的な平時の軍隊と違って、関東軍そのものは「人材不足」であった。一応大日本帝国陸軍の一つであるからエリート将校にあたる日本人向けの役職に関しては女性が採用される余地はなかったであろうが、いわゆる傭兵のよせあつめのような安国軍であれば、「わけあり」の人材でもその価値があえば「名誉職」として役職につくことができた。満州帝国の皇帝の血をひく王女、そして軍隊での訓練経験あり、作戦の実績はあり、国家のアイデンティティを強化するための物語的ヒロインとしては「女性の軍総司令」というのは満州国のCIという点でも格好のブランドであった。芳子の部隊の兵数は三千とも五千ともいわれる。まさに小学校時代に豪語していた「三千の兵をひきいて」がジャンヌ・ダルクより10歳遅れて実現したのである。水を得た魚のように芳子は自分の部隊を率いて熱河作戦に従事する。単なる名誉職であるから、実際に戦闘に参加したかは疑わしいといわれる。しかし晩年の芳子をしたう元部下たちと芳子の命を縮めるほどの古傷を考えると物語ほどではないにせよ、実際に従軍して役割を果たしたのではないかと思われる。

★暗転!日中戦争・東興楼
 だが、 1934年(昭和9年)芳子27歳のとき気がつく。「満州国は日本の傀儡政権だ」。満洲国は満州民族漢民族、モンゴル民族による「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるはずだ。そしてそのためにやったことは芳子の理念「大アジア主義の思想にもとづいた清朝の復辟、清朝による自立的な国家建設」とぴったり一致していた。だからこそ、私を捨て命をかけて戦ったのだ。建国理念の「日本人・漢人朝鮮人満洲人・蒙古人」による「五族協和」だが、現実は日本人を一等市民とする階級社会だ。このままでは国内のみならず国外からも批判にさらされ、満洲国は崩壊する。芳子は講演会やマスコミなどで関東軍や日本の対中国政策を批判するようになる。芳子のいうことあ正しかった。だが、正しいからと関東軍や日本政府が意見を傾聴するか、というとそうではない。1935年(昭和10年)養父・浪速の古希の祝いを松本で大体的にすませたあと、満州に戻った芳子を関東軍に戻ってきたかつての愛人田中は芳子を更迭した。芳子は危険人物としてマークされる。さらに数々の暗殺未遂事件。暗殺をしかけてきたのは関東軍蒋介石、抗日組織、うらまれる原因は山ほどあった。
 そのころ、芳子は体に異変を感じていた。戦場で負った古傷の痛みが悪化してきたのだ。当時前線にでた多くの軍人たちがそうであったように、芳子も「痛みを抑えるため」鎮痛剤へ依存するようになった。

 芳子の最後の華は天津の料亭「東興楼」の女将である。このころは男装はパートタイムになっていた。ここでも芳子は経営者としての手腕を発揮した。働くボーイたちはみな安国軍時代の兵士たちであった。退役軍人の雇用保障でもある。かつての男装の麗人、女司令官、それが店の目玉で芳子の店は繁盛した。芳子が晩年に心を開いた数少ない女優、李香蘭こと山口淑子に出会ったのもこの「東興楼」である。

 だが、日中戦争の混乱の1938年芳子は暴漢に襲われる。関東軍は放った暗殺者であるといわれる。日本の政治活動家笹川良一に相談、芳子は日本に引き取られることになった。九州博多に日本の拠点をおいた芳子は博多と中国・北京を往復する。このときに日本のみをベースに日本で暮らしていたら運命は変わっていたであろうか。だが、時代は芳子の力を必要とせず、芳子の「清朝による支配」「五族協和」の理想とは逆方向に進んでいく。

 痛み止めで抑えているのは本当に古傷の痛みか。それとも心の痛みか。異国にあって尚中国を思う芳子の生活はあれていく。中国の資産家にやくざまがいの脅しをかけて金銭をせしめる。多くの友人・知人を暴言でおとしめて傷つける。かつて浪速にされた世代連鎖か、兄弟家族にはDV(ドメスティック・バイオレンス)。心を許せるのは飼っていたサル。それが30代を迎えた芳子の日常であった。かつての栄光に傷がつく、と警告してくれた人もいた。それでも聞く耳をもたなかった。しかし公的な立場の芳子は「日中の和平」のため、笹川良一、松岡洋佑、頭山満などの多くの政治活動家との交流を忘れなかった。一方で「日本人が怖い。中国へ戻る」かえった中国で日本の敗戦を聞いた。

 歴史にもしも?は禁句だが、もしも芳子がそのまま九州にいたら、命をおとすことはなかったかもしれない。

★芳子は「二度死ぬ」のか?
 1945年(昭和20年)38歳の芳子は中国国民党軍に逮捕される。パニックになる秘書小方八郎に、「うろたえるな!」と一喝堂々と縄についた。

 裁判はかなり杜撰なものだった。映画や小説などのフィクションまで「証拠」とされたのである。持ち前の弁舌で巧みに弁護するが、「中国人のために」という大義名分が通じない。「いったいなんのために」絶望する芳子。芳子の部下や雇用者たちも次々と逮捕される。だが、芳子は「知らぬ、ぞんぜぬ、誰だそいつは?」を通した。彼らを守るためである。そのおかげで命をとりとめた部下も多い。その一方で最後の最後まで死ぬ気はなかったようだ。「日本人」であることが証明されれば処刑はされないかも。戸籍をとりよせようとした芳子は愕然とする。養父・浪速は芳子を入籍させていたなかったのだ。これは重い意味をもつ。あらゆる手を尽くすが、1947年(昭和22年)死刑判決が下る。通常は二審三審とあり、日本では助命嘆願運動があったが、1948年(昭和23年)3月25日、銃殺刑に処せられた。享年40歳。41歳の誕生日まであと2ヶ月であった。「家あれども帰り得ず/涙あれども語り得ず/法あれども正しきを得ず/冤あれども誰にか訴えん」これが辞世の句とされる。
川島芳子の遺骨は日本人僧侶がひきとり荼毘にふした。粛親王と浪速の壮大な夢をのせた「玩具」は「灰」と化した。戒名「愛親璧薹妙芳大姉」、墓碑には「芳雲院龍珠東珍大姉」。

 浪速は1949年(昭和24年)芳子のあとを追うようになくなった。82歳であった。そして現在松本の菩提寺で芳子は父浪速と母福子の一緒に眠っている。ちなみに溥儀を含む皇族も多く逮捕され、刑に服したが、皇族出身で処刑されたのは芳子ただ一人であった。

 芳子には生存伝説が残る。漢奸の処刑は見せしめのため公開であるが、これは非公開であった。そして遺体の顔は銃弾で破壊され、芳子と証明できなかった等数々の不審な点がある。芳子が伝説と化した理由である。

 芳子の処刑を急いだ理由は芳子があまりにも中国国民党軍の裏事情に通じていたからといわれる。芳子が中国共産党の手にわたれた実質的に困ることになる。だから中国人か、日本人かにかかわらず芳子は「死ななければならなかったのである」。しかし、芳子が社会的に死ねばいいとも考えられる。孫科を通じて社会的に殺されたあと、蒋介石のもとで活躍したという話もあり、また、モンゴルなどで戦場につぐ戦場を傭兵としてわたりあるき、中国人・清朝というミクロの話ではなく、広く「アジア人のため」に戦い戦場で死んだともいわれる。英雄は生き続けるのである。

<つづく>