27年前の約束

ひとつカムアウトしよう。
私の経験の不思議な物語。


論理的にはありえないが、
結果論的には整合性がとれている。
ゆえに「妄想」と片付けられる。
しかし、「妄想」と片付けるには不可解な出来事というのがある。
そしてそのありえないことに助けられることも。
人間の人生にはそういうことがよくある。
科学的には説明のつかない「何か」。


いろいろな媒体で20代のころ、
ライフヒストリーのインタヴューをうけたことがある。


すさまじい人生。
「つらくなかったですか?」
ある新聞記者にそう聞かれた。


正直わからない。
つらかったのかどうかわからない。


「ハードボイルド脳の持ち主」とある友がいった。
身に起こる事件が過酷になればなるほど、
感情が抑圧され、理性的に処理しようと試みる。


だが、ひとつだけ耐え切った理由がある。
冗談みたいな話だ。


「10歳のときに40歳の私にあったことがある。」


「まじで!!!」
笑い転げた友。


10歳の私にとって、40歳の私はまさかという姿だった。
私の願望が形を変えてあらわれただけではと考えた。
しかし、その約束が夢の中というにはあまりにリアルだった。


当時の現実の私は絶望的な状況の中にいた。
心の中は不条理に対する憎しみにあふれていた。
そしていかにして効率的に復讐しようかとそればかりを考えていた。
夢の中で彼はそんな私の話に耳を傾けてくれた。


そして教えてくれた。
私の未来におこるべき展開。
そしてそのためにするべきこと。
そして約束。


「若いころの人生は波乱万丈、でも中年以後は楽になる。」
「そして世界で私の名前を知らない人はいなくなる。」
「怒りの感情を克服しろ。どんなにつらくても憎しみの刃を他人に向けないこと」


人生はその預言のとおりに展開した。


「若いときには時代や周囲の思惑に振り回される」とされた
私の身に起きる3つの不幸。
人に裏切られたり、味方のいない孤独な戦いを強いられる。
私が何か悪いことをしたというわけでなく、そういう運命だと。
また、時代のテーマとなる問題の犠牲者になりやすい。


身体を切り刻むような出来事がある。病気や怪我、事故。
ただし命まではとられないから心配しないように。


失踪。ただし悪いことがあってではなく、周囲からみて順風満帆にいっているときに失踪する。周囲に原因・理由がわからない。


ただしこれら3つの不幸は40歳を迎えるころには消えていき、
静かで平和な人生をおくれると。


ただしそれを我慢できずに感情を爆発させて取り返しのつかないことをするとNG。
なので、大事なことは「怒りの感情の克服」というわけだ。
とにかく40歳まで我慢しろ、ということだ。


「彼が私の未来を教えてくれた。」
「そして約束をした。」
「その未来を手に入れるために」
「怒りの感情を克服しろ。どんなにつらくても憎しみの刃を他人に向けないこと」


本当はバカがつくぐらい素直すぎる私。
何でもいいから何か助けがほしいとおもっていた。
だから、その夢の出来事を天恵ととらえて、素直にしたがった。


そして37歳。
そのとおりの方向に進みつつある。
不思議なほどに。


ただし、断っておくが、
その未来は無条件に与えられるものではない。
その未来にたどりつくための行動は必要だ。
でなければ私のみた未来の私とは違う私になる。
つまり選択肢は山ほど無数にあり、
違うゴールを思い描く自由は私にはあった。


しかし私はどうしても夢であった40歳の私に会いたかった。
彼に会うためには30年の月日が必要だった。
30年の月日が積み重ねるあらゆるものが必要だった。
私のなかの「まさか」を克服する必要があった。
常識で考えたらありえない自分だったから。
しかし私が「かくありたい」と感じた姿そのものであった。


私の禁忌となる弱点は「弱気」と「迷い」。
実際そのために「判断ミス」をし、失敗したことも数知れず。
その弱点も年齢と経験を重ねるごとに弱くなっていった。


人間は生まれたときに自分の設計図を書いているといわれる。
人生から死までを神がすでにきめているともいわれる。
知らないで迷いつづけるのは人なりけり。
しかし、すべてのシナリオを知ってしまうと人は生きていけない。
だからその人の目に目隠しをしてしまう。


私は「自分の死」と思う情景を夢でみたことがある。
しかしそれも実はすでに似た状況に遭遇したため、
その夢の意味が私の死であったのかどうかわからない。


ただ、大事なのは「選択した物語」にどう落とし前をつけていくか、だ。


私の場合はこの30年という長い忍耐の時間に意味があった。


論理的にはありえない「40歳の私との遭遇」。
だが、そこでつげられた未来は10歳の空想と片付けるにはあまりにもリアリティのある整合性のとれたものであった。


まず、3つの不幸の検証。


ひとつ目。旧家に生まれ、あととり候補として育てられた、障害者。
であれば、どうしても周囲の思惑に振り回される。
障害者、それ自体でも時代の思惑に振り回される。
人と違う、ただそれだけで排斥される。
ゆえに社会やに対する怨念を抱えやすくなる。


ふたつ目。障害者であれば、医療との対峙はさけられない。また、反抗心、反逆心、冒険心は受傷や生命危機のリスクを高める。


みっつ目。
あととり候補であれば、その人らしさはまず否定される。
周囲の「こうあってほしい」と本人の特性にギャップがあればその相克は広がるばかり。人間はその人の特性を全否定されてまで生きていけない。
だから、強いやつは失踪し、弱いやつは精神を病む。
基本的に私はいうことを聞く。だが本心は違う。
周囲の期待とのギャップが大きくなったとき私は姿を消す。


そして「30年の忍耐」。


実は少年犯罪の更正を確認するためには40歳という年齢がめやすになるそうだ。
15歳で犯罪を犯したとして、40歳まで保護観察をつづけ、40歳までに再犯がなくてはじめて、「大丈夫」と判断されるのだそうだ。


つまりそれまでは「不安定で油断できない」年齢だそうだ。


このことと「30年の忍耐」は効果的には一致する。


そして40歳の私。この装置は大きい。
ただ、やみくもに「30年我慢しろ」では人間は我慢できない。
しかも人に社会に憎しみを抱えての30年では途中で暴発してしまう。
それをさけるためには「30年の我慢」のなかに「みかえり」がないといけない。


それが40歳の幸せな私、ということだろう。


来世でもいいのかもしれない。
しかし、来世にはある大きな副作用が存在する。
これはいずれ話そう。


イスラームでいうところの「天国の理論」だ。
天国と地獄がなければ、人間は元をとるために無茶をすると。
こうした神が与えた奇跡を証明するエクササイズを私はもっている。


27年前のささやかな約束が今の私をつくっている。