「暴力団排除条例」3つの懸念


いきなり「正業」の検索件数がめちゃくちゃ増えている。


たぶん10月1日に施行された「暴力団排除条例」について、日本最大の指定暴力団山口組の司忍組長のインタビューをmsnニュース(産経新聞)がのせている。


http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111001/crm11100112010000-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111002/crm11100212000002-n1.htm


これについての反響なんだろう。


(下)のインタヴュートップで、
「それでは組の資金源はどういうものなのか」という質問に対して、
「基本は正業だ」と答えている。


この「正業」の意味がわかっていない人が多いのではないか?


「食うための仕事」=正業って何? - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り


過去に書いた記事では「食うための仕事」=正業と書いているのだけど、
いわば「まっとうな仕事」ということね。
きちんとビジネスとして成り立ってめしが食える仕事といいますか。


「正業をもて」ということをやくざの世界でいいだしたのは山口組3代目の田岡組長だ。

ばくちのあがりなど不安定収入をベースに生計をたてる古典的やくざ業では構成員が生きていけないと気がついた田岡組長は紛争が多くて一般企業が進出しにくい隙間産業の需要に目をつけてビジネスという考え方を導入した。


やくざが創業したビジネスで現在「かたぎの職業」とされている職業のひとつに「塾講師」がある、とかけば意外だろう、実はそうなのである。建設業もやくざの正業からかたぎになったものが多い。


そして親分の力量とショバ、土地をベースにした縄張りに依存した従来のやくざと違い、いわばネットワーク型の組織にした。


従来は組織をつぶそうと思えば、親分の首をとればその組織は衰退した。ネットワーク型の組織にすると親分の首をとられても別の構成員が新たな親分になるため、システムは簡単にはつぶれない。つぶそうとしても次から次へと需要がある限りシステムは継続する。

やくざの原理原則的ミッションは「紛争解決」だ。「紛争解決」のために武力行使もいとわない。だから暴力団、ともいわれた。新人研修では「法廷傍聴」を取り入れる。法律がわかっていないと仕事にならないからだ。さらに基本的には高学歴主義。いわゆるちんぴらは足をあらわせるために過酷な仕事をさせる…と聞いた。


人間社会に暴力と紛争とトラブルがある限り、やくざとよばれる職業集団は世界中どこにでも存在した。ちなみにアラビア語でやくざは「アイヤール」、エジプト革命ででてきたバルダギーヤ(ならず者)もそのひとつである。


暴力団排除条例」であるが、ちょっと気になること。


今回の「暴力団排除条例」施行の特徴は今までこの条例のなかった東京都、沖縄で施行されたことだ。それによって日本全国でこの条例が有効であることになる。そして、これは「一般人も罰則の対象になる」というところが大きな特徴でもある。


今までいろいろな論理で暴力団とのつきあいを続けてきた一般社会の人間がこれを盾に毅然としてことわれる、という考え方もあるが、知らないで一般人がつきあって罰せられる?などの懸念もある。さらに一般人が暴力団構成員を見分けられるか、というと難しいだろう。外見的(パンチパーマ、三白眼、顔の傷)、オーラ的(すごみがある)、または足をあらった元暴力団構成員(墨をしょったまま)となると非常にグレーゾーンになるし、まさか本人にといただすわけにはいくまい。


「一般人が暴力団構成員を識別できるか」。これが一般社会側が感じる第一の懸念である。


やくざ側からの視点もある。司忍組長のインタヴューで気になったポイントであるが、「10人くれば9人は破門になっている。」の問題だ。文字通りインタヴューを信じるとするとつまり構成員として管理されていない人間、「真のやくざ」でない人たちが「野放し」になっているということだ。さらに組長が「闇社会の治安維持われわれの役割」としてプライドをもって指摘するように管理外にある不良外国人の問題、これらの行き場のない「やくざでも一般人でもない『中途半端な存在』」というのが実は日本の治安問題に対して一番の危険因子なのだ。


「『中途半端な存在』はやくざつぶしでは解決するどころか、悪化する」これが第二の懸念である。


一般的には「やくざ」と「マフィア」と「反社会的集団」、「犯罪組織」などほぼ同じ存在と考えがちである。しかし、実態は「ろう者と難聴者は違う」「GIDトランスジェンダーは違う」といっているように決して似ているようでまったく違う存在であり、その関係性は決して一枚岩ではない。それぞれに「第三の価値観をもつ」存在というのがでており、たとえば「やくざであってやくざでない」存在は「やくざ」では追跡ができないし、統制・管理もできない。組長が指摘しているのはそれであり、ましてそれは一般社会でなんとかできるのか?また「統制・管理できない」という時点ですでに「闇社会の治安維持」組織としても弱体化している問題をかかえている、という気もする。この世界にもグローバリズムの問題がでている。


「闇社会で『天敵なきあとの治安』はどうなるか」、これは第三の懸念である。


この条例、薬物問題で悩むアメリカからの要請と聞く。現在メキシコでメデジンカルテルなどの巨大マフィアの崩壊によって、麻薬戦争がおきているといわれる。遠い南米でのできごとと無視しがちであるが、実は遠因になっているかもしれない。


メキシコで取引されている麻薬がアメリカ経由で日本で大量に流通している?それで麻薬組織がうるおっていると。だから日本の窓口をたたけ。そういう要望がでているのでは?とうがちたくなる。


また、一般人が手をだせないため、やくざがひきうけていた紛争解決をやくざに委託できない、となればその需要に対する供給はどうなるのか?ここに実は警察OBをいれたいがための条例という説もある。しかし「官」の人間が「民間の紛争に介入しない」というのは有名な話である。


暴力団排除条例」の真の目的が単純に元「官」の職業人が「民間の仕事」をとりあげて自分のものにするためだけに作られたとしたら、さきの3つの指摘事項に対する答えはまったく用意されていないことになる。つまり「運まかせ」である。


「自己責任・自己判断でなんとかして」ということである。
「窓口で聞いてくれ」とはいっているが、果たしてそのようにいくだろうか。


需要がなくなれば供給している組織は消える。だが、需要がある限りどういう形であれ「必要悪」というのは必ず残る。一番大事なのは「需要がない」状態にすること。


自助グループも「助けてもらいたい」人がいなくなれば消える。だが、「助けてもらいたい」人がいる限りひとつをつぶしても形を変えても手段を選ばず同じ組織が生まれ続ける。「手段を選ばず」ということは新たな「反社会的手法」が開発される可能性があるということだ。


最近は「パンがなければお菓子を食べればいいのに」的政策があまりにも多すぎる。
近年の社会情勢のなかで一番気になるところである。