理想的な政治思想…その前にだな!


政治経済の思想を考えるのは
実は私にとって苦痛なことのひとつである。


どういうのが理想かといわれても返答に困る話ではある。


だが、そのことに実は私自身の個人的事情が
強く反映されてしまうからにほかならない。


政治経済の思想というのは
すなわち私自身を強く問われることでもあるのだ。


まず一番大きなポイントになるのは、
「障害が障害になりにくい社会になるかどうか」である。
どんな状況であれ、まずそのことが一番に頭にうかぶ。


私自身のこと、そして私の友人のこと。


障害が障害になりにくい社会であるためにどうあればいいのか。


大事なポイントは3つある。


1.衣食住を維持できるだけの経済力を得られるか。
2.社会参加しているという自尊心を得られるか。
3.「自己実現」によって、人間の闘争本能、競争本能をみたせること。


逆にいうとこの3点が満たされないと人間は「屑」になる。
生活保護や障害者年金で障害者がダメ人間になりがちな原因は2、3がみたされていないからだ。
「健常者のなさけで生きている」という感覚が、人間としての自尊心を傷つけ、闘争本能は健常者へのルサンチマン(うらみ)へ変換されていく。


逆にいうと闘争本能による自尊心の向上により、社会参加への欲求がさらにで、さらにしれが自己実現へのエネルギーにかわる。
経済力はその「結果」でなければいけない。


闘争本能と自尊心と自己実現、社会的貢献と経済力はほぼ比例する、と私は考えている。いや、むしろそこをめざして生活設計をするべきだと考えている。


そのために必要なものはなにか?


障害者の自己実現で重要なことは「Wellness Life」、すなわち「健康」。
健康を維持するためのシステムがなければならない。
特に「障害」をもつ体をメンテナンスできるだけの
医療・工学的技術をもつこと。


それがあるとなしでは障害者の社会参加のQOLが格段に違う。
また、それがないと2、3を満たすことができない。


また、教育資源へのアプローチのしやすさも重要である。
教育をうける機会が健常者と同等でないとならない。
そうしないと人間の闘争本能、競争本能をみたすだけの基礎力をつけることができない。つまりスタートラインが違ってしまう。


そして実は盲点となりがちなポイント。


健常者の生活にエネルギーがあること。
健常者ががんがん経済活動を充実させないといけない。


これが本当に重要。


障害者や障害をもつものの仕事は健常者がやりたがらない仕事であることが多い。
ようするに健常者がやらないから、わけありの人間が従事して「差別化」することができたのだ。


ところが健常者の経済活動が悪くなると健常者は障害者の「すき間産業」にも手を出してくる。そのため、「わけありOK」の仕事がなくなり、障害者が仕事を得ることができなくなる。


結果、障害者にも生活があるのにもかかわらず健常者の生活が安定するまで障害者にはまったがかかる。


もちろん「障害者枠」という保護枠はあるし、それが必要な障害者も多いだろう。
しかし、一部の障害者にとっては2、3が満たせない可能性が高い。
「つまり、対等に健常者と競争して出世競争を戦いたい」場合である。
また、障害者枠にはいれない障害者もいる。
たとえばある種の発達障害性同一性障害などである。


そうなるとどういう社会システムがいいか…。

まず…社会主義はNGである。障害を克服する前に「消される可能性」大である。
それから、自然体で〜の社会はそもそも障害が障害になりやすい。
またエリートとかの選別に障害ぬきでなく、リベンジも聞かないシステムもNGである。
となると、障害をもつエリートをうみだしているイスラーム諸国にちょっぴり感心がいくのもむりからぬことである。

ただし、それも実は「安定していない」イスラーム国家であるから可能、という可能性もある。つまり、緊急時の代理人みたいなものである。

となると、アメリカと日本…ぐらい?タイはどう?
オーストラリアは微妙かな〜みたいなところ?
韓国は徴兵制の段階で障害/非障害者が選別されるからNGである。
軍事系は軍隊に障害者雇用がすすまないと無理だろう。

実は子供のときにあこがれた社会は「アメリカ」であった。
アメリカにはチャンスという自由がある。
「障害を克服する」というアメリカン・ドリームがあった。
障害を克服し、社会的に経済的に成功し、社会を牽引するリーダーになれる。
私はその影響をうけて子供時代をすごした。


ところが成長するにつれて、ジェンダー観、トランスジェンダー、性的マイノリティの観点でアメリカに幻滅した。


「もし自分が相手だったら…」相手の立場に立ってものを考えることのできないアメリカに驚いた。


さらに「男とは」「女とは」という形而上的なことにしばられるアメリカ人は「バカか?」と思った。


そして同性愛者差別のはげしさに「こりゃだめだ」と思った。
「障害」は克服できても、人種、ジェンダーは克服できないのだ。


ああ、生きるだけで命がけだ…。
でも古代ギリシャのスパルタみたいに生まれた瞬間に消されないだけまし…なのか?


たぶんイスラーム原理主義を生み出したエジプトのエリート候補たちも欧米に留学することで同じような幻滅を感じたに違いない。


有名なサイイド・クトゥブもアメリカ留学で「人を人ともおもわぬ差別的言動」にショックをうけ、イスラームに傾倒することになったと聞く。


現代のイスラームも反欧米的価値観により、欧米的思考を背景にイスラーム法を解釈しがち=「柔軟性ベースの個人主義なはずなのに全体主義的『ねばならぬ思考』になっていないか???」なので、警戒心はもっている。


とにかく民主主義とはなにか、自由とはなにか、を問う前に「私自身が殺されるか/殺されないか」でひやひやして政治的動向をみて日常を生きている…というのが正直な「私の現実」なのである。