「本人の気持ちはどこいった?」障害の受容−京都祇園暴走事件におもう−

世間に事件は多くあれど、私にとって忘れられない事件がいくつかある。


ひとつは有名な少年事件のひとつ、大津市障害者殺人事件」。被害者の青木悠くんは自身の努力によって交通事故による左半身の障害を克服し、で希望の高校に合格。なんとか障害を克服できるレベルに達していた。ところが、友人に「障害者のくせに生意気」とリンチをうけ、死亡した。

2001年の事件である。

滋賀・青木悠君リンチ殺人


1.saisinn


もうひとつはドラマ、「家族たちの明日」 第3話「最後の贈りもの」(2006年、CX)で再現ドラマが放映された、菅尾吉崇さん。脳がウィルスにやられる「髄膜脳炎」を起こし記憶障害を発生。認知症に酷似した症状で赤ん坊レベルにまで行動力が低下した障害を奇跡的になんとか克服し、友人と通訳会社を設立。司法書士をめざすため、勉学中のさなか2005年、JR福知山線脱線事故でなくなった。


妹が「公家のような」と表現した性格のとおり、たおやかな上品な男性の印象が残っている。ただ、遺体は「人間の顔ではない」と証言したとおりで遺体を着飾らせることもかなわず生前の意志だった「臓器移植」も損傷がはげしかったためにできなかった、というのは事故の凄惨さを思わせる。


そして今回の「京都祇園暴走事故」。いやいろいろな状況から「事件」といったほうが実態にかなっているという意見もある。なので私は「京都祇園暴走事件」と表現する。事件だとすると秋葉原通り魔事件に匹敵する大惨事だ。実際現場は広範囲におよび、「京都では、半世紀ぶりに経験する大事故だった」と消防局幹部が証言している。この件もトリアージが必要な状況だったという。


http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=57400


「歩行者7人が死亡、11人が負傷した」、しかも本人も死亡して8人の死亡、その意味では規模でいうなら「7人死亡、10人負傷」の秋葉原通り魔事件を超えている。


秋葉原通り魔事件 - Wikipedia


加害者の藤崎晋吾氏の写真をみて私が感じた第一印象、「女の子に見間違うようなこんなかわいい子がどうして!」というものだった。「子」という表現にあるとおり、30歳男性に思えないトランス前のMTFをおもわせる相貌、実際「男の娘」をやらせたらそれなりにグレードの高い「娘」になるだろう、実際関係者の証言では「女性的な気質を持つ優しい人」という印象が強い。


なぜか事故直後から「てんかん発作」では?という話がちらほらとネット上に飛んでいた。そして藤崎晋吾氏の姉がてんかんを「カムアウト」したことで事態は非常にデリケートな展開へとなっていく。


だが、一方で事件を慎重にみていた識者からは「てんかん発作」ではないのでは?という意見も出だした。事故のあったに京都市東山区四条通大和大路の交差点というのは意識を失った状態で長距離走り抜けるというのが困難な道である、ということからだ。そのやりとりの間、私は道路設計上の理由からきわめて低い確率ながら軽ワゴン車が通り抜けられる「空間」が存在した可能性も考えていたが、その後の調査から「事故当時」意識があったという結論になり、てんかんによる発作で四肢が硬直し、アクセルとハンドル(クラックション)がロックされた、という考えは完全否定された。

それを検証した記事については知人の三橋順子女史のブログをどうぞ。
図解されているのでわかりやすいです。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201204120001/
もしかしたら道の検証をした動画がネットに転がっているかもしれないけど…。

その後の死亡解剖でも加害者が薬を服用していたことがわかり、加害者は「てんかん発作」の障害をもつ当事者であったが、事件には「てんかん発作」そのものは事件と直接関係ないだろう、という見方が主流になりつつある。


しかし。こまったものだ。
てんかん」という言葉がひとり歩きして「てんかん」患者その人へのバッシングへ発展していきそうな勢いだ。「てんかん」患者のくせに…の言論である。


私はこの事件を「大変デリケートな事件」と考えている。なにがデリケートか、というのがたくさんあるのだけど、一番大きいのは一次的にてんかんが事故に関係ないとしてもてんかんによる二次的な「心理的障害」が事件のトリガーになった可能性が高いからだ。


先にあげた2つの事件とあわせてこの事件には大きな特徴がある。
「障害を克服した『障害者』さらなる事件によって命を落とす」という特徴である。
私の印象に残りやすい、という意味がわかっていただけるだろうか。
あまりにも「無念」なのである。


藤崎晋吾氏の場合、混乱しがちだが、報道の記事を整理すると次のような人生がうかぶ。

はっきりさせておきたいのは「てんかんの持病」がいわれているが、それが「障害」になりだしたのはここ数ヶ月、深刻な状況になったのはこの1ヶ月である。これがあとで述べる重要なポイントである。「長年つきあってきている障害」ではない、ということだ。


彼の障害のきっかけは10年前のミニバイクでの事故で当時頭蓋骨を切り開くほどの大変な怪我であったそうだ。その後障害を克服し、呉服店社員として働いていた。たぶんルート営業みたいな形で車を必要としていたのだろう。


ところがここ1、2年「てんかん発作」が頻発するようになった。そのために家族は家族会議をひらき、「車の運転をやめるように」といっていた。


そのいきさつがあったから事件があったときに姉がてんかん発作をカムアウトするという展開になったのだろう。「おそれていたことがおきてしまった」という気持ちからである。


この「てんかん発作」の状況について非常にデリケートな状況がここにある。
「家族」「医師」「会社」の認識がすべて違うのだ。
それはいったいなぜか。


まとめてあるブログがあったので紹介して抜粋する。
http://bibibi.info/w/%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81/%E7%A5%87%E5%9C%92%E3%81%AE%E4%BA%8B%E6%95%85%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%AE%E7%A5%87%E5%9C%92%E3%80%81%E8%97%A4%E5%B4%8E%E6%99%8B%E5%90%BE%E3%81%8C%E9%81%8B%E8%BB%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%BB%8A%E3%81%8C/

・3月に運転免許を更新したが、てんかんの持病については申告していなかった
・姉「会社にはてんかんの持病があると告げた。
   今の会社を辞めて、次の会社を探そうということになっていた。」
・病院院長「病院は車を乗ることは禁止しますとはっきり申し上げていた」
・母「本人が、会社にてんかんのことを伝えたと聞いている」
・勤務先の社長(70)「てんかんを持っていた?知らなかった」
・姉「弟が会社にどの程度説明したかは不明。
 会社には『運転できない旨を母に一筆書いてもらって』と返答されたよう」
・藤崎晋吾は「昼間に症状は出ない」と話した可能性がある

つまり、以下である。
家族:会社に伝え、転職することになった。
病院:ドクターストップ
勤務先の社長:てんかんの障害を知らされていない。
勤務先の人事関係?:運転禁止の証明をといわれた?
それぞれがどの範囲で共通認識をもっていたかは不明。

その展開になったのは「ここ1ヶ月の話」である。
これも重要なポイントである。


そして最後の重要なポイント、「本人の認識、気持ちの問題」である。
「ばかな!」とおもう人が多いとおもうが、病気/障害の当事者からするとそれが一番重要なのである。重要なポイントが本人死亡のために検証、証明することができない。


そして運命の12日、タクシーに追突したことをきっかけに、彼は「悪魔がとりついたかのように人格が豹変(私伊東聰の記事からうけた印象)」、ブレーキもふまずにハンドル操作をしながら190m暴走、そして電柱に衝突、自らの生涯を終えた。


てんかん発作の形には個人差個性があるとの話だが、さすがに「悪魔がとりついたかのように人格が豹変」というのはこの分野に不勉強だが、ないだろう。


いったい何がおきたのだろうか。
本当に「何かがとりついた?」
それで記事を書くようなオカルト主義者もでそうだ。
ちょっとまってくれ。


私も心霊系を扱うことがあるが、それに該当するのはわずか3%にすぎないということをいっておこう。


まずは医療でも「除外診断」というのがあるように、心霊世界でも「除外診断」はある。まず「常識的知識・知見で思い当たるふしがないか」から考えていこう。


ここからは私個人の推測にすぎないが、2つのシナリオがある。


<その1 クローズド障害者の弱点>
たぶん彼は自分の今の仕事、会社が好きだった。そのために転職をしないで仕事をつづける方法を模索していた。しかし家族は心配してあれこれ厳しくいってくる。さすがに説得されて転職の道をとおもっていたが、実は会社には「障害」をカムアウトしていなかったが、カムアウトしたがなんらかの厳しい状況になった。そんな折に家族が心配していたとおりに事故を起こしてしまった。てんかん」という「やましい病・障害」をかかえていたためにパニックになった彼は現場から逃走しようととっさに判断、暴走行為に。


<その2 突発的自殺願望>
彼がかかえた障害ゆえに克服して今の仕事を手に入れるのに相当な地獄をみた。しかしそれも克服しつつあった。ところが次々とおそう障害。ここ1、2年ではじまったてんかん発作を障害を彼は「受容できなかった」。日々高まる仕事を続けるリスク。家族、会社の同僚、友人の前ではもちまえのやさしさで元気に振舞っていたが、内面はずだずだだった。そんな折に家族が心配していたとおりに事故を起こしてしまった。ぷっつんきてしまった。「もういいや。」暴走行為に。

真相はあきらかになるのだろうか。

もしもこの事件が意図した大量殺戮であれば、浜松連続殺人事件(聴覚障害者)、津山30人殺し(結核内部障害者)、地下鉄サリン事件(首謀者が視覚障害者)につづく「障害者怒り爆発型」のシリアルキラーに名を連ねることになる。


■なぜこの事件について書こうと感じたか
高校生のときになんからのきっかけ(たぶん成績のことか)で「そんな格好(超ロングヘア)しているから悪いんだ」と家族にいわれて逆切れした状態で自転車飛ばし(大体時速40キロ)、交差点を飛び出しバイクを跳ね飛ばしたことがある。


幸い徐行運転中だったバイクの中年女性に大きなけがはなく、この件はそこでおわったが、心理的には思い出しても痛い悲しい忘れたいトラウマのひとつである。


それ以来、「まじめすぎる」「かたぶつ」といわれようが、感情が高ぶっているときは乗り物にのらない、車を運転する際は心からだのすべてを調整するようにしている。やはり「失うものが大きいからだ」


先に重要なポイントというのを3つあげた。


1.深刻な状況になったのはこの1ヶ月である
2.解決策が話し合われたのもここ1ヶ月である(ここ3日との報道もあり)
3.本人の認識、気持ちの問題


なにがいいたいか、というと「障害・病を受容させるにはあまりにみじかすぎるのである」。報道によると以下。


http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00221165.html

「全く車を運転せずに働き続けるか、それが無理であれば、
車を運転しない仕事に就くか、この3日間、ずっと家族で話し合っていた」


3日では短すぎる。逆にこの話し合いが事件のトリガーでは?とおもいたくなる。
短すぎるために本人の気持ちがおいてきぼりになっているという課題があるのだ。


これは医療コーディネートをする際大変重要なポイントなのだ。


多くの病気・障害を何人かみてきた、または何ケースか話を聞いた。その経験でいうと「1ヶ月」というのは大変危険な時期にあたる。「病気・障害を苦にしての自殺」をはじめとする問題行動はだいたいこの辺りに殺到する。


藤崎晋吾氏の場合も家族との話合いや問題解決の行動がここ1ヶ月に集中している。「ちくしょう、なんで俺だけがこんな人生に!」みたいないらだちはあったのではないだろうか。やさしいから家族の前では笑っているだろう。しかし仕事の支障をきたすほどのてんかん発作で本人の心はおだやかではなかったはずである。


そのいらだちを表現するチャンスはあったのだろうか。
そのネガティブな感情を周囲が封殺するような行動にでていなかっただろうか。
爆発して悪魔化しても人間せいぜい1、2時間しか悪魔でいられない。
怒りを表現するのにもエネルギーがいるから、「不条理な運命に対する怒りはだしてしまったほうがいい」。


怒りを表明したところで「現実」という正論にねじふえられることはある。
そのこともあって「やさしい」とされる彼はだせないまま一人でかかえこんだろう。


障害と闘っている最中の心理は…私も「やさしい」といわれるタイプの人間なので非常に誤解されやすい。なので心当たりがある。ある種の「悪魔がとりついたような大量殺戮願望」のようなものをもっていることがある。あとからふりかえると「なぜあそこまで」とおもうが、そのときはそれがとりついたようになっていて結構危険な心理状態になっている。


一番いいのはほとぼりがさめるまで「そっとしておいてくれるか」、「まったく関係のない楽しい方向に引っ張り出す」ことだ。それで「悪魔」が離れることがある。ささいなことのようだけど結構重要なスキルである。笑いながら悪いことを考えることができないからね…。


ブログかいたり、物語に変換することで発散することも重要だ。
一度出すとそういうものはおさまるのだ。


「悪魔がとりついた」
この心理状態のときに「問題に直面させる」のは結構きついものがある。
逆切れされて暴力をふるわれる、殺される、というのはこのパターンだろう。


また報道だけなのでわからないが、いくつかの報道からみえてくる状況におそらく多くの人が失敗するいくつかのリスクを感じる。


まず「本人置いてきぼり」。本人の気持ち感情を受容しないまま、問題解決の方向を本人以外が決めてしまうことだ。たしかに「てんかん発作」で事故を起こすリスクがあるから本人もノーとはいえないし、家族も解決にあせる。しかし本人の気持ちを尊重しない解決方法は本人の社会に対する秘密をつくる。感情の悪魔を閉じ込めてしまう。そして自分の障害を「やましい病・障害」と認知して回避行動をとろうとする。


それを感じたのは「母は区役所などに障害認定が下りるかどうか相談にいった」ということ。


「本人が有給をとって『行け』」
でないと自らの行動によって障害を受容していくプロセスがなくなる。
大事なことなのに。
要は本人が「NO」だったのだろう。


次に「問題解決の代替案がまったくない」。そのために本質的な解決に及ばない。たぶん「運転やめろ」「会社を変えろ」とはいうんだが、「じゃあ具体的にどういういうにしたらいいの?」と聞いたら「てめろで考えろ」。これは結構多いパターンで非常に発言に無責任。ふざけんな!とおもうよ。代替案をだすためには「本人の認識、気持ち」がわかっていないとできないんだよ。代替案をだせないということは単純にわかっていないのです。そんな無責任な言動に誰が心を開くだろうか?


これも「だれもわかってくれないから、秘密にして自分の好きなようにしよう」とおもうだろう。でも内心では気にしているんだよ。だから追突事故が起きる。脳は否定形を認識しないので「事故を起こさないように」と思うと「事故をおこす」。「安全な運転を心がけよう」のほうが起こしにくい。事故を起こした結果、やましいので逃げる。


「どいつもこいつも俺のことばかにしやがって」と破滅的行動をとる。


じゃあどうしても「解決しないといけない」場合どうするか。このケースはまさにそうである。悠長に本人の受容をまつわけにいかない事情があった。答えは「本人に決断させて問題解決をする」である。そのためには「本人と一緒に考えていかないといけない」。


このケースだと「仕事の営業で車が必要だ」「車が好き」。でも、「てんかんなので運転は危険」である。でここの課題は「なにがなんでも運転をやめさせる」ではなくて、「運転をしなくても営業をつづけることはできないか?」である。本人が仕事をつづけたいわけだから、、まず課題設定をそのようにする。これも「本人の認識・気持ち」がわかっていないとできない。そのうえでどういう方法があるかとシュミレーションしたり実際に行動する。


本質的に解決しなくても不思議なことが起こる。問題の本質を解決する方法を本人が見つけ出して最終的に解決する。シュミレーションのパターンが多ければ多いほど解決スピードが速くなる。「俺の問題はどうもほかの人には相当やばいらしい」とわかるのは実は自分の問題について第三者同士がやりとりしているのを聞いているときである。本人にぶつけられているときは防衛的になるのでまず反発されるだけである。本人は「障害とおもっていない」ことのほうが多いからである。


「車が好き」その気持ちは完全に受容しないといけないだろう。車が好きな盲目の人がいる。おいおい、となるが、その場合は運転は第三者にしてもらって乗っているとの話。そりゃそうだろう。究極をいうと危険なのは発作時なので教習所の車みたいに改造してかならず2人以上で乗る、があるだろう。アイデアはいろいろでてくる。


「不条理な運命に対する怒りを受容する」
「本人に決断、行動させること」
「本人の認識・気持ちを可能な限り尊重する」
「本人と一緒に考えること」


最後にいっておくとこれは今までの経験で9割以上の人ができない。
現代社会がいそがしすぎてせっかちになっているというのも原因のひとつなのだ。


特に本人置いてきぼりは本人にとって想定外の余計な事件の原因になるので、本当に腹がにえくりかえるとはこのことだ!と思うぐらい殺意を感じる。


「障害者だから」なんて夢にも思うなよ、おもいしらせてやる!みたいな。
でも、やりがちなので気をつけてほしいところだ。


そしてそんななか4つはわずかに1割にみたない人は私にしてくれたことで「大事だ」とおもったことだ。命、魂の恩人ぐらいにおもっている。


いいかえればすべての人間は「障害」をかかえたときにこの事件のようなリスクをかかえている。他人事ではないのだ。


悲惨なのは事件にまきこまれた被害者や同じ障害をかかえた「当事者」だ。日本という社会の価値観上いやおうなく社会的連帯責任を負わされてしまう。大変迷惑この上ない話でそれだけにメディアの与える印象には大きな課題の残った事件である認識を強調してこの話を終わりにしたい。


<終わり>