FTMの非嫡出子問題におもう その4


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[世間の「動き」に思う]FTMの非嫡出子問題におもう その1 - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り


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[世間の「動き」に思う]FTMの非嫡出子問題におもう その2 - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り


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[世間の「動き」に思う]FTMの非嫡出子問題におもう その3 - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り


私自身はこういう問題にどのように考えているか。


<本質的な問題点>
技術があるものを突破一からげに「絶対ダメ!」というのはどうかね。カトリックがそれをやりがちだけど、人間が苦しくなるような変ながちがち観になるのでそれは人間性をそこねるとおもう。また、依頼した人がどういう人物であるかによって、同じ技術でも待遇が違うというのは一番よくないとおもう。結局この問題も私が常に主張してきた「人間を管理する法的秩序」を最優先してシステムのもつあるパラメータで人間を分類することに「NO」であるの典型的な課題である。結局この問題も同様で「同質の問題」に対して「AID」「FTM」「男性」「非嫡出子」のキーワードで処遇が絶対的に違うことが問題であると考えている。


結局は同じ「人間」だろう。


「子供の父」、「社会的父」であり「生物学的父」でないという点で何が違うかね。
たしかにFTM、父になることはありえん。でも「AIDの父」だって同じだろう。DNA鑑定で父子関係なんか完全に否定される。「非嫡出子」。法的にはあまり大きな差別はないといわれるが、慣習的な社会的スティグマが大きいのだろう。今はわからないが、昔は就職結婚に思いっきり影響したはず。しかも子供時代の友人づくりにも影響した。そっちのほうがシビアだろう。


経験的に家風が「経営者」系「自営」系だとあまり気にならない傾向がある気がする。おそらく「家族」=「会社経営」なのでもともと養子縁組をはじめとする柔軟な解決能力を必要とし、かつ「マイルールを適用しやすい」からだとおもわれる。


しかし「役所」系、「水商売」系だとシビアな気がする。前者は「他人のルールの上で生きるから、世間が気になる」で後者は心的外傷が理由である。


その図式はGID当事者をはじめとする障害者の生活のQOLにもみえている。


なんでこんな「瑣末なこと」でもめるような法的解釈するかね。
なんでそんなことで人の人生かき回すかね。
父母の生物学的ルーツだけを履歴で確保して、あとは「子供」でいいとおもう。
そのほうがシンプルでしょう。


<生物学的ルーツの履歴>
ただ、これだけは絶対的に確保しないといけない、というのが「生物学的ルーツの履歴」。もちろん社会的秩序をたもつためには「形を整える」ということが重要なので、誰でも見える状態になることは望ましくないが、当事者が確認できるようにしておくことは重要と考える。


「いわゆる真実の告知」
である。


やはり個々の人間の生物学的な違いというのは大きい。


特に「実父母がわからない」ということの当事者の心身のダメージは経験したことのない人にはわからないほど大きいものである
。遺伝子上の差異というのは結構気になるものなのだ。


「家族」「●●家」のとは簡単にいうが、実は生物学的性質を長年にわたって積み重ねたが上の文化的な形成だったりする。それとまったく違う性質のものがはいってくるとトラブルがおきやすい。そのときにやはり人は自分のルーツを知りたがるものである。誰のどういう性質を受け継いでいるかを参考にするのは身内の血縁者だったりするだろう。それがわからないというのはかなりしんどいものだ。


これも私自身ではないが身内に当事者がいた経験上の話になる。特に他の血族の人間を「実子として」育てると文化があわなかった場合にその「実子」が結構つらい思いをすることが多い。養子の場合はわりきって自分の人生を生きることができるのだけど、「実子」になってしまっていると「実子」以上に気を使う。2012年今期の大河ドラマ平清盛」のようにそのハンデをばねにして大活躍する人もいるが、まず普通の人には無理。ドラマで叔父の忠正がいった「実子だったらやんちゃがすぎる、ですむが…」をまさに私はリアルに見聞きしている。


たとえば軍隊系の家系で一人だけ「新宿のホスト」をめざす場合、実子だと素直に自分の道を選びやすいし、養子だと反対が大きければ養子縁組解消すればいい。だが、「実子」でない「実子」だと「自分の道をいく」が心理的に難しいだろう。つまり心理的にかなり束縛されるし、親も束縛しがちになる。


「悪い遺伝子をもっていないか」という視線にさらされるつらさもある。


イスラームでいうところの血統の尊重に「なるほどな」とおもうのはそこなのだ。養育は「何人」でもしてくれるとありがたい。力のある人なら何人でも育てればいい。しかし血統だけは生物学的背景をもつ文化継承だとおもったほうがいいだろう。非血縁者で「あわない家風に人生をつぶされた人間」を私は何人も知っている。


「安易に考えないほうがいい」と警告する。


<障害者、という課題>
もうひとつ私がナーバスになりがちな大問題とおもうのは、「障害者問題」である。あまり自然とかけはなれて技術にたよりすぎると「障害者」の生まれる率が増えるのだ。


「障害者が生まれなくなる技術を」という言葉をよく聞く。この言葉自体はかなりデリケートでセンシティブな問題をはらんでいるのだが、実際に生まれて生きている「本人」に向かって「生まれてくるな」「死ね」というから大問題になるのであって、実際「健康体」で生まれるにこしたことはない。実際障害をかかえるといろいろな意味で「人生にめんどくさい仕事がたくさん増える」からだ。


俺だってもっと自分の楽しみに人生の時間を使いたい。障害克服に使うなんて「ばかばかしくて」。だって時間もコストも2倍かかるんだよ。普通の生活するのに2倍。どれだけの金食い虫だ。でもそれをしなかったら「めしが食えなくなる、他人の世話にならんといけなくなる。」まあそういうことだ。


とはいえ、誰でも障害者になるし、障害があるからこそ、技術も物語も生まれるのでかならずしも100%いなくなるというものではない。やはり「神の贈り物」なのだろう。


「子供がほしい」というときに「障害児が生まれること」を望む人はいない。だが、不自然な生殖、分娩によって子供が障害をもつことなんてざらにある。それをひきうけられる人はそう多くない。また高齢になってから生まれた子供にもリスクがある。ひとつは親が高齢だと自立するまでの時間が足りない。また、基礎体力のない子供も多い気がする。実際子供が生まれてから両親がなくなった、障害者になった、みたいな話もある。そうなると子供は悲劇だ。


1979年に「三菱銀行人質事件」を起こした梅川昭美。望まれてやっと生まれた「愛された」子供にもかかわらず8歳のとき父が病気で倒れてからあっという間に転落人生。「親が高齢だから早く人生成功させないと」と考える「孝行息子」。それがあだとなってせつな的に考えたのが悲劇の始まりだったか…、ただのワルの銀行強盗に終わるはずが自らが命を落とす歴史に残る大事件にしてしまった。彼のようなのは極端としても人が人として育つのに「親が高齢」というのはリスクが高い。

梅川昭美 - Wikipedia


「人ひとりの人生をかかえる」というのは容易なことではない。そこを考えると生殖技術への依存というのは好ましくないとおもう。ましてせっかく生殖技術で生まれたのに子供の障害にふりまわされて、または子供が障害にふりまわされて悲劇的な最後を迎える。そんな展開にしないためには生殖技術をつかうほうが法律よりも「相当」人間をえらぶとおもう。



<最後に、個人的主観>

この問題はあまりにも難しくて答えはでない。でも私の友人にAIDを望む当事者がいる。提供者は兄弟になる。静かに暮らしたいと願っている。私も友人に幸せになってほしい。

ただ、私自身は「子供をつくれなければ人ではない」ぐらいのことをいわれつづけて生物学的生殖信仰にずだずだに心を引き裂かれて生きてきた人ので、「子供をつくれて当たり前」という価値観には懐疑的である。それだけが人生ではないし、人間社会には子供を養育する暇がないほどのそれ以外の仕事もたくさんある。


プラトンは子供はいないが、哲学を残した。


そういう目でおもうのはあまりにも「当たり前」化しすぎた「結婚」「生殖」。それが「常識」として強迫観念になりすぎて人間を生殖マシーン化しているような気がする。「結婚」「生殖」の幸せのありがたみというものがなくなっている気がする。性的少数者への差別、障害者への差別、根っ子に人間を「子作りの道具」としかみなくなった近年の風潮が背景にあるとおもう。


ただ縁があって結ばれる。ただ縁があってそこに生まれる。そういう至福の喜びが一番大事なこととおもうがいったいどこで「結婚せねば」「子供つくらねば」みたいな変なプレシャーが生まれるようになったのか。それは関係者にも失礼な話だろう。


どちらかというと私が問いたいのはそちらである。


子供でも技術でもなんでも「神がくれたもの」なら素直にうけとればいいんじゃない?


神の心にかなってなければ「絶対失敗するから」、それでぜひを判断すればいい。
そのために歴史学イスラーム法学があるんじゃないか。
それを人間の瑣末な価値観でがちゃがちゃするのもあほくさ。
私の基本的な価値観はひらたくいうとそれである。


ただ、日本て宗教嫌い、自称「無宗教」「無神論」の人が多いので、彼らの言葉で津伝わる表現で私の気持ちを表現するのは難しい。


だからあまりいわなかったというのもあるが。


以上、長くなりましたがおわりにします。