「ノマド」に思うその3−「人間としての基礎力」=「トイレ」と「食事」から
ノマドワーキングとは。
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[世間の動きに思う]「ノマド」に思うその2−「シングルファーザー」 - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り
さて本題の苦言にはいる。私の物申す!である。
先日経理をお願いしている方からあるアドバイスをいただいて
ふっとみえてきたものがある。
実は私が聴覚障害で他者とのコミュニケーションが困難だったことと、
一匹狼でフリーのエンジニアをずっとやってきていたことで
わからなかったことがたくさんある。
会社を興してみて、実際にほかのエンジニアや会社の営業部、経営者と話して見て、
「そういうことか!」と思ったことがある。
フリーランスとかフリーエンジニアの評判が悪いのである。
個人事業主の評判が悪いのである。
フリーのエンジニアはプロジェクトに結果をださなければ
たちまちに失業する仕事だから一番プロ意識が強いはずなのだが、
どうもそうでない一面もあるらしい。
で、いざ会社やってみると実際にその状況を直視することが増えてなやんでいた。
ストレートに指摘すると「逆切れ」されるということが私には多い。
最終的にはわかってくれることが多いがかなり消耗する。
本来寝込むほど弱い身体である。倒れるわけだ。
そのためちょっとした対人恐怖症になっているところがある。
そのことは私自身でも長い間の疑問&悩みだったのだ。
でも鬼にならないといけない理由はある。
彼らのおかした間違いの「尻ぬぐい」がほとんど私にまわってくるからだ。
結局時間がほしいのに時間がなくなる。
というわけで「ノマド」には思うことがあるわけよ。
「ノマド」で自由に働けると思っているだろう。
いろんなフリーランス系の本を読むと「フリーランスは厳しいよ」と
いうことをしょっちゅういわれているだろう。
実際に思った。
「人間としての基礎力がない人が多い!」
「だからフリーランスが厳しいよ」といわないと、安易に参画して人生つぶすやつが多すぎるのだ。
ところがここが大きな問題がある。
私が思っている「人間としての基礎力」って何?ということなのだ。
これを説明しようとしてものすごくなやんでなやんでなやんで
今まで時間つぶしてしまっている。
「常識」だと思っていることを言語化するのはかなり難しくて、
まず私の常識がどこからきているかということを自覚した上で
相手がわかるように説明しないといけないが、
自己完結しすぎた人生であったために「私の常識がわからない」のだよ。
そんで友人知人には「特殊な人生を歩んでいて常識が違う」という指摘を
うけるが、具体的なものがないから余計にわからないで
なやむだけで時間がすぎる。
問題が解決しないからその間何もできないのだ。
子供のときから非常に「困った」。
「教えて」というと「てめえで考えろ」といわれる。
自分で考えると「違う」といわれる。
どうしようもないよね。
変な自己責任論だ。まあ詭弁でしょう。
そんなある日、2006年ごろかな転機がおとずれたんだ。
とあるIT研修で「伊東さんのもつ『京都文化圏のものだ』」と教えてもらったのだ。
私が人を判断するときに大きなポイントが2つある。
「トイレの使い方」と「食事の仕方」なのである。
あと車を運転する人であればそれも。
「車」と「トイレ」と「食事」はその人の脳神経的な認知能力や哲学、人生観、教育の質とレベル、すべてをはっきりとうつしだす。
「トイレの使い方」。
ある早期リタイヤをめざす男性がいたんだよ。
当時「金持ち父さん、貧乏父さん」がブームだった時代でそれについて我が家でたくさん語ったのだ。
ところが私がトイレにはいったとき。「ん?」
出たときに彼に伝えた。
「トイレの便座とふたをでるときにきちんとしめたら金持ちになれるよ。」
またある友人と食事をしたときだった。「ん?」
牛丼食べる「筋肉マン」よろしく両ひじをはって、かまずにご飯を「飲み込む」のだ。
みていて一緒に食事をするのが気持ち悪くなり、「どうしてそういう食べ方をするのか」ときいて見た。
一瞬彼は固まったのだけど、「『男らしい』食べ方がそういう食べ方だ」と教わったというのだ。
「体こわすよ」と私。
そして咀嚼をしないで食べることの胃腸に与える影響とか食事の際の見た目の美的感覚のことで人間の立場、所属する社会が変わるということを伝えた。
よい社会的立場につく+金持ちになるのに重要なポイントがこの「トイレの使い方」と「食事の仕方」にあると私は確信している。
ちなみに「車の運転」はその人の脳神経的ハードウェアの仕様を知るために一番正確だ。
なぜならこの「仕様」からはずれた行動はその人にできないから。
「車の運転」ができない、やらないもひとつの判断である。「車の運転」する能力のバランス感覚が「悪い」=多種多様な判断をするには不器用ということになる。
そんな人にいっぺんにいろんな仕事頼んだら失敗して当たり前。
「トイレ」と「食事」。要は気配りと美的感覚とその人の器をみるとのいろいろある。
特に金持ちになりたかったら「トイレ」は重要。
「食事」関係だが、「食事」の作法にうるさい、というのは「京都」の常識らしい。
日本人のマナーとしていわれるが、日本のマナーというのは「京都」の宮中、神道的な儀礼のマナーを指しているらしい。
経典でいえば、延喜式がベースになっていて、それを「礼法」にしたのが小笠原礼法。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%96%9C%E5%BC%8F
実際にきわめてしまうとイスラームの食のタブーなんて楽さと思うぐらい、厳しい。
そんな話を友人としたところ、かなりデリケートな話で「人間を区別するために生まれたのでは?」との話だった。
「人間としての基礎力」というのは私は「トイレ」と「食事」にみられる気配りとか美意識とかそういった京都由来の儀礼的なものをさしているようだ。
それが7歳から表千家茶道の家元あととりとしてそだてられた感覚、
それが私の「常識」のベースになっているようだ。
ただ、あまりに小さかったのとコミュニケーション能力の障害で、
言語による論理的な再構成というのがうまくできていなかったために、
その体験の「世界的位置づけの確認」と「相対化すること」が困難になっていたのだ。
なので説明ができないし、説得もできないし、私が「非常識だ!」とおこっても
おこられた人は「なんのことかわからない」という悪循環に陥っていたらしい。
「茶道の世界を知っている人であればさとしくんの考えていることわかるんだけど」との話だった。
「トイレ」と「食事」は実はビジネスにおけるあるルールのメタファーでもある。
INPUTとOUTPUTのことだ。
いれたものだしたもの。
「食べたら出す」。
ここにきちんとけじめがつけられるかということだ。
INPUTとOUTPUT。「きちんと〆や気配りができるか」ということ。
食器やトイレなどの「ものの扱い方」ひとつとっても
非常に精巧な気配りの作法があるの。
時間の流れを守ること。
全体の流れをみられること。
そうすることで伝えることができるのは「他者に対するおもてなし」の心だ。
実はこれが「わからない人」が非常に多い。
で、「ノマドだ、自由だ」という。
信頼の貯蓄ができないから、食べていくことができないよ。
たとえば一番許せないのは「締め切りを守らない」
→プロジェクトパーで数億円の損害でるかもよ?責任とれる?
次に許せないのは「時間の流れと場の雰囲気を破壊して悪気がない」
→モラルハザードとハラスメントで取引先の会社つぶすよ?
たとえば「客の金で自分の『勉強』をしようとする」
→プロジェクトは勉強の場ではありません。
たとえば「督促されてはじめて仕事する、報告する」
→論外。私の時間をとって「監視しろ」というのか?
たとえば「客の満足度を得るリズムで仕事をしない」
→具体的にいうと頼んだことすぐやってくれなきゃ。
たとえば「見積やスケジュールの調整が一方的でぎりぎりである」
→あの〜あなたのやりたいことではなくて客がやりたいことなんだけど…。
たとえば「案件をうけておいてうけっぱなし」
→督促したら「やってません」悪気なし。よく言えたな。
あげくの果て。
→障害者手帳は印籠代わり。
「障害者だからできませんというの。許してくれるよ。」
某美人女社長。それ違う!結局会社つぶした。。。
ありえへん…。
<つづく>