☥ 硝子の楽園 伊東聰 003

首島から見る瀬戸内の海がこんなに美しいと思わなかった。東日本の海にはこのような景色はなかった。少し車を飛ばせば「日本のエーゲ海」とよばれた牛窓という町に着くのだが、まるでエーゲ海のある島に上陸したような雰囲気だった。

桟橋から見上げるとめだつ白亜の洋館をめざして歩いていたらどうやら本当の入り口を見失ったらしい。洋館の所有者のものだろう。貯水池の横にでてしまった。 「どもこに抜ければいいんだろうなあ」。「俺」はあたりを見渡した。

ふとみあげると人影がみえた。洗濯物を干したあとにふと海のみえる景色に心をうばわれている。そんな雰囲気の人影だった。「ちょっとすみません、この洋館の入り口は・・・」。「俺」はその人影にちかづいていった。

「あっ」。不用意だった。下調べをして心の準備をしていたはずだったが、その人影が振り向いた瞬間に「俺」はひどく驚いた。驚いた拍子に足をかけていた岩がぼこっとはずれるのを感じた。「ああああ」。背中から落ちていくまさにそのとき。

白い手が「俺」の右手首をつかんだ。「すみません、おどかしてしまって」。甲高い声が聞こえた。声と手の主はその「人影」だった。「あああありがとうございます。」 「まず左手をその岩にかけて。で、右足をそこに。大丈夫ですか?」

「ここここちらこそ申し訳ございません。あの…」。「ここからあがってしまっていいですよ。私もうっかり油断してしまって…」。浦神氏だ。この館の主だ。「こちらも大変失礼なことを」「いえいえ」 ぐいっと「俺」は引き上げられた。

さきほどの動揺が消えない。「俺」は洋館の応接間に通された。おそらく先祖代々ひきついだ洋館をリノベーションしたのだろう、中はそれほど古臭くなかった。ここには浦神氏一人でいるだろう、手づから珈琲をもって浦神氏が入室してきた。

「真島です。さきほどはすみません。」「浦神クリニックの院長をやっております、浦神です。こちらこそすみません、普段来客があるときは気をつけているのですが。」意外なほど品のある高いやさしい響きの声の彼を「俺」はあらためてみつめた。

前もって話を聞かされており、それなりの心積もりをしていたつもりであったが、浦神氏が表社会から消えた理由がよくわかった。今はストールをかぶりある程度印象をやわらげてはいるが、特徴的なのはその頭から顔の「熱傷」の傷跡であった。

「ひどい傷でしょう?これでも何十回も形成しているんですよ。残念ながらやはり『本職』だから『限界』というものが自分でもわかるんで。とはいえ、『本職』だからイメージがね…なかなか難しいところで。」笑顔は百難を隠す。浦神氏はいった。