☥ 硝子の楽園 伊東聰 016

「秦野」浦神氏の声の調子が変わる。「『俺』がどういう人間だったか、忘れてしまったのか?思い出させてやろうか?」残った左目がきらりと光る。秦野が畳みかける。「誰のおかげで生活できていると思っているんだ?え?セイちゃんよ?」

「別に」浦神氏がいう。「お前に生活支えてもらいいるつもりはない。これは警告だ。あぶない仕事を引き受けるのはやめろ。近頃お前は調子に乗りすぎる。とにかく離せ」「そんなこというなよ、セイちゃん。頼むよ?機嫌なおしてよ」

秦野が浦上氏のあごをなぞる。男としては華奢な印象のあるそのあごには熱傷の痕跡はなかった。そのままきれいな肌を指で追って唇をなぞろうとする、浦神氏が顔をそむける。「機嫌?『俺』は最初からこういう人間だが?」

「こういうことに恥じらうような『関係』ではないだろう!俺たちは!」秦野が浦上氏の肩をつかんで引き寄せる。「秦野、『俺』は疲れている」秦野をまっすぐに見つめて浦上氏が再度いう。「頼むよ?、セイちゃん、我慢できないんだ。」

「東京にいれば『男』も『女』も老いも若いも自由だろが!」「『商品』に手をだすほど俺はバカではないさ。それに『お前』はひとりだけだ」「悪趣味なやつ」「悪趣味でもいいんだよ。俺の欲求みたせるの、セイちゃんだけなんだよ!!」

しばらくのにらみあいが続く。「客人も来ている。年頃の子供が上で寝ている。『俺』は疲れている。しばらくここで考えごとしているからその間だけは『勝手にしろ』」「いいの?」秦野の目が猟奇的にかがやく。グラスをあける浦上氏。

秦野を無視してソファーの上でじっとしている浦上氏。秦野が右腕のシャツのボタンをはずし、袖をまくりあげる。その腕に熱傷の傷はない。かすり傷ひとつない白い肌だった。秦野は浦神氏の腕をとる。残ったスミノフをその腕にかける。

スミノフがつーと浦上氏の右腕を伝わり落ちていく。指先から液体がしずくとなってたれる。「白魚のような」といえる傷一つない指先。浦上氏は目をつむったまま動かない。秦野はその手をとる。そしてその指先からたれるしずくをなめとる。

「この指…この手…。天使の手、いや堕天使、いや神の手…。すばらしいよ…。お前の技術…。」指をくわえこみ、しゃぶりつづける。浦上氏は微動だにしない。ただ、秦野の欲のままに手をあずける。そのまま時間がすぎていく。

「まあ…『大人の事情』ってやつだな。まあいろんな嗜好があるのはあるんだが…」「俺」はぐるりと寝返りをうった。「しかしなんかひっかかるなあ」この「違和感」が実は大事件のカギとそのときはさすがに気付かなかった。

秦野は満足して部屋へ引き上げていった。浦上氏はソファーから身を起こすと浴室へ向かった。そして洗面台で秦野の欲望の痕跡を洗い流す。「太一」浦神氏がいう。青い顔の太一が洗面台の鏡に映しだされている。

「太一、私は大丈夫だよ」浦神氏がいう。「あの男許せない」太一は怒りに震えている。「ダメだよ、太一、お前の親分は私だ。私がダメだというのだ。意味わかるね。」「うん、わかるよ。秦野は『大事なお客さん』だもんね。俺わかるよ」

太一は怒りに震える彼自身を必死に抑えようとしている。「そう、いい子だ。太一、私は本当に大丈夫だからね。太一が腹をたてて秦野に何かしたら、そのほうが私は困るんだ。」「うん、わかる。怒りにまかせて暴れることは悪いことだよね。」

「そうなんだ。腹を立てて相手を殴ったりするのは『悪いこと』なんだ。太一は我慢している。いい子だね、太一」太一の感情がだいぶ落ち着いてくる。「今何時だろう。そうだ、陽菜はきちんと寝られているのかな。様子見てくれるかな、太一」

「うん」子供のように2階へかけていく太一。ふう、とため息をはく浦上氏。周囲を見渡すとシャツをぬぎすてる。そして体を清めるべく浴室へ入っていった。

自らの「欲望」を満たされた満足感をみやげに秦野は夜明け前にこの島をさっていった。「おはようございます!」いつもの空気を読まない太一の「モーニングコール」に起こされ、いつもの「微笑み」の浦上氏が迎える。そしていつもの朝食。

いつもと違ったのは怒りの気持ちで鼻息のあらい昭子さんの秦野に対する「罵倒の声」だった。浦上氏は何もいわず受け止めている。「まったくあの男。先生もびしっとしてくださいよ!ああいうのは許すと図に乗ってエスカレートするんだから」

「あの娘の調子を見に行きたいけど、どんな状態?」話をはぐらかす浦上氏。「まあ見た目には気持ちは落ち着いていると思いますが、先生!今回の件は考え直したほうがいいですよ!あまりにひどすぎます!」「ちょっといってくる」

「先生!本気で考えてくださいね!先生!」あとを追うように昭子が声をかける。「まったくなんであの男をうけいれているのかわかんないわ。ああ、きもい、きもい」「いつもそんな感じなのか?あの男とは?」「俺」は昭子に聞いてみた。

「ええ、元恋人とか、いわゆる『アニキ弟』ではないと思うのだけど、なぜか先生あの男の言いなりになるの。もちろん最初は抵抗するけどね。でも最終的に受け入れる。はがゆくてしょうがないのよ、正直言って。いつも『なんで』と思うの」