2つの障害をもって生まれてよかったこと その1

 この質問ほど、いやなものはない。

私が一番嫌いな人生のシナリオは
「障害を中心にして人生を生きることだ」
「自分がこういう人間だからこのテーマを研究テーマとして選びました。」と人に話さなくてはならなくなることだ。
それは聴覚障害に関しても同じことだ。

ダブル障害者であることは実は本音、救いようがないほどつらい。

「聞き、話す」に障害があるくせに私はディベートや弁論、弁舌が大好きだ。

だから、中学生のときに2度ほど校内の弁論大会で2位に輝いたことがある。
しかし1位にはなれない。
原因は判明した。
「日本語としてきれいでないからだ。」


ところが、学校側は内容的には弁論大会で全国大会の候補としてだしたかったらしい。
次のようなことをいわれた。
「『耳が聞こえないこと』を最初に言ってから弁論にはいってはどうか」
言葉の発音が悪いことで大幅に減点されることをふせぐためであった。

私はいった。
「私の弁論が『耳が聞こえないこと』を前提にしてしか成り立たないのであればしょせんはその程度の実力・内容でしかない。もしも、そうしないと勝てないというのであれば勝てるほかの方を出してください。」

そういう性格だ。聴覚障害にせよ、ほかの障害にせよ、私は必要最小限の具体的な要求しか人に話さない。まして実世界ではほとんどはなす配慮の必要性などない障害についてはかたるも論外。

 ただ、そういう性格であるが、たったひとつだけ「2つの障害のある当事者でよかったこと」がある。
それは「耳が聞こえない障害とはどういうことか、耳が聞こえること=コミュニケーションがとれることではない」
ということを知ったことだ。

これはもしも私が「2つの障害のある当事者でよかったこと」でなかったら絶対に知ることのできない側面なのだ。

と、いうのは一方の障害の問題を追及することで聴覚障害をもたないのにコミュニケーション能力がない人々と多く知り合うことになったからだ。