「障害者」が「人間」になるため−「甘え」を考える

過去の某掲示板の投稿より

「甘え」というのは本当に難しいと思う。極論をいうと社会で想定されていない人間として生きるというのは本人の不可抗力だったとしても結局は自業自得であり、甘えでしかない。世間的には。

たとえ先天的障害であったとしてもそれは生まれてきた「本人」の責任で生まれてきた以上はその責任を負っていきなければならない。後天的に事故で障害を負うことも本人の責任であり自業自得である。少なくとも五体満足に生まれて普通の男女として生まれて子供が生まれてそれを養育して老いていく。そういう生き方ができない人間というのは世間的にみたらすべてそれだけで甘ったれて生きているということになる。その理想をはずれたらどんなにいいわけしてもそれは甘えでしかない。それは厳しい世間の現実である。逃げたいと思っても生まれてきた責任をまっとうするためには勝手に死ぬことも許されない。

けれども実際にはそれを「個人の責任」としてその当事者のみに責任を負わせてまっとうさせるにはあまりにも精神的・社会的・経済的コストが高すぎる。たとえば障害児を五体満足の人間に近いレベルにするために、どれほどのコストがかかるか知っているだろうか?100万、200万ではない。


私の経験でいっても1000万はくだらない。これで実は3年間教育訓練をうけただけの最低ラインだ。出産時の事故で障害を負った子供を学生結婚した親が育てられるはずはない。やはり親の両親の援助があった。


そしてそれだけのコストを払ったら本当に五体満足の普通の人間として幸せになれるのか?それも「NO」である。やはり五体満足の人間にはなれない。


けれどもそれを払わないとするとその当事者は一生だれかの「荷物」「やっかいもの」として誰かがその養育のコストを払わされる。


そのコストのほうが訓練して自立させた場合よりもはるかに高い。


こうしたことを考えると援助をうけることを「甘えだ」というにはあまりに過酷過ぎ、コストが高すぎでたった一人の努力では手に終えない。

それは障害者だけでなく、片親家庭の場合もそうだ。今の日本のシステムで男性も女性も子供を独力で養えるだけのコストを払えるか、というと現実にはそうではない。だから、親に頼るという形になる。なんらかの援助がないと最終的に人間として壊れる。最近はそういう例が増えている。


「自分が育てない」=「甘え」だけれどもじゃあ、それは悪いことだからやめろ、一人前の人間としての資格がない、とはいいきれない非情な現実がここにある。

結論として「甘え」を「甘え」でなくすことは不可能である。そして理想どおりにきれいに生きることも不可能である。人間は生きている限りは誰かを傷つけるし、自分の傷つくし、迷惑をかけるし、「自業自得」の行動をたくさんする。世間様はそれに責任を代行してくれるために「甘え」かどうかなんていっているわけではない。所詮は他人事でしかない。人が人とかかわっている以上はどのような選択をしたとしても傷つき傷ついて当たり前。だからいちいち「傷ついた」ということ自体がナンセンスな話で大切なのはその痛みの向こうに何をつかんでどのような最良の選択をしたか、ということではないか、その痛みや屈辱のくやしさから何をつかんだか、ということだと考えるけれどどうだろう。