多様性は無秩序とは違う-家父長制

1.多様な家族と多様性のことを考えてみた。


今日の産経新聞に「父性の復権」の林道義の記事が載っていた。
私にとって「父性の復権」というのはほとんどバイブル的存在ではあったが、性同一性障害からみると彼の論点は不安をあおるようだ。たしか彼の性同一性障害に関する視点は

・先天的原因による性同一性障害は「例外」と考え、一般論のなかにはいれない。
(一般論と個別の議論は別で個別の議論を一般に適応させるのが問題ということ)
・しかし環境により自分の性自認が肯定できなくなったために起こる性同一性障害の発生は大問題でなんとかしないといけない。
・その原因は「男女の性差を否定した」教育にある。

ということである。

ただ、気になったのが最近ある傾向だが、「ジェンダーフリー=性差の否定」という考えだ。ジェンダーフリーって「性よりも個人をみること」ではなかったかな?「性差の否定=ジェンダーレス」で「ジェンダーフリー」は「男らしさ・女らしさ」の選択も肯定していなかったかな?

だから、男が自分らしいジェンダーとして昔かたぎのやくざ映画にでてくるような男を選択しても、女性が専業主婦や舞妓さんや銀座の一流ママ、あねごを選択してもそれも自分らしいジェンダーにならないかな?ただ、そのジェンダーは「他者依存性の強いジェンダー」だから「他者との関係性」にはリスクが高くあつかいには十分に気をつけないといけないが。個人の希望で「ジェンダーレスな人生」を選んでもいいし、ただ、それを全体主義的に「強制しない」ことが大事ではないかと思う。
いつからそんな話になったのだろう。

2.法事の会場で従兄弟の子供たちにあった。子供は大きくなるのが早いなあ。五体満足の男性だったら、その下の子と同じ年齢の子供がいてもおかしくないのだな、自分、と思う。しかし、離婚していたとはいえ父が生きていることと死んでしまったことでは意味合いがだいぶ違う。養育費は従兄弟の妹が払っているのでなんとかなっているが、大きな問題は「男性のモデル」が彼らの周辺にないことである。特に思春期を迎える男の子はいろいろある。それは「女性」ではわからないことが多くある。元妻は女性兄弟で育ち、「男の子」がわからない。話してみると実際に「思春期をむかえた上の男の子は悪い感情を制御できず、手が先にでる」など「不安材料」はあるようだ。そういう意味ではやはり「性別なんか関係ないよ」と私にはいえない。

3.やはり後継者問題は深刻だ。私の一族はめずらしく「家父長制」が残っており、そこで秩序ができている。だから8代目のはずの従兄弟がなくなっても周囲が助け合って「なんとかなっている」部分もある。そのシステムは「いわば引きこもりの伯父」のサポートにも有効に働いている。しかし今の「父がいて母がいて子供」という核家族を中心とした制度は実は意外ではあるがこうした「家父長制」にもやさしくない。残された子供の養育費も問題も「贈与」になってしまう可能性などをきちんとすべてかんがえないといけない。


(たとえば子供にとっての父の従兄弟が大学の費用を払ってくれるなどのパターンは贈与にはならないらしい。現金を渡すと贈与になるらしい。)

家族の多様性=同性愛カップル、シングルマザーを連想するが実は「家父長制」にも必要なのだ。核家族」のみの社会だと、個人が「国家依存」の存在になる。「核家族のみ」「個人のみ」で、たとえ「兄弟であっても個々がいきのびるだけで精一杯」になるから世の中にホームレスがあふれたり、福祉費用が爆発するのではない?また人間関係つくれない人間が増えるのでは?と考えるが。ちなみにまともに制度が機能していたら、家族病なんかもかかりにくくなる。

まあ、そのあたりはおりおり考えていこう。
とにかくいえるのは、多様性と無秩序は違う、ということ。
そこが「混同されて理解されているから」解決しない問題が多いのではないかな・・・