リーダーの素質 その2

私の研究テーマの根本にあるもののなかに「リーダーシップ能力」がある。リーダーシップに関する問題に関しては私は鬼といわれるほどの厳格さを求める傾向にある。

1:1の個々の人間関係であれば、たとえうつ病だろうかなんだろうが「個人の特性」として受け止め、たいていの場合、相手にあわせて付き合い方をかえることが多い。たとえば相手が「重度の聴覚障害」であれば、その人のコミュニケーションが楽になるように考えるし、うつ病であれば、「うつ病の人にあわせた」言葉を選ぶし、基本は相手の話す言葉と同じ言葉を話す。


東京で東京語、京都で京都語、九州で九州語、岡山語はキャラクター離れしすぎてしゃべることは少ないがそんな感じである。

1:1の個人であればけんかすることはなくほとんどこっちが譲歩する場合ほどんど90%以上である。大体「2番手」にいることのほうが多い。だから外見には昔から自分の意見をもたない人とみられるケースが圧倒的に多かった。

 しかし、それはあくまで「個人」の場合である。小さくとも活動家であったり組織だったりグループだったりなんからのリーダーである場合にはそうはいかない。個人の属性ではなく、その人の立場でものを考え、意見することが多い。それが「その人」という人間への「当たり前」の礼儀であり、「対等な人間」として接し方だと考えるからだ。逆に「何かに配慮しないと」話ができない状況では決して対等な人間関係など結ぶことはあらゆる視点で考えても不可能だし、そういう状況である場合にはリーダーになるべきではない。私のしては「当たり前の基礎的な話」をしているつもりだが、「厳しい」と直でいわれることが多いので「・・・」となるしかない。

賛否両論あると思う。

 が、相手が組織の長だったりするときは辛辣かつ徹底的にものもうしてけんかになることも多い。

 理由はたったひとつだ。「リーダー」であるということは他人の人生にもかかわることだからだ。他人の人生をあずかる以上、「個人の事情」などゆるされない。だから厳しいのだ。逆にいうとそこがわからない人が組織の長などやるべきではない。役員やリーダーなどというのは「自己顕示欲をみたす」ための道具ではない。他人の人生にかかわる以上、個人の自己啓発や人格、品格の研鑽などもはっきりいっ「義務」といっていいほどである。完璧をめざして「完璧」になれることは永遠にない。

 幼いときから「人の上に立つ仕事をする」ことに強い気持ちをもっていたことは、私が一番追求しつづけていたのは「正しい情報を正しくとれる能力」をもつことである。


リーダーに必要な能力のひとつの判断能力には正しい情報を正しく取得できることが重要である。ところが聴覚障害をもつ場合、正しい情報を正しく取得することがほとんどできないといってもいい。たとえ自分が正しいと思って取得した情報でも重要なことがもれていて間違った決定をくだしてしまうことが多い。「正しい決定をくだす」、そのために正しい情報を正しく取得すること、それが「必須」の項目だったのはいうまでもない。

 それが私の30年にわたる強いこだわりであった。


「そのために聴覚障害のために損失している30%の聴力分の情報を『自分たった一人の孤独の中で』どうやって補填するか。」その方法を研究してきた。